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それでもウリはあきらめない  作者: それウリ
第二章 勝利を書く記者

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第7話 帰ってこなかった朝



 ソウルの朝は、昨日より少し高い声で始まっていた。


 新聞社を出ると、冷えた空気の中に、湯気と油の匂いが立っていた。屋台の鉄板では、甘い生地が焼け、薄く焦げた砂糖の香りが歩道に流れている。バスが通り過ぎるたび、排気ガスがその匂いを押しつぶし、またすぐに、湯気の白さが戻ってきた。


 ユン・ソヨンは、カメラを肩にかけ、取材ノートを片手に歩いた。


 街は浮き立っていた。


 誰もが大声で騒いでいるわけではない。通勤客は相変わらず足早で、商店のシャッターはいつも通り重たい音を立てて上がり、バス停には眠そうな顔の学生たちが並んでいた。それでも、普段なら足元だけを見て歩く人々が、今日は新聞の見出しを覗き込んでいる。食堂のテレビの前では、店主と客が同じ画面を見上げていた。


 日韓共同開催決定。


 韓国、世界に認められる。


 見出しの大きな文字が、朝の光を受けて少し眩しかった。


 新聞売り場の前で、古いサッカーボールを抱えた少年が立っていた。


 さっき、ソヨンが写真を撮った少年だった。


 母親らしい女性は急いでいるようだったが、少年は動かない。剥げたボールを胸に抱え、新聞の見出しを食い入るように見つめている。ボールの白い皮はところどころめくれ、黒い模様も薄く擦れていた。何度も土の上を転がり、何度も靴に蹴られ、それでも捨てられずにいるボールだった。


 ソヨンは近づいた。


「サッカー、好きなの?」


 少年は驚いて顔を上げた。頬は寒さで赤くなっている。鼻の頭も少し赤い。


「はい」


 小さな声だった。


 母親がソヨンの腕章を見て、記者だと気づいたらしく、少し身構えた。


「新聞の方ですか」


「はい。スポーツ紙です。少しだけ、お話を聞いてもいいですか」


 母親は少年を見た。少年は、ボールを抱える腕に力を入れながら、こくりと頷いた。


「韓国でワールドカップが開かれること、どう思う?」


 ソヨンが尋ねると、少年はしばらく考えた。


 子どもらしい即答ではなかった。言葉を選んでいるというより、胸の中にある大きすぎるものを、どのくらいの大きさで口から出せばいいか分からないようだった。


「韓国の試合を、韓国で見たいです」


 少年は言った。


「テレビじゃなくて、本当に、見たいです」


「スタジアムで?」


「はい」


「誰と行きたい?」


 少年は母親を見た。


「お母さんと。あと、お父さんも」


 母親が少し笑った。


「お父さんは仕事ばかりだけどね」


「でも、ワールドカップなら行くよ」


 少年は強く言った。


 母親は困ったように笑いながらも、その顔には嬉しさが滲んでいた。仕事に追われ、家計を数え、日々を細かく折りたたむように生きている人間が、ふと遠くの光を見上げたときの顔だった。


 ソヨンはノートに書いた。


 韓国の試合を、韓国で見たい。

 母と父と行きたい。


 その文字を書きながら、胸の奥が少し温かくなった。


 この子の願いは本物だった。


 政府が作った標語ではない。官僚の発表文でもない。新聞が飾る見出しでもない。ただ、古いボールを抱えた少年の中にある、まっすぐな願いだった。


 ソヨンはもう一度、少年のボールを見た。


 剥げた表面。擦り切れた縫い目。指で触れれば、硬く乾いた感触が返ってきそうだった。


 自分も、父とサッカーを見たことがある。


 ふいに、そんな記憶が胸に浮かんだ。


     *


 父は、サッカーが好きだった。


 熱心な専門家ではなかった。細かな戦術を語るわけでも、海外リーグの選手名を何十人も覚えているわけでもない。ただ、代表戦の日には少し早く帰り、テレビの前に座った。


 幼いソヨンは、父の横で膝を抱えていた。


 父のシャツからは、外の風と煙草と、少しだけ汗の匂いがした。仕事から帰ってきたばかりの男の匂いだった。母は台所で夕食の支度をしながら、テレビの歓声が大きくなるたびに「また騒いで」と言った。


 父は笑っていた。


「ソヨン、見てみろ。ボールはな、足だけで追うんじゃない。頭で追うんだ」


 幼いソヨンには、意味が分からなかった。


 ただ、父の横顔が嬉しそうだったことだけを覚えている。


 試合で韓国が攻め込むと、父は膝を叩いた。惜しいシュートが外れると、畳の上で大きくのけぞった。点が入れば、近所に聞こえるくらいの声を出した。


 母が台所から怒る。


「そんなに騒いだら、下の階に響くでしょう」


「今日は特別だ」


 父はいつもそう言った。


 特別な日。


 サッカーには、ときどき家の空気を変える力があった。


 父の給料が上がらない月も、母が家計簿の前でため息をついた夜も、テレビの中でボールが動き出すと、父の顔だけは少し明るくなった。


 だからソヨンは、サッカーが嫌いではない。


 むしろ、嫌いになれなかった。


 父の記憶の中に、サッカーの光が混じっているからだ。


 そして、その父はもういない。


     *


 ソヨンは少年と母親に礼を言い、次の取材先へ向かった。


 市場の入口では、魚を並べる女性たちが、いつもより大きな声で話していた。水を撒いた床は黒く濡れ、蛍光灯の光をぬらぬらと反射している。魚の生臭さ、氷の匂い、唐辛子の赤い匂い、濡れたゴム長靴の匂いが混じっていた。


 中年の女性が、濡れた手をエプロンで拭きながらソヨンの質問に答えた。


「そりゃ嬉しいですよ。息子がサッカーをやってるんです。毎日、膝を泥だらけにして帰ってくる。韓国でワールドカップがあるなんて、夢みたいじゃないですか」


「不安はありませんか。施設整備や、安全面など」


 ソヨンが尋ねると、女性は一瞬だけ眉を寄せた。


「不安?」


「大きな大会ですから」


「まあ、大変でしょうね。でも、国がやるんでしょう? ちゃんとするでしょう」


 女性はそう言って、笑った。


 その笑顔には、悪意も無知もなかった。


 生活の中で、信じるしかないものがある。


 橋が落ちないこと。

 電車が止まらないこと。

 病院が開いていること。

 役所が嘘をつかないこと。

 国が、国民を危ない場所へ座らせないこと。


 人は、それらを毎朝一つ一つ疑いながら生きてはいられない。


 だから信じる。


 信じて、魚を売り、子どもを学校へ送り、バスに乗り、橋を渡る。


 ソヨンはノートに書いた。


 国がやるんでしょう? ちゃんとするでしょう。


 その一文を見つめると、ペンの先が少し止まった。


 父も、そう思っていたのだろうか。


 橋を渡るとき、橋が落ちるかもしれないとは思わなかったはずだ。


 誰も、そんなことは考えない。


 考えなくていい社会でなければならない。


 市場を出るころには、コートの袖に魚と氷の匂いが染みついていた。


 ソヨンは歩きながら、手帳の端を指でこすった。紙の角が少し湿っている。市場の水気を吸ったのか、自分の指先の汗なのか分からなかった。


     *


 次に乗ったタクシーの運転手は、五十代ほどの男だった。


 車内には、古いビニールシートと煙草の匂いがこもっていた。ダッシュボードには小さな国旗が挟まれている。ラジオでは、共同開催決定のニュースが繰り返し流れていた。


「記者さんか」


 運転手はバックミラー越しにソヨンを見た。


「はい。少しお話を聞いてもいいですか」


「ワールドカップのことだろ」


「ええ」


 運転手は鼻で笑った。


「みんな、その話ばかりだ。今朝は客も機嫌がいい。渋滞しても、いつもほど怒らない」


「運転手さんは、どう思いますか」


「いいことだろう。日本だけじゃなくなった。韓国もやる。そういうことだ」


 彼の声には、単純な誇りがあった。


「準備は大変では?」


「大変だろうな。でも、大変じゃないことなんかあるか。国も人間も、背伸びしなきゃ大きくならない」


 タクシーは大通りへ出た。


 窓の外を、バスが横切る。車内には通勤客が詰め込まれていた。曇った窓の向こうに、人々の顔がぼんやり並んでいる。眠そうな顔。新聞を読む顔。外を見る顔。手すりにつかまる手。膝に置かれた鞄。


 全員が、どこかへ向かっている。


 全員が、夜にはどこかへ帰るつもりでいる。


 ソヨンは、そのバスから目を離せなかった。


「記者さん?」


 運転手の声で、彼女は我に返った。


「すみません」


「考えごとか」


「少し」


「若いのに大変だな」


 運転手は笑った。


「でも、今日はいい記事を書いてくれよ。あんまり難しいことじゃなくてな。みんな、喜びたいんだから」


 みんな、喜びたい。


 その言葉は、ソヨンの胸に重く残った。


 それは責めではない。


 願いだった。


 疲れた生活の中で、人々は喜びを欲している。


 勝利を欲している。


 自分たちの国が、世界から認められたと思える朝を欲している。


 それを奪う権利が、自分にあるのか。


 ソヨンは答えを出せなかった。


 タクシーが橋に差しかかった。


 川の上を渡る。


 鉄の継ぎ目をタイヤが踏むたび、車体が小さく震えた。ごとん、ごとん、と規則的な音が足元から伝わってくる。窓の外には、灰色の川が流れていた。朝の光を受けても水面は明るくならず、薄い鉄板のように鈍く光っている。


 ソヨンの指が、膝の上で固まった。


 橋の上では、体が少しだけこわばる。


 もう何年も経っている。


 それでも、橋を渡るとき、彼女の体は勝手に事故の日を思い出す。


 足元が抜けるかもしれないという恐怖ではない。


 むしろ、父が最後に見たかもしれない空の色を、想像してしまうのだ。


 橋が落ちる瞬間、父は何を見たのか。


 川か。

 車の窓か。

 前を走るバスか。

 それとも、ただ何が起きたのか分からないまま、世界が傾いたのか。


 タクシーは橋を渡り終えた。


 車体の震えが止まる。


 ソヨンは、いつの間にか息を詰めていたことに気づいた。


 ゆっくり息を吐く。


 車内の煙草の匂いが、肺に入った。


     *


 父が帰ってこなかった朝は、普通の朝だった。


 そのことを、ソヨンは何度も思い出す。


 特別な予兆はなかった。


 空が不吉な色をしていたわけでも、母が茶碗を落としたわけでも、父が変なことを言ったわけでもない。


 朝の台所には、味噌汁の湯気が立っていた。


 煮干しの匂い。少し焦げた卵焼き。白いご飯。母が急いで切ったキムチ。父の湯呑みから立つ薄い湯気。


 幼いソヨンは、眠気で目をこすりながら食卓についていた。制服の襟が首に当たり、少し固かった。前の晩に母が干した靴下は、まだ完全には乾いておらず、足首のあたりが冷たかった。


 父は新聞を読んでいた。


 紙をめくる音がする。


 テレビは小さな音で朝のニュースを流している。


 母が言った。


「急がないと遅れるわよ」


 父は時計を見た。


「分かってる」


 そう言いながら、味噌汁を飲んだ。


 それから、立ち上がった。


 上着を羽織る。

 鞄を持つ。

 玄関へ向かう。


 革靴を履くとき、父はいつも片足を少し乱暴に入れた。靴べらを使うのが面倒なのだ。母が毎朝のように注意する。


「踵が潰れるわよ」


「急いでるんだ」


「毎朝それ」


 父は笑った。


 その笑い声は、今でもソヨンの耳に残っている。


 玄関の扉が開くと、外の冷たい空気が家の中へ入ってきた。冬ではなかったはずなのに、その朝の空気だけはなぜか冷たく記憶されている。


 父は振り返った。


「行ってくる」


 それだけだった。


 それが最後の言葉になった。


 幼いソヨンは、口いっぱいにご飯を入れたまま、手だけを振った。


 父は扉を閉めた。


 鍵の音がした。


 そのあとも、朝は普通に続いた。


 母は食器を洗い、ソヨンは学校へ行く準備をした。テレビでは天気予報が流れ、近所の犬が吠え、上の階で誰かが掃除機をかけていた。


 普通の朝だった。


 だからこそ、壊れたときの音が大きかった。


     *


 昼前、学校の教室がざわついた。


 先生が廊下で別の先生と何かを話していた。子どもたちは最初、何か事件があったらしいとだけ感じ取った。誰かが「橋が落ちたらしい」と言った。別の誰かが「車が川に落ちたんだって」と言った。


 橋が落ちる。


 その言葉の意味が、ソヨンにはすぐには分からなかった。


 橋は、渡るものだ。


 そこにあるものだ。


 落ちるものではない。


 家に帰ると、母が電話の前に座っていた。


 顔が白かった。


 テレビには、壊れた橋の映像が映っていた。


 川の上で、道が途中からなくなっている。車が傾いている。救助隊員が走っている。画面の端に、泣いている人の顔が映る。アナウンサーの声が早口で、何度も同じ地名を繰り返していた。


 母は受話器を握っていた。


「まだ分からないんです。主人が、その時間に……はい、はい……」


 母の声は震えていた。


 近所の人が来た。


 誰かが水を持ってきた。


 誰かが母の肩を抱いた。


 部屋の中に、人の汗と涙と畳の匂いがこもった。味噌汁の残り香もまだあった。朝に父が飲んだ湯呑みが、台所の隅に置かれていた。


 ソヨンは、それを見た。


 父の湯呑み。


 中は空だった。


 それなのに、父だけが帰ってこない。


 その夜、家の電話は何度も鳴った。


 母は何度も受話器を取った。


 ソヨンは畳の上に座って、テレビの画面を見ていた。


 橋。


 川。


 車。


 救助隊員。


 泣く人。


 その映像が繰り返し流れる。


 何度見ても、父は映らなかった。


 映らないから、どこかで生きているのではないかと思った。


 けれど、父は帰ってこなかった。


     *


 タクシーは目的地に着いた。


「着いたよ、記者さん」


 運転手の声で、ソヨンは現実へ戻った。


 料金を払い、車を降りる。外の空気は少しだけ温んでいた。朝より人が増え、歩道には新聞を持つ人々が行き交っている。


 ソヨンは道の端で立ち止まった。


 さっき渡った橋の方向を振り返る。


 車が流れている。


 バスが渡る。

 タクシーが渡る。

 トラックが渡る。

 誰かの父が渡る。

 誰かの母が渡る。

 誰かの子どもが渡る。


 その全員が、国のために橋を渡っているわけではない。


 ただ、会社へ行くため。

 学校へ行くため。

 市場へ行くため。

 病院へ行くため。

 家へ帰るため。


 ソヨンは取材ノートを開いた。


 ページには、市民の言葉が並んでいる。


 韓国の試合を、韓国で見たい。

 国がやるんでしょう? ちゃんとするでしょう。

 みんな、喜びたいんだから。


 どれも本物だった。


 その本物の喜びの横に、彼女は別の一文を書いた。


 人は、国家のために橋を渡るのではない。家に帰るために渡る。


 書き終えたあと、しばらくその文字を見つめた。


 この一文は、今日の記事には入らないかもしれない。


 デスクは重いと言うだろう。

 読者は勝利を読みたいと言うだろう。

 編集部はもっと明るい言葉を求めるだろう。


 それでも、ソヨンは書いた。


 書かないと、また誰かが「過去は克服された」と言う。


 書かないと、父の死が「教訓」という言葉にしまわれる。


 書かないと、街で笑っていた少年が、ただの熱狂の素材になってしまう。


 ソヨンはノートを閉じた。


 表紙の角は少し擦り切れている。手のひらに、紙と革の混じった感触が残った。


 遠くで、またバスが橋へ向かって走っていく。


 窓際に座った子どもが、曇ったガラスに指で何かを書いていた。すぐに白く消えてしまう文字だった。


 ソヨンはそのバスを見送った。


 共同開催の喜びは、本物だ。


 それを疑うことは、彼女にはもうできなかった。


 だからこそ、問わなければならない。


 この人たちが、笑ってスタジアムへ行き、笑って家に帰ってこられるのか。


 安全を問うとは、熱狂を壊すことではない。


 熱狂した人々を、最後まで帰すことだ。


 ソヨンは走り去るバスを見送りながら、父が帰ってこなかった朝の匂いを、まだ自分の中に嗅いでいた。

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