第8話 安全は反国家か
政府庁舎の会見場は、外の街よりも明るかった。
明るすぎる、とソヨンは思った。
天井に並んだ蛍光灯は、曇り空の午後をまるで信用していないように、白い光を容赦なく降らせていた。その光は記者たちの額の汗を浮かび上がらせ、配られた資料の紙を青白く照らし、壇上に置かれたマイクの金属部分を冷たく光らせている。
部屋には、乾いた紙の匂いが満ちていた。
印刷されたばかりの発表資料。
記者たちの手帳。
折り畳まれた新聞。
カメラマンが床に置いた機材ケース。
そこへ、煙草の匂いと、人の体温と、紙コップのコーヒーの酸っぱい匂いが混じる。会見場の空気は乾いているはずなのに、人が多いせいで、少し湿っていた。
ソヨンは後方の席に腰を下ろした。
椅子は硬かった。背もたれの金属が薄い上着越しに冷たく、座るとほんのわずかに軋んだ。彼女は膝の上に取材ノートを置き、ペンを挟んだ。
ノートの前のページには、午前中の街頭取材で書いた言葉が残っている。
韓国の試合を、韓国で見たい。
国がやるんでしょう? ちゃんとするでしょう。
みんな、喜びたいんだから。
人は、国家のために橋を渡るのではない。家に帰るために渡る。
最後の一文を、彼女は指先でなぞった。
紙の表面は少しざらついていた。市場で手帳を開いたときに、湿った空気を吸ったのかもしれない。ペンの跡が、わずかにへこんでいる。
周囲の記者たちは、いつもより声が高かった。
「開幕戦、取れると思うか?」
「日本側が黙ってないだろ」
「共同開催って言っても、主導権争いはこれからだな」
「でも、今日は祝賀ムードだ。変な質問すんなよ」
誰かがそう言って笑った。
変な質問。
ソヨンはペンを握った。
自分がこれから聞こうとしていることは、その「変な質問」に入るのだろうか。
壇上には、すでにマイクが並べられていた。黒いスポンジのついたマイク、銀色のマイク、放送局のロゴがついたマイク。それらが細い首をこちらへ向けている。まるで、これから語られる言葉を逃さず吸い込もうとしている小さな生き物の群れのようだった。
壁の横には、政府職員たちが立っていた。
その中に、若い官僚が一人いる。
昨日のテレビで見た顔だった。
背は高すぎず、低すぎない。濃い色のスーツを着て、髪はきちんと整えられている。目の下には疲労の影があるが、姿勢は崩れていない。胸元のネクタイも、手に持った資料も、すべてが正しく整えられていた。
ハン・ミンジュン。
ソヨンは、受付で配られた資料の末尾に印刷された担当者名で、その名前を知っていた。
若い官僚。
共同開催決定の裏で、国民向けの言葉を整えた側の人間。
彼の目には、誇りがあった。
それはソヨンにも分かった。
嘘をついている人間の目ではない。むしろ、信じている人間の目だった。韓国が前へ進むことを信じ、国民に希望を見せることを信じ、自分がそのために働いていることを信じている。
だからこそ、ソヨンは胸の奥が少し冷えるのを感じた。
信じている人間の言葉は強い。
たとえその言葉が何かを覆い隠していても、本人が信じていれば、それは嘘よりも滑らかに人々の中へ入っていく。
会見開始の時刻になった。
壇上に、政府の説明者が立った。
五十代前半の男だった。広い額に薄い汗を浮かべている。表情は落ち着いていたが、口元には抑えきれない高揚があった。彼の横には数人の幹部が並び、少し後ろにチェ・ギュンスがいた。ギュンスは腕を組まず、資料を手にして立っている。顔には何も出ていない。だが、部屋全体の温度を測っているような目をしていた。
さらに後ろに、ミンジュンがいた。
彼は資料を抱え、必要があれば壇上へ紙を渡せる位置に控えている。
説明者がマイクへ向かった。
マイクのスイッチが入る小さな音がした。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
会見場のざわめきが静まった。
ソヨンはペンを構えた。
「すでに報道されております通り、二〇〇二年ワールドカップは、日本と韓国による共同開催として決定されました」
その言葉が改めて発せられると、会場に小さな波が走った。
誰かがノートに大きく線を引く。
カメラのシャッターが鳴る。
テレビカメラの赤いランプが点灯する。
説明者は続けた。
「これは、韓国の長年にわたる準備努力と、国民的熱意が国際社会に高く評価された結果であります」
ソヨンは、書いた。
準備努力。
国民的熱意。
国際社会に高く評価。
昨日から何度も聞いた言葉だった。
磨かれた石のような言葉。
角がなく、冷たく、手触りがいい。
「また、日韓両国が手を携え、アジア初のワールドカップを開催することは、過去を越え、未来へ進むアジアの連帯を象徴するものです」
過去を越え。
ソヨンのペンが止まった。
過去。
その一語が、会見場の白い光の中で、ひどく軽く響いた。
過去とは、何だろう。
年表に載る出来事か。
報告書に綴じられた事故か。
式典で黙祷される名前か。
それとも、朝出かけた父が帰ってこなかった部屋の匂いか。
過去を越える。
誰が、誰の過去を越えたと言うのか。
説明者の声は滑らかだった。
「韓国政府は、大会の成功に向け、関係機関と緊密に連携し、万全の体制で準備を進めてまいります」
万全の体制。
ソヨンはその言葉にも線を引いた。
万全という言葉ほど、怖いものはない。
万全は、しばしば具体的な穴を隠す布になる。
誰が確認するのか。
どの施設を見るのか。
どの基準で判断するのか。
責任者は誰なのか。
危険が見つかったとき、工期や面子より安全を優先できるのか。
そういう問いを全部丸めると、「万全」になる。
会見の冒頭説明は、拍子抜けするほど整っていた。
記者たちは忙しくメモを取り、カメラマンたちは一定のリズムでシャッターを切っている。フラッシュが光るたび、壇上の顔が白く飛んだ。人間の表情から血の色が消え、紙の上の人物写真のようになる。
質疑応答に入った。
最初に手を上げたのは、大手紙のベテラン記者だった。
「開幕戦および決勝戦の誘致について、現時点で政府としてどのような方針をお持ちでしょうか」
説明者は、待っていたように答えた。
「具体的な試合配分については、今後、FIFAおよび日本側との協議を通じて決定されます。韓国としては、共同開催国にふさわしい役割を担えるよう、全力で交渉してまいります」
次の記者が手を上げる。
「日本側との実務調整は、どのような枠組みで行われる予定ですか」
「日韓両国の関係機関による協議体を設置し、円滑な大会準備を進めます」
別の記者。
「経済効果について、政府はどの程度を見込んでいますか」
「観光、投資、雇用、地域活性化など、直接・間接に大きな効果が期待されます。具体的な試算は今後精査し、適切な時期に公表いたします」
質問は続いた。
開幕戦。
経済効果。
日本との役割分担。
国民へのメッセージ。
代表チーム強化。
スタジアム建設による地域発展。
どの質問も、祝賀の流れの中にあった。
質問というより、勝利の輪郭をなぞるための確認だった。
ソヨンは、周囲を見た。
記者たちは悪意なく、その流れに乗っている。
当然だった。
今日は共同開催決定直後の会見だ。読者は日本との役割分担を知りたい。開幕戦が韓国で行われるかを知りたい。経済効果を知りたい。韓国がどれほど世界に認められたのか、その証拠を欲しがっている。
ソヨン自身も、午前中に街でその顔を見た。
古いボールを抱えた少年。
市場の女性。
タクシー運転手。
みんな、喜びたいのだ。
その喜びは本物だった。
だから、彼女の質問は重い。
重いものを、軽い空気の中へ投げ込むことになる。
ソヨンはペンを握り直した。
指先に汗が滲んでいた。ペンの軸が少し滑る。彼女は膝の上で手を拭い、もう一度握った。
説明者が言った。
「ほかにご質問はありますか」
数人の記者が手を上げた。
ソヨンも手を上げた。
説明者の目が会場を動き、彼女のところで止まった。
「そちらの方」
視線が集まった。
ソヨンは立ち上がった。
椅子が床をこすり、短く鳴った。
「大韓スポーツ新聞のユン・ソヨンです」
自分の声は思ったより落ち着いていた。
会見場の空気は白く、乾いていた。遠くで誰かのカメラが小さく鳴った。壇上の後ろに立つミンジュンが、初めて彼女の方をはっきり見た。
ソヨンは質問を読み上げるのではなく、一語ずつ置くように話した。
「韓国は近年、聖水大橋崩壊事故、三豊百貨店崩壊事故を経験しています」
その瞬間、会場の温度が変わった。
音が、一つ減ったように感じた。
記者たちのペン先が止まり、何人かが顔を上げる。カメラマンの一人が、少しだけ肩の位置を変えた。壇上の説明者の口元から、直前まであった柔らかさが消えた。
ソヨンは続けた。
「今回、世界中から観客を迎えるにあたり、スタジアム、交通施設、橋梁、避難導線の安全確認について、政府は具体的にどのような独立検証を行う予定でしょうか」
会場の空気は、さっきまでの祝賀の熱を失っていた。
冷水を落としたような沈黙があった。
説明者は、すぐに答えなかった。
ほんの一拍。
しかし、その一拍の間に、ソヨンには多くのものが見えた。
隣の幹部が視線だけを動かす。
ギュンスがわずかに顎を引く。
ミンジュンが手元の資料を開く。
記者たちが、彼女の次の言葉を待つ。
説明者は咳払いをした。
「ご指摘の過去の事故については、政府としても大変重く受け止めております」
その声は、さっきまでより少し低かった。
「韓国政府は、それらの事故から得た教訓を踏まえ、安全管理体制を強化してまいりました。ワールドカップ関連施設についても、関係機関と連携し、国際基準に照らして万全の確認を行う方針です」
ソヨンはメモを取らなかった。
その答えを、彼女は予想していた。
重く受け止めている。
教訓を踏まえ。
安全管理体制を強化。
関係機関と連携。
国際基準。
万全。
言葉は揃っている。
だが、誰の名前もない。
施設名もない。
期限もない。
責任の形もない。
ソヨンは再び口を開いた。
「安全管理を強化した、という表現ではなく、誰が、どの施設を、どの基準で、いつまでに確認するのかを伺っています」
会見場がざわついた。
誰かが小さく息を吐いた。後方の記者が隣の記者に何か囁いた。マイクの近くで紙がめくられる音がした。
壇上の説明者の眉が、わずかに動いた。
ミンジュンが一歩近づき、手元の紙に何かを書いた。
彼のペン先は速かった。
政府横断で対応。
国際基準を踏まえた検証。
関係機関と協議。
過去の教訓を踏まえた万全の体制。
彼はそのメモを、そっと説明者の横に差し出した。
説明者は視線だけでそれを読み、頷いた。
「具体的な検証体制については、今後、関係省庁、地方自治体、専門機関を含めた協議の中で詰めてまいります。現時点では、政府横断の体制を構築し、国際基準を踏まえ、必要な点検を行う方針です」
ソヨンは、その言葉を聞きながら、ミンジュンを見た。
彼は表情を崩していない。
だが、目が硬くなっている。
この質問を快く思っていない。
それはすぐに分かった。
ソヨンは、彼が嫌いになりそうだった。
まだ一言も直接話していないのに。
だが、その嫌悪は単純なものではなかった。
彼は、安全を軽視している悪人には見えない。むしろ、本気で国のために働いているように見える。国民の歓喜を守ろうとしているように見える。
だからこそ、彼の整えた言葉が怖かった。
信念のある人間が作る曖昧な言葉は、よく切れる刃物を布で包んだようなものだ。
見た目は柔らかい。
しかし、触れれば血が出る。
ソヨンはさらに尋ねた。
「独立した第三者による検証は予定されていますか」
説明者の顔が少しこわばった。
「専門家の知見を取り入れることは当然検討されます」
「検討ではなく、実施するのですか」
「必要に応じて、適切に判断します」
「判断するのは、どの機関ですか」
会場のざわめきが大きくなった。
別の記者が小さく笑った。
「しつこいな」
誰かの声が、ソヨンの耳に届いた。
しつこい。
そうかもしれない。
だが、橋は一度落ちれば終わりだ。
しつこく聞かなかったから、落ちたのではないのか。
ソヨンの脳裏に、父の湯呑みが浮かんだ。
朝、台所の隅に置かれていた空の湯呑み。
父は味噌汁を飲み、新聞を読み、革靴を履き、家を出た。
そのあと、橋を渡った。
ただ、それだけだった。
説明者は、少し硬い声で言った。
「大会成功に向け、政府として責任を持って対応いたします」
そこで終わらせるつもりだった。
ソヨンには分かった。
会見の流れを、これ以上冷やしたくないのだ。
祝賀の場に戻したいのだ。
次の記者へ移りたいのだ。
だが、ソヨンはまだ座らなかった。
彼女はノートを閉じた。
手の中のペンが、かすかに震えている。
怒りなのか、緊張なのか、自分でも分からなかった。
「過去の教訓という言葉は、何度も聞きました」
彼女は言った。
声は大きくなかった。
それでも、会見場の奥まで届いた。
「ですが、亡くなった人々は、教訓になるために橋を渡ったわけではありません」
会場が静まり返った。
今度の沈黙は、さっきより深かった。
蛍光灯の微かな唸りが聞こえる。
テレビカメラの機械音が低く鳴っている。
誰かが息を吸う音まで分かる。
ソヨンは続けた。
「世界中から人が来ます。観客席に座ります。階段を下ります。橋を渡ります。地下鉄に乗ります。その一つ一つについて、具体的な責任の所在を示すことが、大会成功の前提ではないでしょうか」
説明者は答えなかった。
いや、答えられなかった。
その沈黙の中で、ソヨンはミンジュンを見た。
ミンジュンも、彼女を見ていた。
彼の表情には、怒りがあった。
抑えた怒り。
若い官僚らしい、礼儀の中に押し込められた怒りだった。
彼には、ソヨンがこの場を壊しているように見えているのだろう。
国民がようやく前を向いた日に、過去の瓦礫を持ち込む記者。
韓国の勝利に、冷たい水を浴びせる記者。
希望より不安を選ぶ記者。
ソヨンには、その視線の意味が分かった。
だから、心の中で言った。
違う。
私は希望を壊したいわけではない。
希望を、瓦礫の上に置かないでほしいだけだ。
説明者がようやく口を開いた。
「ご懸念は理解いたしました」
その声は、官僚的に整っていた。
「安全対策は大会成功の重要な柱であり、政府としても真摯に取り組んでまいります。具体的な内容については、準備の進捗に応じて、適切に公表してまいります」
それ以上の答えは出なかった。
ソヨンは、静かに座った。
椅子が再び短く軋んだ。
隣に座っていた記者が、小声で言った。
「勇気あるな」
それが褒め言葉なのか、呆れなのかは分からなかった。
ソヨンは答えなかった。
膝の上でノートを開く。
ペン先を紙に当てる。
だが、すぐには何も書けなかった。
指先に、父の写真の感触が残っているような気がした。
*
会見は、その後も続いた。
ほかの記者たちは、再び祝賀の流れに戻そうとした。
「日本側との連携について、政府の期待は?」
「国民へのメッセージを改めてお願いします」
「代表チーム強化への支援は検討されますか」
説明者は、ほっとしたように答えた。
アジアの連帯。
国民的熱意。
大会成功。
未来への一歩。
会見場の空気は、少しずつ元の温度を取り戻していった。
だが、完全には戻らなかった。
ソヨンの質問が落とした冷たい染みは、床のどこかに残っていた。誰もそれを踏みたがらないだけだった。
ミンジュンは壇上の後ろで、資料を持ったまま立っていた。
彼は、会見の流れに集中しようとしていた。
説明者に必要な数字を渡す。
次に来そうな質問を予測する。
誤解されやすい表現を避ける。
発言が不用意に広がらないよう、メモを準備する。
それが仕事だった。
だが、ソヨンの言葉が耳に残っていた。
亡くなった人々は、教訓になるために橋を渡ったわけではありません。
その言葉は、会見場の空気と合わなかった。
あまりにも生々しかった。
政府の発表文には入らない言葉だった。
国民向けの資料にも、想定問答にも、記者向け説明にも、そんな言葉は書かれていない。
だからこそ、耳に残った。
ミンジュンは、苛立っていた。
今日この場で、なぜその話をするのか。
韓国はようやく、世界に認められた。
日本だけに大会を渡さなかった。
国民は喜んでいる。
街は熱を持っている。
その熱を守るために、自分たちは徹夜で文書を作り、言葉を整え、国内外の調整を進めている。
安全を軽視しているわけではない。
そんなことはあり得ない。
だが、すべての不安を今ここで広げることが、国民のためになるのか。
ミンジュンには、ソヨンの質問が、勝利の旗に泥を投げつける行為に見えた。
同時に、彼は自分がそう感じていることにも気づいていた。
勝利の旗。
泥。
その比喩自体が、問題を物語に変えている。
彼女が問うたのは旗ではない。
人が座る場所だった。
ミンジュンは、その考えをすぐに押し戻した。
いま考えることではない。
会見中だ。
説明者が最後の質問に答えた。
「韓国政府は、国民の皆様とともに、この歴史的な大会を必ず成功へ導いてまいります」
その言葉で、会見は締めくくられた。
拍手は起きなかった。
記者会見だから当然だ。
だが、部屋の空気にはどこか式典の後のような疲れがあった。
椅子が動く音。
記者たちが立ち上がる音。
カメラの脚を畳む金属音。
資料を鞄へ押し込む紙の音。
誰かが紙コップを潰す音。
会見場は、言葉が使われた後の匂いになった。
熱いコーヒーが冷め、煙草の煙が薄くなり、人の体温だけが残る。壇上のマイクはもう黙っている。あれほど多くの言葉を吸い込んだのに、何も覚えていないような顔をしていた。
ソヨンは、周囲の記者たちより少し遅れて立ち上がった。
ノートを鞄にしまう。
指先が少し冷えていた。
会見場の出口へ向かう途中、彼女はもう一度壇上側を見た。
ミンジュンが、こちらを見ていた。
二人の視線が合った。
数秒にも満たなかった。
だが、その短い時間の中に、互いの苛立ちがはっきりあった。
ソヨンは目を逸らさなかった。
ミンジュンも逸らさなかった。
先に視線を切ったのは、ソヨンだった。
彼女は出口へ向かった。
*
廊下に出ると、会見場より少し空気が冷たかった。
蛍光灯の光は相変わらず白いが、人が少ないぶん、床の光沢が目立つ。記者たちの靴音が廊下に響き、カメラマンの機材が壁に軽くぶつかった。
ソヨンの耳には、まだ自分の声が残っていた。
亡くなった人々は、教訓になるために橋を渡ったわけではありません。
言ってしまった。
そう思った。
後悔ではない。
だが、言葉は口にした瞬間、自分だけのものではなくなる。
記者たちの耳に入り、政府側の記録に残り、誰かの机の上で「扱いづらい質問」として分類される。デスクには「重い」と言われるかもしれない。紙面では短く削られるかもしれない。
それでも、言った。
父の死を、教訓という言葉だけで丸められたくなかった。
ソヨンは廊下の窓際で立ち止まった。
窓の外には、庁舎前の広場が見える。朝ほどではないが、まだ数人の報道陣と通行人がいる。空は薄く曇り、ビルの壁面に当たる光は鈍い。遠くの道路をバスが走っていた。
あのバスにも、誰かが乗っている。
誰かの父が。
誰かの母が。
誰かの子どもが。
その人たちは、国の物語のために生きているわけではない。
ただ、今日を終えて、家に帰るために生きている。
ソヨンは取材ノートを取り出した。
新しいページを開く。
そこに、会見で聞いた言葉を書き写した。
政府として責任を持って対応。
関係機関と連携。
国際基準を踏まえ。
適切に公表。
その下に、自分の字で書いた。
責任とは、誰の名前で書かれるのか。
書き終えたとき、背後で誰かが彼女の名前を呼んだような気がした。
振り返る。
廊下の向こうに、ミンジュンがいた。
彼は資料を抱えたまま、こちらへ歩いてくる。
足音は硬かった。
ワックスのかかった床に、革靴の底が規則的に触れる。
ソヨンはノートを閉じた。
次に来る言葉が、穏やかなものではないことを、彼女はもう分かっていた。
ミンジュンは彼女の前で立ち止まった。
近くで見ると、彼はテレビや壇上で見たより若く見えた。
疲れている。
目の下に薄い影がある。指先には、赤鉛筆の粉のようなものがかすかに残っていた。徹夜で紙と格闘した人間の手だった。
だが、その目には怒りがある。
彼は丁寧に名乗った。
「文化体育部のハン・ミンジュンです」
ソヨンも、名乗った。
「大韓スポーツ新聞のユン・ソヨンです」
短い沈黙。
廊下の向こうで、記者たちの笑い声がした。
共同開催を祝う軽い声だった。
その笑い声が、二人の間だけを避けて通り過ぎたように感じられた。
ミンジュンは低い声で言った。
「先ほどの質問について、少しお話しできますか」
ソヨンは頷いた。
「もちろんです」
そう答えながら、彼女は胸の奥で、もう一度父の声を聞いた気がした。
行ってくる。
たったそれだけの、最後の言葉。
ソヨンはノートを強く握った。
会見は終わった。
だが、本当の対話は、まだ始まってもいなかった。




