第6話 勝利を書く朝
編集部の朝は、夜の続きの匂いがした。
窓の外では、ソウルの空が白く濁り始めている。夜明けの光はまだ弱く、ビルの谷間に溜まった冷たい空気を押しのけるほどの力はなかった。道路を走るバスのエンジン音が、ガラス越しに低く震えて届く。新聞を積んだバイクが路地を曲がるたび、湿ったアスファルトの上でタイヤが短く鳴った。
スポーツ紙の編集部には、すでに人がいた。
いや、正確には、昨夜から帰っていない人間が残っていた。
机の上には、空になった紙コップがいくつも転がっている。底に黒く乾いたコーヒーの跡。灰皿から溢れかけた吸い殻。開きっぱなしの取材ノート。折れた赤鉛筆。カメラのフィルムケース。電話機のコードは、机と机の間で黒い蔓のように絡み合っていた。
床には新聞の束が積まれている。
印刷されたばかりの紙からは、まだインクの匂いが立っていた。湿った紙と油っぽいインク、煙草、冷めたコーヒー、誰かが食べ残した即席麺のスープ。それらが混ざり、編集部の空気は重く、少し酸っぱかった。
だが、その朝の重さは、いつもの疲労とは違っていた。
部屋全体が、興奮でざらついている。
壁際のテレビでは、同じ映像が何度も流れていた。
ソウルの広場で、若者たちが国旗を振っている。市場の女性が笑っている。食堂の客たちがテレビの前で拍手している。字幕には大きな文字が踊っていた。
二〇〇二年ワールドカップ、日韓共同開催決定。
韓国、世界に認められる。
アジア初の夢、ついに現実へ。
テレビの前に立っていた若い記者が、寝不足で赤くなった目のまま声を上げた。
「一面、これで決まりでしょう。『韓国、世界の中心へ』。どうですか」
別の記者が笑った。
「大きく出すぎだ」
「大きく出る日ですよ。今日は」
誰かが煙草に火をつけた。ライターの小さな炎が、青白い蛍光灯の下で一瞬だけ橙色に揺れた。吸い込まれた煙が、細く天井へ昇る。
「『アジアの夢、ソウルに来る』は?」
「日本も入るんだから、ソウルだけだと揉めるぞ」
「じゃあ、『韓国も開催国だ』」
「弱い」
「『日本だけには渡さなかった』」
「それは本音すぎる。品がない」
笑い声が起きた。
その笑いは、疲れた男たちの喉から出る、少しかすれた笑いだった。だが、そこには確かに熱があった。眠気よりも、締切よりも、紙面の責任よりも先に、国が一つ大きなものを手にしたという昂ぶりがあった。
編集デスクのパク・チャンスは、机の上のゲラを乱暴にめくった。
四十代後半。腹が少し出て、髪には白いものが混じっている。いつもは皮肉の多い男だが、この朝だけは口元が少し緩んでいた。煙草をくわえたまま、赤鉛筆で見出し案を囲む。
「感動はいる。だが、安っぽくするな」
彼は言った。
「読者は朝から泣きたいんだ。泣かせてやれ。ただし、嘘で泣かせるな。本当にあった熱で泣かせろ」
「じゃあ、街頭は多めに入れますか」
「入れろ。食堂、市場、大学、タクシー。できれば子どもが欲しい。古いボールなんか抱えてたら最高だ」
若い記者が笑った。
「演出ですか」
「馬鹿。現実の中から、紙面になる現実を拾うんだ」
デスクは煙草を灰皿に押しつけた。
「それが新聞だ」
その言葉を聞きながら、ユン・ソヨンは編集部の入口に立っていた。
黒いコートの肩に、外の冷気が残っている。髪は後ろで一つに結んでいたが、走ってきたせいで、こめかみのあたりの髪が少し乱れていた。手には古い革の鞄。鞄の中には取材ノート、ペン、カメラ、昨日の夜に書いたメモが入っている。
彼女は一瞬、部屋へ入るのをためらった。
編集部の熱が、入口まで押し寄せていたからだ。
勝利の熱。
その熱に触れると、自分の中にある別の冷たさが、かえってはっきりするような気がした。
「ソヨン!」
デスクが彼女に気づいた。
「遅いぞ。寝てたのか」
「すみません。広場の取材から戻って、少しだけ家に寄りました」
「寝たのか」
「少しだけ」
「若いな。俺は寝たら死ぬ気がして寝てない」
周囲の記者たちが笑った。
ソヨンも、少しだけ口元を動かした。
デスクはゲラを手にしたまま、彼女を呼び寄せた。
「お前、今日のメイン一本いけ」
「私が、ですか」
「若い読者向けに書け。街の熱と、政府会見をつなぐ。難しい話はいらない。国が前を向いた朝だ。そういう文章だ」
ソヨンは鞄を机に置いた。
「政府会見も行きます」
「行け。官僚のコメントも取ってこい。できれば若いやつがいい。おっさんの言葉は硬い。若い官僚が『国民の夢』とか言えば、絵になる」
若い官僚。
その言葉に、ソヨンは昨夜テレビで見た政府関係者の顔を思い出した。
共同開催決定を説明する男たちの後ろに、若い官僚が一人立っていた。きちんとしたスーツを着て、表情を抑えようとしているが、目の奥に隠しきれない誇りがあった。名前はまだ知らない。
デスクは続けた。
「いいか、今日は勝利を書く日だ」
その言葉は、編集部の音の中で妙にはっきり聞こえた。
勝利を書く日。
ソヨンは頷いた。
「分かりました」
「分かってない顔だな」
デスクは彼女を見た。
「お前はすぐ、社会部みたいな顔をする」
「スポーツ部の顔とは、どういう顔ですか」
「読者より先に泣ける顔だ」
また周囲が笑った。
ソヨンは今度は笑わなかった。
デスクは冗談めかして言ったが、その裏に本音があることを彼女は知っていた。
スポーツ紙は、勝利を書く。
悔しさも書く。涙も書く。怒りも書く。
だが、読者が競技の外側へ引きずり出されるような重い問いは、嫌われる。
読者は朝、新聞を開いて胸を熱くしたい。
通勤電車の中で誇らしくなりたい。
食堂で仲間と見出しを指さして笑いたい。
それは悪いことではない。
悪いことではないからこそ、難しかった。
ソヨンは自分の机へ向かった。
机の上には、昨日の夜に置いたままの資料が残っている。街頭取材のメモ。共同開催決定の速報。政府発表の抜粋。FIFAのコメント。日本側の反応。
その下に、古い引き出しがあった。
彼女は椅子に座り、手袋を外した。指先が少し冷えている。引き出しの取っ手に触れると、金属の冷たさが皮膚に移った。
開ける。
木がこすれる鈍い音がした。
中には、名刺、予備のペン、輪ゴム、古い取材メモ、使いかけのフィルム。そして、一枚の写真が入っていた。
ソヨンはそれを取り出した。
写真の端は少し曲がっている。表面には細かな傷があり、光にかざすと白い線が走った。
写っているのは、若いころの父と、幼い自分だった。
父は白いシャツを着ていた。袖を肘までまくり、少し照れたように笑っている。幼いソヨンは、その横でアイスクリームを持っていた。口元に白いクリームをつけ、カメラではなく父の方を見て笑っている。
背景には、川沿いの道が写っていた。
どこにでもある休日の写真だった。
その「どこにでもある」ということが、いまのソヨンには一番痛かった。
父は、特別な人間として死んだのではない。
英雄でもなく、政治家でもなく、国家の犠牲者として名前を刻まれるために生きていたわけでもない。
ただの父だった。
朝には新聞を読み、味噌汁が熱いと文句を言い、革靴の踵を踏まないように履き、休日には川沿いを歩き、娘の口元についたアイスクリームを親指で拭う人だった。
その人が、帰ってこなかった。
聖水大橋が崩れた日から、ソヨンにとって「安全」という言葉は、役所の資料に出てくる抽象語ではなくなった。
安全とは、朝に家を出た人が、夜に帰ってくることだった。
それだけの話だった。
テレビの音が大きくなった。
「政府関係者は、今回の共同開催決定について、韓国の準備努力と国民的熱意が国際社会から高く評価された結果だと説明しています――」
ソヨンは写真から顔を上げた。
画面の中では、政府庁舎の映像が流れていた。記者たちが集まり、マイクが並び、官僚たちが忙しそうに廊下を歩いている。
韓国の準備努力。
国民的熱意。
国際社会からの評価。
滑らかな言葉だった。
指でなぞっても引っかからないような、よく磨かれた言葉だった。
ソヨンは写真を見下ろした。
父の笑顔は、少し色褪せている。
写真の中の父は、共同開催のニュースを知らない。韓国が世界に認められる日を知らない。テレビの前で手を叩くこともない。市場の人々と笑うこともない。
彼は、韓国が過去を越えたという言葉の中に、いつの間にか置き去りにされている。
「ソヨン」
同僚のキム記者が、背後から声をかけた。
「それ、お父さん?」
ソヨンは写真を伏せようとしたが、遅かった。
キム記者は悪気のない顔で覗き込む。
「似てるな。目元が」
「そうですか」
「お父さんもサッカー好きだったのか」
ソヨンは少しだけ間を置いた。
「好きでした」
「じゃあ、今日のニュース、喜んだだろうな」
その言葉は、何気ないものだった。
何気ないから、避けられなかった。
ソヨンは写真を見た。
父が生きていたら。
テレビの前で、本当に喜んだかもしれない。
新聞を買い、見出しを読み、少し誇らしげに笑ったかもしれない。
彼女に「これで韓国も変わるぞ」と言ったかもしれない。
そう思うと、胸の奥が少し温かくなった。
同時に、その温かさのすぐ下で、冷たいものが動いた。
父が喜んだかもしれないことと、父が帰ってこなかったことは、同じ胸の中に並んでいる。
どちらか一方だけを選べない。
「そうですね」
ソヨンは言った。
「喜んだと思います」
キム記者は頷いた。
「じゃあ、いい記事書けよ。今日は勝利だ」
彼はそう言って、自分の机へ戻っていった。
ソヨンは写真を引き出しに戻した。
ゆっくり閉める。
木の擦れる音が、編集部のざわめきの中に小さく消えた。
*
午前八時を過ぎるころ、編集部の熱はさらに上がっていた。
電話が鳴る。
受話器が取られる。
誰かが叫ぶ。
別の誰かが走る。
煙草の煙が増える。
コーヒーが注がれる。
赤鉛筆が紙を削る。
壁には、仮の紙面レイアウトが貼り出された。
一面の中央に、大きな見出しが入る予定になっている。写真は昨夜の広場。国旗を振る若者たち。背景には街灯がにじみ、人々の顔は興奮で赤く見える。構図は少し荒い。だが、その荒さがかえって生々しかった。
デスクが叫んだ。
「見出し、もう一回出せ!」
若い記者たちが次々に案を出す。
「『韓国、世界へ蹴る』」
「軽い」
「『赤い夢、世界へ』」
「まだ赤くない。赤い悪魔はこれからだ」
「『韓国も主役だ』」
「悪くない。だが、もっと泣ける」
ソヨンは自分のノートを開いた。
白いページ。
昨日の広場で聞いた言葉を、もう一度読み返す。
「日本だけじゃなくてよかった」
「韓国もやればできる」
「息子に見せたい」
「世界が韓国を見る」
そこには、確かに喜びがあった。
その喜びを、彼女は疑いたくなかった。
政府の言葉は疑う。
官僚の文章は疑う。
美談に変えられる事故の記憶は疑う。
けれど、街の人々の笑顔まで疑いたくはなかった。
彼らは本当に嬉しかったのだ。
市場で魚を売る女性が、濡れた手をエプロンで拭きながら「息子に見せたい」と笑った顔。
タクシー運転手が、ハンドルを叩きながら「日本だけじゃない」と言った声。
学生たちが肩を組み、下手な歌を大声で歌っていた夜の匂い。
古いボールを抱えた少年の、少し恥ずかしそうな笑顔。
それらは、作られたものではない。
だからこそ、ソヨンは苦しくなる。
もし彼らがただ操られているだけなら、記事は簡単だった。
熱狂の危うさを書けばいい。
政府の欺瞞を書けばいい。
安全への不安を書けばいい。
だが、そうではない。
喜びは本物だった。
本物の喜びだからこそ、守らなければならないのではないか。
スタジアムに行く人がいる。
橋を渡る人がいる。
電車に乗る人がいる。
子どもの手を引いて、席へ向かう親がいる。
その人たちが、試合を見て、歌って、泣いて、そして家に帰る。
そこまで含めて、勝利ではないのか。
ソヨンはペンを持った。
最初の一文がなかなか出てこなかった。
新聞記事には、速度がいる。
読者をつかむ言葉。
熱を伝える言葉。
短く、強く、朝の食卓に届く言葉。
彼女はそれを知っている。
スポーツ記者として、勝利の言葉を書く訓練を受けてきた。
だが今日の勝利には、紙の裏側に別の文字が透けて見える。
聖水大橋。
三豊百貨店。
大型施設安全管理。
彼女は、ノートの端に小さく書いた。
勝利とは、誰の記憶を黙らせる言葉なのか。
書いてから、少し後悔した。
強すぎる。
今日の一面には載らない言葉だ。
それでも、消さなかった。
デスクがソヨンの机に近づいてきた。
「どうだ」
「これから街に出ます。朝の表情を拾ってきます」
「いい。昼前には戻れ。午後は政府会見だ。そこで官僚コメントを取れ」
「はい」
「それから」
デスクは少し声を低くした。
「安全の話を入れるなとは言わない。お前の事情も知っている」
ソヨンは顔を上げた。
デスクは彼女の目をまっすぐ見なかった。机の上の灰皿に視線を落とし、煙草を探すふりをした。
「だが、今日の紙面を壊すな」
「壊す?」
「読者が読みたいものがある。国全体が前を向いているときに、いきなり瓦礫を持ち出されたら、読む方も身構える」
「瓦礫は、なくなったわけではありません」
「分かってる」
デスクの声が少し硬くなった。
「分かってるが、新聞には面がある。流れがある。今日は勝利の面だ」
ソヨンは黙った。
デスクはため息をついた。
「お前にしか書けない角度があるのは分かる。だが、読者に届かなければ意味がない」
それは、正しい言葉だった。
ソヨンはそれが腹立たしかった。
正しい言葉ほど、簡単には反論できない。
「分かりました」
彼女は答えた。
デスクは頷き、別の机へ向かった。
ソヨンはしばらく、ノートの一文を見つめた。
勝利とは、誰の記憶を黙らせる言葉なのか。
その問いは、紙面を壊すのだろうか。
それとも、紙面の下に隠れているものを、ほんの少しだけ見せるのだろうか。
*
編集部を出ると、廊下の空気は冷たかった。
さっきまでいた部屋の熱と煙草の匂いが、コートの内側にまだ残っている。ソヨンは階段を下りながら、カメラのストラップを肩にかけ直した。布の縁が首筋に触れ、少しざらついた。
新聞社の玄関を出ると、朝のソウルが広がっていた。
通勤客が足早に歩いている。バスの扉が開き、人々が吐き出される。屋台の鉄板の上で何かが焼け、甘い油の匂いが漂う。冬に近い空気の中で、湯気だけが白く柔らかく立ち上っていた。
新聞売り場の前には、人だかりができていた。
号外を手に取る人。
見出しを声に出して読む人。
隣の人に笑いかける人。
携帯電話で誰かに知らせる人。
街は、いつもより少し浮いていた。
足元は同じアスファルトなのに、人々の声だけが少し高い。
ソヨンはノートを開いた。
取材用のページは、まだ白い。
彼女は最初の行に、仕事用の文字でこう書いた。
共同開催翌朝、街頭反応。
その下に、少し迷ってから、もう一行書いた。
喜びは本物か。
書いた直後、自分で首を振った。
違う。
喜びは本物だ。
問うべきはそこではない。
彼女は線を引き、別の行に書き直した。
本物の喜びを、誰が守るのか。
通りの向こうで、古いサッカーボールを抱えた少年が母親の手を引いていた。
少年は新聞売り場の前で立ち止まり、大きな見出しを見上げている。母親は急いでいるようだったが、少年の視線に気づくと、少しだけ足を止めた。
ソヨンはカメラを構えた。
ファインダー越しに、少年の横顔が見える。
頬に朝の光が当たり、ボールの剥げた表面が白く光っていた。
彼女はシャッターを切った。
乾いた音がした。
その音が、今日最初の答えのように聞こえた。
ソヨンはカメラを下ろし、ノートを閉じた。
背後の新聞社の窓には、まだ蛍光灯の白い光が残っている。編集部では今も、勝利の見出しが削られ、磨かれ、紙面に収まる形へ整えられているはずだった。
彼女は歩き出した。
勝利を書くために。
そして、勝利の下に沈むものを、まだ見失わないために。
ソヨンは、まだ白いままの取材ノートを開き直し、最初の一行にこう書いた。
勝利とは、誰の記憶を黙らせる言葉なのか。




