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それでもウリはあきらめない  作者: それウリ
第一章 共同開催

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第5話 嘘ではない、だが全部でもない


 発表の日の朝、ソウルの空は妙に明るかった。


 雨上がりでもないのに、道路は薄く光っていた。早朝の清掃車が撒いた水が、歩道の隅にまだ残っている。バス停の前には通勤客が並び、革靴の底が濡れた舗装をこすった。屋台からは、湯気と油の匂いが立ち上っている。焼けた小麦粉、甘い砂糖、熱い油、そして排気ガス。ソウルの朝の匂いだった。


 ハン・ミンジュンは、庁舎へ向かう車の後部座席で、その匂いを感じていた。


 窓は閉まっている。だが、古い車内の布張りの座席には、街の匂いが染み込んでいるようだった。運転手が小さくラジオをつけている。音量は控えめだったが、アナウンサーの声には、いつもの朝とは違う張りがあった。


「二〇〇二年ワールドカップ開催地をめぐる最終発表が、本日行われる見通しです――」


 ミンジュンは、膝の上の鞄を握った。


 中には資料が入っている。


 共同開催に関する想定問答。国内向け発表文案。大統領府への説明メモ。メディア対応資料。日本側への配慮文言。FIFAへの謝意。アジアの連帯。韓国の準備努力。国民的熱意。


 紙の束は、いつもより重く感じられた。


 車窓の外では、ソウルの街がいつも通り動き始めている。市場へ向かう小さなトラック。制服姿の学生。新聞を積んだバイク。路地から出てくる老人。まだ誰も、今日決まる言葉の重さを知らないように見えた。


 ミンジュンは昨夜、ほとんど眠れなかった。


 横になっても、佐藤直樹の言葉が何度も戻ってきた。


 熱狂には代償がある。

 問題は、その代償の請求書が、最後に誰のところへ届くのかです。


 彼はその言葉を振り払おうとした。


 今日は、その話をする日ではない。


 今日は、韓国が世界に認められる日だ。


 国民に必要なのは、請求書の宛先ではない。未来の話だ。ギュンスはそう言った。その通りだと思いたかった。


 庁舎の正面に車が着くと、すでに報道陣が集まり始めていた。


 カメラの三脚。黒いコード。肩に担がれた機材。記者たちのコート。紙コップのコーヒー。煙草の煙。朝の冷気の中で、機材の金属部分だけが青白く光っている。


 庁舎の入口をくぐると、外のざわめきが急に遠のいた。


 代わりに、古いワックスと紙の匂いが戻ってくる。蛍光灯の白い光。靴音の反響。エレベーター前に立つ職員たちの硬い顔。誰も大声では話さない。だが、全員が何かを待っている。


 国家の朝だった。


     *


 発表は、正午過ぎに入った。


 最初に鳴ったのは、廊下の奥の電話だった。


 その一台が鳴ると、すぐに別の電話が鳴り、また別の部屋で受話器が取られた。廊下を走る足音が増えた。低い声が重なり、紙がめくられ、誰かが「確認を取れ」と叫んだ。


 ミンジュンは会議室の後方に立っていた。


 壁際のテレビには、海外からの映像が映っている。画面の色は少し悪く、顔色も空の色も青みがかって見えた。それでも、字幕の文字だけははっきりしていた。


 二〇〇二年ワールドカップ。


 日韓共同開催。


 その言葉が画面に出た瞬間、部屋の空気が破れた。


 誰かが息を呑んだ。


 誰かが椅子を蹴るように立ち上がった。


 誰かが両手で顔を覆った。


 そして次の瞬間、拍手が起きた。


 最初は一人。次に二人。すぐに部屋全体へ広がった。乾いた手の音が、壁に跳ね返り、天井の蛍光灯の下で大きく膨らんでいく。


 ミンジュンは動けなかった。


 胸の奥から、熱いものが込み上げていた。


 共同開催。


 単独開催ではない。


 だが、日本だけの大会でもない。


 世界は、韓国を外せなかった。


 日本だけにアジア初開催を渡さなかった。


 その事実が、胸を震わせた。


 ギュンスは上座で立っていた。顔に大きな笑みはない。だが、目だけがわずかに潤んでいるように見えた。彼はミンジュンと視線を合わせると、小さく頷いた。


 勝ったのだ。


 少なくとも、そう呼ぶことはできる。


 その数分後、庁舎のあちこちでテレビの音が大きくなった。


 報道番組は、すぐに特別編成のようになった。画面にはソウル市内の様子が映し出される。街頭インタビュー。大学生たち。市場の商人。タクシー運転手。小さな食堂の客たち。


 誰もが驚き、笑い、誇らしげに語っていた。


「韓国もやったんだ」


「日本だけじゃない。韓国も開催国だ」


「世界が韓国を認めた」


 食堂のテレビの前で、白髪の老人が手を叩いていた。市場の女性が、エプロン姿のまま笑っていた。学生たちが肩を組み、国旗を振っていた。


 ミンジュンはその映像を見つめた。


 国民が喜んでいる。


 その事実だけで、胸の中の迷いが少し溶けた。


 これでよかったのだ。


 自分たちは正しいことをした。


 韓国は、また一歩前へ進んだ。


 そのとき、テレビの画面に、幼い少年が映った。頬を赤くし、古いサッカーボールを抱えている。記者がマイクを向けると、少年は少し恥ずかしそうに笑って言った。


「韓国でワールドカップを見たいです」


 その一言に、ミンジュンは息を止めた。


 少年の手の中のボールは、表面が少し剥げていた。


 かつての自分のボールによく似ていた。


 胸の奥が熱くなった。


 そうだ。


 この子のためだ。


 この子たちに、韓国が世界の中心へ立つ姿を見せるためだ。


 請求書の話など、今は必要ない。


 未来の話をすべき日なのだ。


     *


 午後になると、省内は言葉を作る場所に変わった。


 喜びは長く続かなかった。


 正確には、喜びは廊下やテレビの前に残り、会議室の中だけはすぐに別の温度へ戻った。


 国民向け発表文。


 大統領府向け報告。


 記者会見用の想定問答。


 日本側への配慮。


 FIFAへの謝辞。


 野党からの批判への対応。


 「単独開催失敗」と書かれないための表現。


 「日本に押された」と読まれないための言葉。


 「共同開催」を「勝利」として受け取らせるための文章。


 ミンジュンは長机の端に座り、発表文の草案を前にしていた。


 会議室には、煙草とコーヒーと人の熱がこもっている。窓は閉まっていた。誰かが吸った煙草の煙が、天井近くで薄い層になっている。蛍光灯の光は、その煙を白く照らし、空気そのものが少し濁って見えた。


 紙の上には、すでにいくつもの赤字が入っている。


 ギュンスが上座から言った。


「単独開催を逃した、という印象は一切出すな」


 誰かが頷く。


「日本案の準備力に押された、とも書くな」


 別の誰かが、赤鉛筆で一文を消した。


「安全面の懸念については?」


 若手官僚の一人が尋ねた。


 会議室の空気が一瞬だけ止まった。


 ギュンスは淡々と言った。


「不要だ」


「しかし、海外では――」


「国内向け発表に必要ない」


 その声には、議論を終わらせる硬さがあった。


「過去の事故を持ち出せば、不安だけが広がる。われわれは安全を軽視するわけではない。必要な管理は行う。だが、発表文に書くことではない」


 ミンジュンは、手元の紙を見た。


 安全。


 財政。


 大会後負担。


 請求書の宛先。


 それらの言葉は、草案のどこにもなかった。


 代わりに、別の言葉が並んでいる。


 歴史的快挙。


 アジアの連帯。


 韓国の努力。


 国際的評価。


 未来への一歩。


 どれも間違いではない。


 だが、すべてでもない。


 ギュンスの声が続く。


「これは勝利だ。そう読める文章にしろ」


 会議室の全員が、その意味を理解していた。


 勝利だった。


 だが、説明を必要とする勝利だった。


 ミンジュンはペンを取った。


 紙の上に最初の文を書く。


 FIFAは、韓国の開催能力を高く評価し――


 そこまで書いて、手が止まった。


 開催能力。


 その言葉は、強すぎる気がした。


 韓国には能力がある。


 そう信じている。


 だが、チューリッヒの会議室で見た視線を、彼は忘れていなかった。ミュラーの冷たい声。聖水大橋と三豊百貨店。安全管理の資料。佐藤の静かな問い。


 開催能力。


 そこまで言い切れるのか。


 ミンジュンは赤線を引いた。


 次に書く。


 FIFAは、韓国の準備努力と国民的熱意を高く評価し――


 これなら書ける。


 韓国は努力した。


 国民には熱意がある。


 FIFAがそれを無視できなかったのも事実だ。


 だが、この文章には書かれていないことがある。


 日本案の準備力。


 韓国案への不安。


 安全問題。


 財政負担。


 共同開催という政治的な収まり。


 単独開催を勝ち取れなかった現実。


 ミンジュンはペン先を紙に当てたまま、しばらく動けなかった。


 隣の職員が別の文案を読み上げている。


「日韓両国が協力し、アジア初のワールドカップを成功へ導く――」


 別の職員が言う。


「韓国の国民的熱意が国際社会に認められた、という表現を入れましょう」


 ギュンスが頷く。


「良い」


 会議室の中で、言葉が磨かれていく。


 ざらついた現実から、角が落とされる。


 苦い部分が削られる。


 読んだ者が誇りを感じるように、失望しないように、不安にならないように、怒りの方向を間違えないように。


 それは官僚の仕事だった。


 ミンジュンも、その仕事のためにここにいる。


 彼はもう一度、紙に向かった。


 FIFAは、韓国の準備努力を高く評価している。


 短い文だった。


 強すぎない。


 弱すぎない。


 嘘ではない。


 ミンジュンはその一文を見つめた。


 嘘ではない。


 だが、全部でもない。


 その感覚が、胸の内側で静かに広がった。


 最初は小さな染みのようだった。紙に落ちたコーヒーの一滴が、繊維の奥へじわじわ広がるように、その思いは消えずに残った。


 嘘ではない。


 だから書ける。


 全部ではない。


 だから痛む。


 ミンジュンは顔を上げた。


 会議室の向こうでは、ギュンスが別の文案に赤を入れている。彼の手つきには迷いがない。文章の中から余計な棘を抜き、国民が受け取りやすい形へ整えていく。


 その姿は、職人のようでもあった。


 あるいは、傷口に布をかぶせる人間のようでもあった。


 布は清潔で、美しい。


 だが、その下の傷が治っているとは限らない。


     *


 夕方、ソウルの街はいつもより熱を持っていた。


 庁舎の外へ出ると、空は淡い橙色に染まっていた。ビルの窓に夕日が反射し、ガラスの一枚一枚が燃えるように光っている。道路には車が詰まり、クラクションがいつもより短く、弾むように鳴っていた。


 広場の近くでは、すでに人が集まり始めていた。


 誰かが国旗を振っている。大学生らしい若者たちが肩を組み、歌を歌っている。露店の男が、赤い布を広げていた。まだ正式な応援グッズではない。ただの赤い布だ。それでも人々は、それを手に取り、笑って首に巻いていた。


 ミンジュンは少し離れた場所から、その光景を見ていた。


 夕方の光は、人の顔を柔らかく照らす。疲れた会社員の顔も、皺の深い老人の顔も、頬の赤い学生の顔も、すべてが少しだけ美しく見えた。


 市場の屋台からは、焼いた肉と唐辛子の匂いが流れてくる。甘辛いタレの焦げる匂い。湯気。紙コップの酒。排気ガス。汗。笑い声。


 ミンジュンは、胸の奥にまた熱が戻ってくるのを感じた。


 国民は未来を求めている。


 彼らは、細かな交渉経緯など知らなくていい。


 日本案の優位も、安全不信も、財政負担も、政治的妥協も、いまこの広場には必要ない。


 必要なのは、韓国が世界に認められたという実感だ。


 そう思った。


 思おうとした。


 そのとき、広場の端で、小さな女の子が父親に肩車されていた。女の子は小さな国旗を振っている。父親は笑っていた。少し古びた上着を着て、手には仕事帰りらしい鞄を持っている。


 ミンジュンはその男の顔を見た。


 この男も、いつか請求書を受け取るのだろうか。


 ふいに、そんな考えが浮かんだ。


 彼はすぐにそれを消した。


 今は違う。


 今日は違う。


 今日は、喜んでいい日だ。


 広場の歓声が大きくなる。


 ミンジュンは背を向け、庁舎へ戻った。


 ガラス扉の中へ入ると、外の匂いが急に薄くなり、代わりに庁舎の紙とワックスの匂いが戻ってきた。


 彼は自分の手を見た。


 親指の腹に、赤鉛筆の粉がうっすら残っていた。


     *


 夜、スポーツ紙の編集部は騒然としていた。


 ユン・ソヨンは、自分の机に座ったまま、壁際のテレビを見ていた。


 編集部は、古い紙とインクと煙草の匂いで満ちている。床には新聞の束が積まれ、机の上には原稿用紙、カセットレコーダー、取材メモ、空の紙コップが散らばっていた。天井の蛍光灯は何本か古く、一本は時折ちらつく。そのたびに、部屋全体が一瞬だけ青白く震える。


 電話は鳴り続けていた。


「見出し変えろ!」


「一面、共同開催でいく!」


「政府コメント取れたか?」


「街頭の写真、もっと笑ってるやつを探せ!」


 男たちの声が飛び交う。煙草の煙が天井近くに溜まり、蛍光灯の光を濁らせている。誰かが机の角に置いた即席麺から、安いスープの匂いが立っていた。


 テレビでは、共同開催決定の速報が繰り返し流れている。


 政府関係者のコメント。


 ソウル市民の歓喜。


 日本側の反応。


 FIFAの発表。


 韓国の準備努力が評価された。


 アジアの連帯。


 歴史的快挙。


 世界に認められた韓国。


 編集部の若い記者が叫んだ。


「いいですねえ。明日の見出しは決まりですよ。韓国、世界の中心へ!」


 別の記者が笑う。


「ちょっと大げさだな」


「大げさなくらいでいいんですよ。今日は勝った日ですから」


 勝った日。


 ソヨンは、その言葉を聞きながら、机の引き出しに手をかけた。


 古い引き出しは、少し引っかかった。力を入れると、木が擦れる鈍い音がして開く。中には、ペン、古い取材メモ、輪ゴム、名刺の束、そして一枚の写真が入っていた。


 ソヨンは写真を取り出した。


 写真の端は少し曲がり、表面には細かな傷がある。


 写っているのは、若いころの父と、幼い自分だった。


 父は白いシャツを着て、少し照れたように笑っている。幼いソヨンは、その横でアイスクリームを持っていた。背景には、川沿いの道が写っている。どこにでもある休日の写真だった。


 父は、聖水大橋崩壊事故で帰ってこなかった。


 朝、いつものように家を出た。


 靴を履き、鞄を持ち、母に短く声をかけた。


 それだけだった。


 特別な別れなどなかった。


 その日の夕方、家の中には、テレビの音と母の泣き声と、電話のベルだけがあった。近所の人が集まり、誰かが水を持ってきて、誰かが母の背中をさすっていた。ソヨンは子どもだった。何が起きたのか分からず、ただ大人たちの足元で、畳の匂いと涙の匂いを覚えている。


 崩れた橋。


 折れた鉄。


 濁った川。


 帰ってこない父。


 それ以来、ソヨンにとって「安全」は、行政用語ではなかった。


 それは、朝に家を出た人が、夜に帰ってくるという約束のことだった。


 テレビの中で、政府関係者が誇らしげに語っていた。


「FIFAは、韓国の準備努力を高く評価しています。今回の共同開催決定は、韓国の国民的熱意と国際的信頼が認められた結果であります」


 ソヨンは写真を見つめたまま、その言葉を聞いていた。


 準備努力。


 国民的熱意。


 国際的信頼。


 言葉は滑らかだった。


 滑らかすぎて、指で触れても何も引っかからないような言葉だった。


 彼女の隣の机で、先輩記者が煙草を消した。


「ソヨン、お前、街頭コメント行けるか?」


 ソヨンは写真を引き出しに戻し、顔を上げた。


「行けます」


「安全問題も少し聞いてこい。まあ、今日は誰もそんな話したがらないだろうけどな」


 先輩は軽く笑った。


 ソヨンは笑わなかった。


 彼女はメモ帳を取り、ペンを挟んだ。机の上のカメラを肩にかける。ストラップの布が首に触れ、少し汗ばんだ肌にざらりとした感触を残した。


 編集部を出る前に、彼女はもう一度テレビを見た。


 画面の中では、ソウルの広場が映っている。


 人々は笑っている。国旗が揺れている。誰かが歌っている。赤い布を首に巻いた若者たちが、カメラに向かって拳を上げていた。


 美しい光景だった。


 ソヨンも、それを否定したいわけではなかった。


 この国にも、喜ぶ権利はある。


 父を失った自分にも、サッカーを楽しむ心が残っている。


 だが、その喜びの下に、何かが置き去りにされている気がした。


 安全はどうなったのか。


 橋が落ちたことを、世界は忘れていない。


 百貨店が崩れたことを、遺族は忘れていない。


 政府は、それを本当に越えたのか。


 それとも、越えたことにしたのか。


 テレビの中で、また同じ言葉が流れた。


「韓国の準備努力が、世界に認められました」


 ソヨンは、画面を見つめた。


 そして、誰にも聞こえないほど低く呟いた。


「安全は、認められたの?」


 編集部の喧騒は、その声をすぐに飲み込んだ。


 電話のベル。記者たちの怒号。印刷機の低い振動。煙草の煙。インクの匂い。明日の一面を作るための熱。


 ソヨンは扉を開けた。


 夜の廊下の空気は、編集部より少し冷たかった。


 その冷たさを頬に受けながら、彼女は歩き出した。


     *


 同じ夜、ミンジュンは庁舎の窓辺に立っていた。


 会議室の明かりはまだ消えていない。机の上には、最終版に近づいた発表文が置かれている。赤字は減り、文章は整い、余計な棘は抜かれていた。


 FIFAは、韓国の準備努力を高く評価している。


 その一文は、残った。


 ミンジュンは窓の外を見下ろした。


 遠くの広場に、人の群れが見える。光の粒が揺れている。歓声はここまでは届かない。ただ、街全体がいつもより少し明るく見えた。


 彼は自分に言い聞かせた。


 嘘ではない。


 韓国は努力した。


 国民は本気で望んでいる。


 FIFAも、それを評価した。


 だから嘘ではない。


 しかし、胸の奥の小さな染みは消えなかった。


 全部ではない。


 日本案の強さも、安全不信も、財政負担も、共同開催が政治的決着だったことも、そこには書かれていない。


 窓ガラスに、自分の顔が薄く映っている。


 若い官僚の顔だった。


 疲れてはいるが、まだ希望を信じている顔だった。


 ミンジュンは、その顔から目を逸らした。


 机に戻り、発表文の最後に目を通す。


 文章は美しかった。


 国民が読めば、誇りを感じるだろう。


 メディアは大きな見出しをつけるだろう。


 街はしばらく熱を持ち続けるだろう。


 それでいい。


 今は、それでいい。


 ミンジュンはペンを置いた。


 蛍光灯の白い光が、紙の上に平たく落ちている。紙の端に触れると、少しだけざらついた。今日、何度も消し、書き直し、整えた文章。


 その下に、削られた言葉たちが埋まっている。


 安全。


 負担。


 妥協。


 不安。


 請求書の宛先。


 ミンジュンは目を閉じた。


 外では、まだ誰かが歓声を上げている気がした。


 その歓声の中に、ユン・ソヨンの小さな問いはまだ届かない。


 安全は、認められたの?


 その問いは、歓声にかき消された。


 けれど、消えたわけではなかった。


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