第4話 熱狂の代償と請求書の宛先
チューリッヒの朝は、何度迎えてもミンジュンの身体に馴染まなかった。
窓の外には、薄い灰色の光が広がっている。湖の上には霧がかかり、遠くの屋根も、教会の尖塔も、水を含んだ布越しに見るように輪郭を失っていた。ホテルの部屋は暖かい。空調の風が低く鳴り、白いシーツには洗剤と糊の匂いが残っている。
だが、ハン・ミンジュンの体の芯は冷えていた。
眠った気がしない。
ベッドは柔らかすぎた。枕は高すぎた。カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、夜のあいだじゅう天井に細い線を作っていた。目を閉じても、昨日の会議で聞いた言葉が、耳の奥でいつまでも乾いた音を立てていた。
共同開催。
アジアの連帯。
過去を越える大会。
未来へ進む選択。
どれも美しい言葉だった。
美しい言葉は、胸を温める。人を前に向かせる。国旗を掲げさせ、歌わせ、泣かせることもできる。
だが、その美しい言葉の下には、まだ数字があった。
建設費。
地方負担。
交通整備費。
借入。
維持費。
警備費。
大会後の赤字。
ミンジュンは洗面台の前に立ち、蛇口をひねった。
水は冷たかった。両手に受けて顔に叩きつけると、頬の皮膚が縮む。鏡の中の自分は、思っていたより青白かった。目の下には薄い影があり、唇は乾いている。ネクタイを締める指先に力が入らず、結び目が一度歪んだ。
彼はそれをほどき、もう一度締め直した。
今日は、国際金融機関の関係者との協議が入っていた。
大会運営そのものではない。だが、スタジアム建設、地方財政、都市インフラ、借入、返済、維持管理費、経済波及効果。つまり、夢に値札をつけるための協議だった。
ミンジュンは、それが好きではなかった。
ワールドカップは値札で測るものではない。
彼はそう思っていた。
国民の誇り。韓国が世界に認められる瞬間。日本だけにアジア初開催を渡さないという意志。少年時代、乾いた土のグラウンドで剥げたボールを追いかけていた自分が、ずっと胸の奥で求めていたもの。
それを、借入金利や維持費や返済計画の表に押し込められることが、彼には我慢ならなかった。
だが、机の上の資料は重かった。
鞄に入れると、肩にずしりと沈む。
紙の束。
ただの紙のはずだった。
しかしその重さは、国の夢というより、まだ届いていない請求書の束に似ていた。
*
協議は、FIFA本部から少し離れた国際会議施設の一室で行われた。
建物の外壁は石造りで、入口のガラス扉には朝の霧が薄く曇っていた。中へ入ると、暖房の乾いた空気と、磨かれた床の洗剤の匂いが鼻につく。ロビーには各国の言葉が低く混じり合っていた。英語、フランス語、日本語、韓国語。どの言葉も、石の床に当たって少し冷たく反響している。
会議室は、広すぎず、狭すぎなかった。
長机が向かい合わせに置かれ、中央には水差しとグラス、銀色のペン、白いメモ用紙が整えられている。窓から入る光は弱く、室内の照明が書類の上に平らな白さを落としていた。その光の下では、人の表情よりも数字だけが異様にはっきり見えた。
ミンジュンは韓国側の席に座り、資料を開いた。
向かい側には、日本側と国際金融機関側の担当者たちが並んでいる。
その中央に、佐藤直樹がいた。
四十代半ばほどの男だった。髪は短く整えられ、銀縁の眼鏡をかけている。表情は柔らかい。だが、目の奥は静かで、こちらの熱をそのまま受け取らない冷えた水面のようだった。
人を威圧するような雰囲気はない。声を荒げることもなさそうに見える。
だからこそ、ミンジュンは身構えた。
怒鳴る相手なら、怒鳴り返せる。
見下してくる相手なら、憎める。
だが、佐藤直樹のような人間は違う。
彼は相手を侮らない。必要以上に褒めもしない。ただ、現実だけを机の上に置く。余計な感情を削ぎ落とされた現実は、ときに侮辱より深く人を傷つける。
佐藤は立ち上がり、名刺を差し出した。
「佐藤直樹です。よろしくお願いします」
通訳を介した言葉は丁寧だった。名刺の紙は厚く、表面は少しざらついている。ミンジュンも名刺を返し、短く頭を下げた。
「ハン・ミンジュンです。こちらこそ、よろしくお願いします」
握手した佐藤の手は、思ったより温かかった。
それが少し意外だった。
もっと冷たい手を想像していた。
協議は、最初から数字の話になった。
佐藤は資料を開き、ペンの先で項目を示していく。
「まず、スタジアム建設費です」
声は穏やかだった。
「韓国側の試算では、政府負担、地方自治体負担、民間投資を組み合わせる形になっています。ただ、各都市ごとの負担能力には差があります。大会前の建設費だけでなく、大会後の維持管理費も見る必要があります」
ミンジュンはメモを取った。
建設費。
維持管理費。
地方負担。
紙の上に並んだ文字は、どれも冷たい。
「大会期間中は観客が入ります。メディアも来る。広告も動く。宿泊、飲食、交通も一時的には伸びるでしょう」
佐藤はページをめくった。
乾いた紙の音が、静かな会議室に響いた。
「しかし、大会は一か月ほどで終わります。スタジアムは残る。道路も残る。借入も残る。維持費も残る」
彼は顔を上げた。
「問題は、大会後です」
その言い方が、ミンジュンの神経に触れた。
大会後。
まだ大会さえ手に入れていないのに、もう終わった後の話をする。
それは正しい。
正しいが、残酷だった。
ギュンスが落ち着いた声で返した。
「ワールドカップは、単なる収支で測るべきものではありません。国家イメージ、観光、投資、国民統合。経済効果は、直接収入だけではない」
「もちろんです」
佐藤は頷いた。
「無形の効果はあります。国民の誇りも、国際的認知も、確かに価値を持ちます」
そこで彼は、わずかに間を置いた。
「ただ、無形の価値で有形の債務を消すことはできません」
会議室の空気が硬くなった。
ミンジュンはペンを握る手に力が入った。
佐藤は続けた。
「熱狂には代償があります。問題は、その代償の請求書が、最後に誰のところへ届くのかです」
通訳が韓国語へ置き換えた瞬間、ミンジュンの胸の奥で何かが鈍く鳴った。
請求書の宛先。
その言葉は、妙に生々しかった。
理念や誇りや未来という言葉と違い、請求書には宛名がある。金額がある。支払期限がある。封筒を開ける人間がいる。
ギュンスは表情を変えなかった。
「国家事業の負担は、国家が引き受けます」
佐藤は静かに言った。
「国家とは、最終的には納税者です」
その一言は、派手ではなかった。
だが、机の上に置かれたどの資料よりも重かった。
ミンジュンは顔を上げた。
納税者。
その言葉は、国民という言葉より冷たく聞こえた。
国民と言えば、旗を振る人々が見える。赤いシャツを着て広場に集まり、歌い、抱き合い、涙を流す人々が見える。
だが、納税者と言えば、別の顔が浮かぶ。
市場で野菜を売る老婆。
夜遅くまで働く工場労働者。
学費を払う親。
家賃を気にする若者。
病院代を数える老人。
税金を納め、公共料金を払い、生活費の残りを見てため息をつく人々。
彼らが広場で歓声を上げる。
そして数年後、別の形で請求書を受け取る。
増税。
料金値上げ。
削られる予算。
後回しにされる福祉。
地方財政の圧迫。
古びた施設の維持費。
ミンジュンは、その想像をすぐに振り払った。
そんなふうに考えてはいけない。
ワールドカップは国民のためにやるのだ。
国民から奪うためではない。
そう思いたかった。
佐藤の隣に座っていた若い男が口を開いた。
中村浩平。
三十代前半。髪をきっちり分け、表情に余計な柔らかさがない。彼の前に置かれた資料には、色別の付箋が細かく貼られている。まるで小さな警告灯のようだった。
「韓国側の財政見通しには、成長率前提が強めに置かれているように見えます」
中村は言った。
通訳が韓国語へ移す。
「ウォン相場、外貨準備、地方債務、建設コスト上昇。これらのリスクをどの程度織り込んでいますか」
ミンジュンは、中村の声を聞いた瞬間、胸の内側が硬くなるのを感じた。
佐藤の声は静かだった。
中村の声は冷たかった。
同じ数字の話でも、体温が違う。
ギュンスが答えた。
「韓国経済は成長を続けています。大会開催は、さらに投資を呼び込むでしょう」
中村は表情を変えなかった。
「成長は支払原資の一部にはなり得ますが、担保ではありません」
そして資料から目を離さず、続けた。
「誇りは担保になりません。返済計画を見せてください」
通訳の声が韓国語に変わったとき、会議室の空気が凍った。
ミンジュンの耳の奥で血の音がした。
誇りは担保にならない。
その言葉は、あまりにも無神経に聞こえた。
韓国がどれほどこの大会を求めているか。日本の後ろに立たされ続けた屈辱。ようやく世界の目をこちらへ向けさせる機会。その重みを、この男は一枚の貸借対照表の空欄のように扱う。
ミンジュンは口を開きかけた。
だが、ギュンスが先に答えた。
「返済計画は資料の後半にあります。為替リスク、金利変動についても、追加で説明します」
声は落ち着いていた。
しかしギュンスの右手の指が、机の下で一度だけ動いたのをミンジュンは見た。
彼も怒っている。
そう分かっただけで、ミンジュンは少し呼吸が楽になった。
佐藤が中村を軽く見た。
咎めるほどではない。だが、言い方を調整しろという目だった。
中村はそれに気づいたのか、わずかに顎を引いた。
佐藤が言葉を継いだ。
「われわれは、韓国の意欲を否定しているわけではありません。むしろ、この大会が成功することを望んでいます。ただ、成功とは開会式を迎えることだけではありません」
彼はペンを置いた。
「大会が終わったあと、国民生活に過度な負担を残さないこと。建てた施設が朽ちていかないこと。借入が将来の政策を縛らないこと。それも成功の一部です」
ミンジュンは反論したかった。
だが、言葉がすぐには出てこなかった。
佐藤の言葉は、韓国を侮辱していない。
だから厄介だった。
彼は、心配している。
その心配が、ミンジュンには痛かった。
*
昼の休憩は、会議施設のラウンジで取られた。
大きな窓の外には、灰色の空と、霧に霞んだ街路樹が見える。ガラスには細かな水滴がつき、外の景色をさらにぼやかしていた。ラウンジの中には、焼いたパンとバター、コーヒー、香水、濡れたコートの匂いが混ざっている。
ミンジュンは食欲がなかった。
皿に取ったパンを指でちぎると、表面は固く、中だけが少し湿っていた。口に入れても味が分からない。噛むたびに、粉のようなものが喉に張りついた。
佐藤が少し離れた席に一人で座っていた。
中村はどこかへ行っている。佐藤の前には、黒いコーヒーと小さなノートが置かれていた。彼はノートに何かを書いていたが、ミンジュンに気づくと顔を上げた。
「ハンさん」
穏やかな声だった。
ミンジュンは一瞬迷ったが、席へ近づいた。
「先ほどは、失礼しました」
佐藤が先に言った。
「中村の言い方は、少し硬すぎました」
「少し、ですか」
ミンジュンの声は、自分でも驚くほど刺々しかった。
佐藤は怒らなかった。
「かなり、かもしれません」
彼はそう言って、少しだけ笑った。
その笑みには、相手をなだめるための軽さではなく、自分の側の非を認める静けさがあった。
ミンジュンは向かいに座った。
椅子の革は冷たく、座るとわずかに沈む。
「韓国を、信用していないのですか」
ミンジュンは聞いた。
佐藤はすぐには答えなかった。コーヒーに視線を落とし、カップの縁に指を添えた。黒い液面に、窓の光が鈍く揺れている。
「信用したいと思っています」
「便利な答えですね」
「そうですね」
佐藤は否定しなかった。
「ただ、私の仕事は、信用したい気持ちと、信用できる根拠を分けることです」
ミンジュンは黙った。
「韓国には熱意があります。これは本当です。国民の期待も、政府の意志も、私は疑っていません」
「なら、なぜ請求書の話ばかりするのですか」
その言葉は、ミンジュンの口から自然に出た。
「われわれがどれほどこの大会を望んでいるか、あなた方には分からない。韓国にとってこれは、ただの大会ではありません。日本だけに世界の目を向けさせないための、国家の誇りです」
佐藤は黙って聞いていた。
「日本には、もう多くのものがある。新幹線も、空港も、都市も、世界からの信用も。あなた方には分からないでしょう。後ろにいると思われ続ける国の気持ちは」
佐藤は、何も言わない。
ミンジュンは続けた。
「韓国には国民の熱意があります。困難があっても、乗り越えます。国民が望めば、国は動く。われわれは、ただ数字を並べているだけではない」
声が少し大きくなっていた。
ラウンジの周囲の人間が、ちらりとこちらを見る。
佐藤は声を低くした。
「熱意は、必要です」
彼は言った。
「熱意がなければ、大きなことはできない」
そして、少し間を置いた。
「ただ、熱意が大きいほど、その後始末も大きくなることがあります」
「後始末?」
「ええ」
佐藤は窓の外を見た。
細かな雨が降り始めていた。水滴がガラスに当たり、薄い筋を作って下へ流れる。外の街路樹がさらに滲んで見えた。
「大会が成功すれば、政治家は成功を語ります。官僚は成果を語ります。企業は売上を語ります。メディアは感動を語ります」
佐藤は視線を戻した。
「けれど、費用が膨らんだとき、施設が赤字になったとき、借入の返済が始まったとき、その請求書を受け取る人々は、壇上にはいません」
ミンジュンは黙った。
「彼らは広場にいる人々です。テレビの前で泣く人々です。子どもに赤いシャツを買ってやる親です。市場で働く人です。毎月の生活費を数えている人です」
佐藤の声は、責めていなかった。
だからこそ、重かった。
「熱狂の代償は、しばしば熱狂した本人たちのもとへ戻ってきます。ただし、歓声の形ではありません。税や料金や、削られる予算や、将来の選択肢の狭さとして戻ってくる」
ミンジュンは、拳を膝の上で握った。
「国民を愚かだと言いたいのですか」
「違います」
佐藤はすぐに答えた。
「国民は、しばしば一番誠実です。信じて、応援して、差し出す。だからこそ、その人たちを最後の支払人にしてはいけないと言っているのです」
ミンジュンは言い返せなかった。
怒りはある。
だが、その怒りの下に、もっと嫌なものがあった。
佐藤の言葉が、間違っていないという感覚。
それを認めたくなかった。
「あなたは、韓国の安全も疑っている」
ミンジュンは低く言った。
「疑う、というより、確認したいのです」
「同じことです」
「違います」
佐藤の声が、初めて少しだけ強くなった。
「疑いは、相手を否定するために使えます。確認は、事故を起こさないために必要です」
ミンジュンは黙った。
「私は韓国を見下したいわけではありません。むしろ、成功してほしいと思っています。アジアで初めてのワールドカップです。日本にとっても、韓国にとっても、アジア全体にとっても大きな意味がある」
佐藤はカップを置いた。
「だからこそ、成功の定義を開会式の歓声だけにしてはいけない」
「では、何をもって成功と言うのですか」
「終わったあとです」
佐藤は答えた。
「大会が終わったあと、人々の生活が壊れていないこと。借金の返済のために、未来の予算が食いつぶされていないこと。安全が守られたこと。責任の所在が曖昧にされていないこと」
彼は少しだけ息を吸った。
「そして、請求書の宛先が、最初から最後まで見えていることです」
ミンジュンの胸に、その言葉が沈んだ。
請求書の宛先。
彼は窓の外を見た。
雨で濡れたガラス越しに、街灯がぼんやり光っている。その光は形を失い、黄色い染みのように広がっていた。
遠くから見れば美しい。
だが近づけば、ただ濡れたガラスに滲んだ光だった。
ミンジュンは立ち上がった。
「午後の協議がありますので」
佐藤も立ち上がった。
「はい」
ミンジュンは軽く頭を下げ、席を離れた。
背中に、佐藤の声が追ってきた。
「ハンさん」
ミンジュンは振り向いた。
「熱意を否定しているのではありません」
佐藤は言った。
「熱意の後始末を、名もない人々だけに背負わせたくないのです」
ミンジュンは返事をしなかった。
その言葉を聞かなかったことにした。
*
午後の協議は、長かった。
数字、表、条件、想定、追加資料、再試算。言葉は乾き、紙は重なり、コーヒーは何度も注ぎ直された。窓の外は夕方へ近づくにつれ暗くなり、会議室の照明だけが白く強くなっていった。
終わるころには、ミンジュンの指先は冷えていた。
通訳用のヘッドセットを外すと、耳の周りに汗が残っていた。革の部分が肌に貼りついていたせいで、外した瞬間、冷たい空気がそこに触れてぞくりとした。
ギュンスは資料を鞄にしまいながら言った。
「佐藤は厄介だな」
「中村の方が不愉快です」
「不愉快な人間は扱いやすい」
ギュンスは短く言った。
「こちらも怒ればいい。だが、佐藤のような男は面倒だ。こちらが怒りたいところを、怒りだけでは処理できない話にしてくる」
ミンジュンは黙っていた。
ギュンスは彼の顔を見た。
「気にするな」
「はい」
「数字は調整する。表現も調整する。開催を諦める理由にはならない」
「はい」
「国民に必要なのは、請求書の宛先の話ではない」
ギュンスは資料鞄を閉じた。
「未来の話だ」
ミンジュンは頷いた。
だが、その言葉を聞いた瞬間、佐藤の声がまた耳に戻ってきた。
請求書の宛先が、最後まで見えていることです。
ミンジュンは窓の外を見た。
雨は止んでいた。濡れた路面が夕方の光を反射し、街全体が薄い金属の膜をかぶったように光っている。
美しい光だった。
だが、その下にある水たまりの深さまでは見えなかった。
*
ソウルへ戻った夜、庁舎の匂いは以前より濃く感じられた。
長い飛行のあとで鼻が敏感になっていたのかもしれない。空港の消毒液の匂い、タクシーのビニールシートの匂い、夜の道路の排気ガス。それらをまとったまま庁舎に入ると、湿った紙と煙草と古いワックスの匂いが、身体にまとわりつくように迎えた。
ミンジュンは自分の机に鞄を置いた。
時刻は深夜に近かった。ほとんどの部屋は暗い。だが、彼の部署だけはまだ蛍光灯が点いていた。白い光が紙の山を照らし、机の影を床に薄く落としている。
彼はチューリッヒから持ち帰った資料を整理した。
財政試算。
交通整備。
地方負担。
安全管理。
そして、余白に自分の字で書き込んだ言葉がある。
請求書の宛先。
ミンジュンは、その字をしばらく見つめた。
自分の字なのに、自分を責めているように見えた。
彼は紙を裏返した。
その下に、古いファイルが一冊あった。
灰色の背表紙。
大型施設安全管理。
ミンジュンはしばらくそれを見つめた。
触れたくなかった。
だが、触れないままでは眠れない気がした。
彼は椅子に座り、ファイルを引き寄せた。
表紙には、長く棚に置かれていたせいか、薄い埃が積もっていた。指で払うと、ざらりとした感触があった。埃は蛍光灯の光の中で白く舞い、すぐに見えなくなった。
ファイルを開く。
紙の匂いが立ち上がった。
古いコピー用紙の匂い。インクの匂い。保管庫の湿気を吸ったような、鈍い匂い。
最初に出てきたのは、聖水大橋の資料だった。
事故の概要。
発生日。
被害者数。
構造上の問題。
管理責任。
行政対応。
文字は整然と並んでいた。
整然と並んでいることが、かえって恐ろしかった。
人の死は、報告書の中では項目になる。数字になる。原因になる。再発防止策になる。
ミンジュンはページをめくった。
写真が出てきた。
橋が、途中で折れていた。
川の上にあるはずの道が、そこだけ失われている。車両が傾き、鉄骨が裂け、コンクリートの断面が剥き出しになっていた。白黒のコピーだから、実際の色は分からない。だが、ミンジュンにはそこに冷たい水の匂いがある気がした。
川の匂い。
油の匂い。
濡れた鉄の匂い。
朝、家を出たまま帰らなかった人間の、鞄や靴や手袋の匂い。
彼は写真から目を離した。
次の資料は、三豊百貨店だった。
こちらの写真は、さらに見づらかった。瓦礫が重なりすぎて、何が床で何が天井だったのか分からない。柱の一部が折れ、コンクリートの塊が人間の背丈を超えて積み上がっている。救助隊員のヘルメットだけが、白く浮かんで見えた。
ミンジュンは指先で紙の端を押さえた。
コピー用紙の表面はざらついていた。
写真の黒い部分に触れると、指先にインクの微かな凹凸があるような気がした。もちろん、実際にはただの紙だ。それでも彼の指は、そこに粉塵の感触を探してしまう。
安全を怠ったとき、最初に潰れるのは誰か。
壇上で演説する者ではない。
設計図に署名する者でもない。
予算を承認する者でもない。
橋を渡っていただけの人間だ。
買い物に来ていただけの人間だ。
いつも通りの朝を、いつも通りに生きていただけの人間だ。
ミンジュンは息を止めた。
財政も同じなのかもしれない。
予算を膨らませる者がいる。
成功を語る者がいる。
名誉を受け取る者がいる。
そして最後に、何も決めていない人々のところへ請求書が届く。
国民のために、と語られた夢の代償が、国民の生活の中へ少しずつ紛れ込む。
税金として。
料金として。
削られる何かとして。
諦める何かとして。
ミンジュンは慌ててその考えを押し戻した。
違う。
われわれは国民を傷つけるためにやっているのではない。
国民に希望を与えるためにやっている。
韓国を世界に認めさせるためにやっている。
日本だけにアジア初開催を渡さないためにやっている。
それでも、机の上の写真は黙っていた。
崩れた橋は、彼の愛国心を聞かなかった。
潰れた百貨店は、彼の弁明を受け取らなかった。
コンクリートは、誰の国旗も見ない。
ミンジュンはゆっくりとファイルを閉じた。
厚い表紙が写真を覆い、部屋から瓦礫の像が消えた。
だが、完全には消えなかった。
指先にはまだ、古い紙のざらつきが残っている。鼻の奥には、ありもしない粉塵の匂いが残っている。耳の奥には、佐藤の声が残っている。
熱狂には代償がある。
問題は、その請求書が誰のところへ届くのかです。
ミンジュンは机の上の資料を整えた。
国民向け説明の草案。開催意義。経済効果。国際的評価。アジアの連帯。
その横に、灰色のファイルがある。
彼は少し迷い、それを机の一番下の引き出しにしまった。
鍵はかけなかった。
ただ、見えない場所に置いた。
窓の外では、ソウルの夜が深く沈んでいる。遠くの道路を走る車の光が、黒いガラスの中で細く流れていた。
ミンジュンは蛍光灯を消した。
部屋が暗くなる直前、机の上の紙の束が白く浮かび上がった。
未来のための資料。
誇りのための文章。
経済効果の試算。
そして、引き出しの奥にしまわれた事故の記録。
廊下へ出ると、庁舎の空気は冷えていた。靴音が長く響いた。誰もいない廊下の奥で、非常灯だけが緑色に光っている。その光は弱く、頼りなく、逃げ道を示しているはずなのに、どこか出口のない場所へ誘っているようにも見えた。
ミンジュンは歩きながら、まぶたを閉じた。
ファイルを閉じたあとも、瓦礫の写真だけが、まぶたの裏に残り続けた。
そしてその瓦礫の向こう側に、まだ顔の見えない無数の国民がいた。
彼らはまだ歓声を上げていない。
まだ赤いシャツも着ていない。
まだ広場にも集まっていない。
だが、いつか熱狂が終わったあと、誰かが差し出した請求書を、彼らは黙って受け取ることになるのかもしれなかった。




