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それでもウリはあきらめない  作者: それウリ
第一章 共同開催

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3/8

第3話 アジアの連帯という名前


 チューリッヒの夜は、ソウルの夜とは違っていた。


 ソウルの夜には、まだ人の熱が残っている。屋台の油の匂い、バスの排気、路地裏の湿ったコンクリート、遅くまで灯る食堂の湯気。眠らない街の喉の奥で、何かがまだ鳴っている。


 だが、チューリッヒの夜は冷えていた。


 石畳は水を吸ったように黒く、街灯の光を硬く跳ね返している。湖の方角から流れてくる風には、金属と水の匂いが混じっていた。耳の奥まで冷えるような風だった。ホテルの入口に立つと、自動扉が音もなく開き、外の冷気が背中からすっと離れていく。その瞬間だけ、ミンジュンは自分が別の世界に入ったような気がした。


 ロビーには、花の香りがあった。


 大きな壺に活けられた白い花。磨かれた大理石の床。革張りのソファ。低い天井灯が、金色に近い柔らかな光を落としている。そこには徹夜の庁舎に染みついていた煙草や冷えたコーヒーの匂いはない。代わりに、香水、革、洗剤、温められた空気、そして外国語の低いざわめきがある。


 そのすべてが、ミンジュンには少し薄情に感じられた。


 ここでは、祖国の焦りさえ、靴音一つ分の雑音に過ぎない。


 ハン・ミンジュンは、胸元のネクタイを指で直した。


 鏡に映った自分の顔は、思ったより青白かった。飛行機での浅い眠りと時差のせいで、目の下に薄い影がある。髪は整えたつもりだったが、前髪の端が少し浮いていた。彼は手のひらに水をつけ、そこを押さえた。水は冷たく、すぐに乾いた。


 ロビーの奥では、チェ・ギュンスが別の官僚と短く言葉を交わしていた。


 ギュンスは黒いスーツに濃紺のネクタイを締めている。肩の線は少し古くさいが、立っているだけで周囲の空気を押さえつけるような存在感があった。彼は笑わない。だが、相手が近づくと必要なだけ口角を上げる。その笑みは、親しみではなく、交渉のための道具に見えた。


 ミンジュンが近づくと、ギュンスは時計を見た。


「遅れるな。こういう場所では、時間より先に部屋へ入れ」


「はい」


「それから、顔に出すな」


「何をですか」


「悔しさだ」


 ギュンスはそう言って、ミンジュンの胸元を見た。


「日本側もいる。FIFAの連中もいる。こちらが焦っていると見せるな。単独開催が難しくなっていることを、われわれ自身が一番よく知っている。だからこそ、知らない顔をする」


 ミンジュンは頷いた。


 喉の奥が少し乾いていた。


「韓国は譲歩するのではない」


 ギュンスは低い声で言った。


「アジアのために分かち合うのだ」


 その言い方に、ミンジュンは一瞬だけ違和感を覚えた。


 分かち合う。


 それは美しい言葉だった。


 だが本当に、韓国は何かを分け与える側なのか。あるいは、全部を得られないから、半分を美しい言葉で受け取ろうとしているだけなのか。


 胸の奥に浮かんだその問いを、ミンジュンは飲み込んだ。


 飲み込んだ言葉は、冷めたコーヒーのように胃のあたりで苦く残った。


     *


 非公式会談の部屋は、ホテルの上階にあった。


 窓の外には、暗い湖と街の灯りが見える。遠くの光は水面に揺れ、細かく砕けていた。部屋の中には厚い絨毯が敷かれていて、歩いても靴音がほとんど立たない。その静けさは、礼儀正しいというより、言葉の落ちる音まで吸い込むための静けさだった。


 テーブルの上には、各国の資料が整然と置かれていた。


 ガラスの水差し。薄いグラス。小さな皿に盛られたナッツ。銀色のペン。白いメモ用紙。すべてが、過剰なくらい清潔だった。


 日本側の実務担当者たちは、先に席についていた。


 その中に、森川健司という男がいた。


 四十代前半。髪は短く、眼鏡の奥の目は穏やかだが、疲れていた。彼は日本サッカー協会側の実務担当者として、開催計画の調整に関わっている人物だった。ミンジュンは名前だけは何度も資料で見ていた。


 森川は、韓国側が入ってくると立ち上がり、丁寧に頭を下げた。


「お会いできて光栄です」


 通訳を介した日本語は、柔らかかった。


 だが、その柔らかさの奥に、薄い硬さがある。笑ってはいるが、警戒を解いてはいない。ミンジュンにはそう見えた。


 ギュンスは笑みを浮かべ、握手を交わした。


「こちらこそ。アジアのサッカーにとって、大事な時期です」


 アジアのサッカー。


 その言葉を、ギュンスは自然に言った。


 森川の指が、ほんのわずかに動いた。表情は変わらなかった。


「そうですね」


 彼は答えた。


「ただ、現場の調整は簡単ではありません」


 ギュンスは頷いた。


「当然です。大きな大会ですから」


「大きいだけではありません」


 森川は、目の前の資料に視線を落とした。


「共同で行うということは、二つの組織、二つの行政、二つの世論、二つの言語、二つの時間感覚を、一つの大会に乗せるということです」


 ミンジュンは、その言葉に少し身構えた。


 森川は声を荒げていない。むしろ、淡々としていた。しかし、淡々としているぶん、苦情が苦情としてではなく、事実として置かれていく。


「共同開催は美しい言葉です」


 森川は言った。


「けれど、現場では美しい言葉ほど扱いに困る」


 ミンジュンは、数日前に聞いたミュラーの言葉を思い出した。


 美しい言葉ほど、現場では扱いに困る。


 国籍も立場も違う二人が、同じようなことを言う。


 それが偶然なのか、現場を知る者の共通した感覚なのか、ミンジュンにはまだ分からなかった。


 ギュンスは表情を変えなかった。


「美しい言葉を現実にするのが、われわれ実務者の仕事でしょう」


「はい」


 森川は静かに頷いた。


「だからこそ、最初に曖昧さを減らしたいのです。開幕戦、決勝戦、組織委員会の権限、スポンサー、放送権、チケット配分、警備責任、輸送計画。美しい理念だけでは、観客は席に着けません」


 ミンジュンは、膝の上の資料を握った。


 紙の角が指の腹に当たる。


 日本側は、すでに共同開催を前提とした場合の問題点を並べ始めている。韓国側がまだ「共同開催を勝利と呼べるか」に悩んでいる間に、彼らは「共同開催で何が面倒になるか」を見ている。


 その差が、ミンジュンには悔しかった。


 ギュンスは、ゆっくりと言った。


「韓国は、対等な開催国です」


「もちろんです」


 森川は即座に答えた。


「だからこそ、対等に責任も分ける必要があります」


 部屋の空気が少し冷えた。


 窓の外では、湖面に映る光が細かく震えている。暖房の効いた部屋の中にいるのに、ミンジュンは外の冷気を感じた。


 責任。


 その言葉は、名誉より重かった。


     *


 翌日のFIFA本部は、朝から薄い光に包まれていた。


 雲が低く、建物のガラス壁には鉛色の空が映っていた。雨は降っていない。だが、空気には水分が多く、スーツの肩に見えない湿り気がまとわりつく。


 会議室に入ると、いつもの紙とコーヒーの匂いがした。


 銀色のポットから注がれたコーヒーは濃く、焦げたような苦味を含んでいる。通訳用のヘッドセットには、前に使った誰かの体温がわずかに残っている気がした。耳に当てると、革の部分が冷たく、すぐに自分の熱で湿った。


 ミンジュンは韓国側席の後方に座った。


 正式な発言者ではない。メモを取り、資料を渡し、必要なときだけ上司に数字を示す立場だ。だが、ここで交わされる言葉の一つ一つが、自分の国の未来に触れていると思うと、ただの補佐役ではいられなかった。


 会議は、日本案の評価から始まった。


 技術評価担当者、アルベルト・ミュラーが、淡々と資料を読み上げていく。


 スタジアム計画。

 都市間移動。

 宿泊能力。

 警備体制。

 財政面。

 大会後の施設利用。


 日本案に関する評価は、総じて高かった。


 ミュラーの言葉は飾らない。だからこそ、褒めている部分は余計に重く聞こえる。


「計画の整合性が高い」


「工程に余裕がある」


「責任分担が明確である」


「既存インフラを活用できる」


 ミンジュンはメモを取りながら、ペン先に力が入るのを感じた。


 紙が少しへこんでいる。


 ギュンスは隣で無表情だった。目だけが資料の上を走っている。


 続いて、韓国案の評価に移った。


 国民的熱意。政府の支援。大会の象徴性。アジア全体への波及効果。


 そこまではよかった。


 しかし、ミュラーの声は、ある項目で少しだけ沈んだ。


「安全管理については、なお追加確認が必要です」


 会議室の空気が変わった。


 ミンジュンは、首筋に細い汗が滲むのを感じた。部屋は暑くない。むしろ冷房が効きすぎているくらいだ。それでも、汗が出た。


 ミュラーは資料をめくった。


「韓国側は、安全基準の見直し、施工監理体制の強化、大規模施設の点検を進めていると説明しています」


 彼はそこで顔を上げた。


「しかし、近年発生した大型構造物の崩壊事故は、国際的な懸念として残っています」


 聖水大橋。


 三豊百貨店。


 名前は直接出なかった。


 だが、出たのと同じだった。


 ミンジュンの指先が冷えた。


 彼はその二つの事故を知らないわけではない。新聞で読んだ。映像も見た。瓦礫の写真も、崩れた橋も、泣き叫ぶ家族も、記憶の底にある。


 だが、ここでその記憶が持ち出されると、別の痛み方をした。


 自分の家の傷を、他人の会議室で広げられるような痛みだった。


 ギュンスが発言を求めた。


「韓国政府は、過去の事故を重く受け止めています」


 彼の声は落ち着いていた。


「安全基準はすでに見直され、監督体制も強化されています。ワールドカップ関連施設については、政府が直接責任を持って点検し、国際基準に合致させる方針です」


 ミュラーは頷いた。


「説明は理解しています」


「ならば、懸念は払拭されるはずです」


「説明を理解することと、懸念が消えることは同じではありません」


 その瞬間、ミンジュンはペンを止めた。


 ギュンスの顔には何も出なかった。


 ミュラーは続けた。


「観客は政治的象徴ではありません。人間です。座席に座り、階段を下り、橋を渡る。その一つ一つに、安全の責任がある」


 言葉は静かだった。


 だが、石のように重かった。


 韓国側の別の官僚が、やや硬い声で言った。


「韓国は、過去の事故から学びました」


「そうであることを願います」


 ミュラーは答えた。


 願います。


 それは、信じます、ではなかった。


 ミンジュンは、その差に傷ついた。


 ロランがそこで口を開いた。


 政治部門の幹部である彼は、いつも声の温度を一定に保っている。熱くも冷たくもない。相手が怒るほど強くはなく、無視できるほど弱くもない。


「われわれは、二つの事実を見なければなりません」


 ロランは言った。


「一つ、日本案は準備面で非常に強い。もう一つ、韓国を完全に外すことは、アジア初開催の意味を狭める」


 会議室の視線が彼に集まった。


「韓国には熱意がある。国民的支持がある。政府の支援がある。そして、政治的な意味がある」


 政治的な意味。


 ミンジュンは、その言葉をメモした。


 ペン先が紙の上で止まる。


 政治的な意味。


 それは、褒め言葉なのか。


 それとも、準備力では勝てない者に与えられる別の評価なのか。


 ロランは続けた。


「日本に単独開催を与えることは、実務的には安定している。しかし、政治的には強すぎる決定になる。韓国に単独開催を与えることは、象徴的には魅力がある。しかし、実務面で不安が残る」


 誰も口を挟まなかった。


 それは、すでに多くの者が考えていたことだった。


 ただ、誰かが言葉にするのを待っていただけだ。


 ロランは、テーブルの上に置かれた二つのファイルを見た。


 日本。


 韓国。


 その二つの背表紙の間には、わずかな隙間があった。ミンジュンには、その隙間が海のように見えた。


「ならば」


 ロランは言った。


「共同開催という選択肢を、真剣に検討すべきです」


 会議室に、見えない波が走った。


 日本側の委員の一人が眉を動かした。韓国側の年配官僚が、椅子の背に沈むように体を引いた。通訳が一瞬だけ言葉を選び、ヘッドセットの向こうに別の言語で同じ意味を流した。


 共同開催。


 言葉になった瞬間、それは空気ではなく、物体になった。


 テーブルの上に置かれたものとして、誰も無視できなくなった。


「共同開催は、調整が複雑になります」


 日本側委員が言った。


「当然です」


 ロランは答えた。


「しかし、名誉も負担も分けることができる」


 ミュラーが顔を上げた。


「リスクも、です」


 ロランは彼を見た。


「だからこそ分けるのです」


 ミュラーの目が細くなった。


「安全リスクは、分けたから薄まるものではありません」


「開催責任は分担できる」


「事故が起きれば、責任の境界は観客には関係ありません」


 その言葉に、会議室が沈んだ。


 ミンジュンは、喉の奥が乾くのを感じた。


 彼はミュラーが嫌いだった。


 いや、嫌いになりたかった。


 韓国の熱意を疑い、過去の事故を持ち出し、安全不信を強調する男。そう思えば、反発できる。祖国を侮っているのだと怒ることもできる。


 だが、ミュラーの声には侮りがなかった。


 そこにあるのは、冷たい職責だった。


 それがミンジュンには苦しかった。


 侮辱なら、怒ればいい。


 正論は、怒っても消えない。


 ギュンスが静かに言った。


「共同開催であれ単独開催であれ、韓国は開催国としての責任を果たします」


 ロランは頷いた。


「その意思を、世界に示す必要があります」


「韓国はすでに示しています」


「もっと分かりやすく、です」


 ロランは柔らかく言った。


「共同開催は、譲歩ではありません。少なくとも、そう語ることができます。アジア初の大会を、二つの国が共に担う。過去を越え、未来へ進む。これは世界に向けて強い物語になる」


 ミンジュンは、その言葉を聞きながら、胸の奥で何かがゆっくりほどけていくのを感じた。


 譲歩ではない。


 アジアのために分かち合う。


 過去を越える。


 未来へ進む。


 どれも、美しい。


 どれも、使える。


 だが、同時に、どれも何かを隠している。


 日本案の準備力。


 韓国案の不安。


 単独開催を勝ち取れない現実。


 FIFAが求める政治的な収まり。


 それらを一つ一つ机に置いていけば、苦くなる。


 だが、「アジアの連帯」と言えば、同じ現実が少し甘くなる。


 ミンジュンはメモ用紙に書いた。


 アジアの連帯。


 文字は綺麗だった。


 綺麗すぎるくらいだった。


     *


 昼休憩のあと、韓国側は別室に集められた。


 そこは会議室というより、小さな待機室だった。白い壁。低い天井。窓はあるが、外の景色は隣の建物の壁に遮られている。テーブルの上にはサンドイッチと果物が置かれていたが、誰もほとんど手をつけていない。


 パンは乾いていた。


 ハムは薄く、チーズは冷蔵庫の匂いがした。ミンジュンは一切れだけ口に入れたが、味が分からなかった。噛むたびに、パンの端が口の中の水分を奪った。


 ギュンスは立ったまま、資料を確認していた。


「流れは共同開催だ」


 彼は言った。


 誰も驚かなかった。


 驚かないことが、すでに答えだった。


「問題は、どう受け取るかではありませんか」


 若手官僚の一人が言った。


「国内向けには、単独開催失敗と見られる可能性があります」


「見られる可能性があるなら、見せ方を変える」


 ギュンスは即座に返した。


「韓国は押し切られたのではない。アジアのために大きな決断をした。日本と対等に大会を担う。世界が韓国を外せなかった。そういう形にする」


 ミンジュンは黙って聞いていた。


 ギュンスは彼に視線を向けた。


「ミンジュン」


「はい」


「この言葉を覚えておけ。外交文書では、負けたとは書かない。譲ったとも書かない。相手に押されたとも書かない」


「では、どう書くのですか」


「選択した、と書く」


 ギュンスは言った。


「韓国は、アジアの未来のために共同開催を選択した。韓国は、世界のサッカー発展のために日本と手を携えることを選択した。韓国は、過去を越える道を選択した。選択した者は、敗者ではない」


 ミンジュンは、その言葉を聞きながら、頭の中で文章の形を組み始めていた。


 韓国は選択した。


 韓国は決断した。


 韓国は世界に認められた。


 確かに、文章になる。


 新聞にも載る。テレビでも読まれる。国民も受け入れやすい。


 だが、その言葉の下に沈むものを、彼は見ないふりできるだろうか。


 ギュンスはサンドイッチには手をつけず、紙コップの水だけを飲んだ。


「日本側は現場の調整で文句を言うだろう。FIFAは美しい理念を欲しがる。国内世論は勝利を求める。われわれは、その三つを同時に処理する」


「安全問題は」


 ミンジュンは思わず口にしていた。


 部屋の視線が彼に集まった。


 自分でも、なぜ言ったのか分からなかった。


 ミュラーの言葉が耳に残っていたのかもしれない。


 観客は政治的象徴ではありません。人間です。


 ギュンスは、しばらくミンジュンを見た。


「安全問題は処理する」


「書くのですか」


「必要な範囲で」


「国内向けには?」


「克服した、と書く」


 ギュンスの声は平らだった。


「過去の事故を教訓に、韓国は安全管理を強化した。そう書く。実際に強化する。嘘にするな。だが、不安を広げるような書き方もするな」


 嘘にするな。


 だが、不安を広げるな。


 その二つの間に、細い道がある。


 ミンジュンは、その道の上に自分が立たされていることを感じた。


「国民に必要なのは、不安ではない」


 ギュンスは言った。


「未来だ」


 その言葉は強かった。


 強い言葉は、人を救うことがある。


 同時に、人の目を塞ぐこともある。


 ミンジュンはまだ、その違いをはっきりとは分からなかった。


     *


 夕方、FIFA本部の廊下には淡い西日が差していた。


 ガラス窓から入る光は、床を斜めに切り、壁にかかった写真の縁を金色に染めていた。昼間の冷たい白さとは違う、少しだけ柔らかい光だった。その光の中を歩くと、廊下の空気まで薄く温まっているように感じる。


 ミンジュンは、一人で自動販売機の前に立っていた。


 紙コップに注がれたコーヒーは薄かった。庁舎の焦げたコーヒーとも、ホテルの高いコーヒーとも違う。どこか水っぽく、香りだけが先に逃げていく味だった。


 彼はそれを持ったまま、窓際に立った。


 外では、職員たちが建物を出ていく。コートを着た男。肩掛け鞄の女。煙草をくわえた警備員。彼らの日常の中で、いま交わされている言葉が、遠い国の何千万もの人間の歓喜や落胆を左右する。


 不思議だった。


 国家の夢は、もっと熱い場所で決まるのだと思っていた。


 旗が振られ、演説があり、怒号が飛び、誰かが机を叩くような場所で。


 だが実際には、厚い絨毯の上で、冷めたコーヒーの横で、整えられた英語の文言として決まっていく。


 ふいに、背後から声がした。


「韓国の方ですね」


 ミンジュンは振り向いた。


 森川健司だった。


 彼は紙コップを片手に持ち、少し疲れた顔で立っていた。


「はい。ハン・ミンジュンです」


「森川です。今朝は、失礼しました」


「失礼?」


「現場の話ばかりして」


 森川は小さく笑った。


「こういう場では、理念を語る方が好まれるのでしょうが、私はどうしても、輸送と警備とチケットのことを考えてしまう」


「それが仕事でしょう」


「そうですね」


 森川は窓の外を見た。


「でも、仕事というのは、ときどき人から夢を奪っているように見える」


 ミンジュンは黙った。


「日本でも、多くの人が単独開催を信じて準備してきました」


 森川の声は静かだった。


「Jリーグが始まり、ようやく日本サッカーが世界へ出ていく。その象徴になるはずだった。現場の人間は、みなそれを誇りに思っていました」


 ミンジュンは、紙コップを握る手に力が入った。


 日本にも夢がある。


 そんな当たり前のことを、彼はあまり考えたくなかった。


 日本は強い側で、準備ができている側で、世界に認められている側だと思いたかった。その方が、怒りやすい。対抗しやすい。


 だが、森川の横顔には、勝者の余裕だけではない疲労があった。


「共同開催になれば、日本側にも不満は出ます」


 森川は言った。


「韓国側にも出るでしょう」


「それでも、世界は美しい話として受け取る」


「おそらく」


 森川は苦笑した。


「共同開催。アジアの連帯。過去を越える大会。良い言葉です」


「良い言葉だと思いませんか」


「思います」


 森川は答えた。


「だから困るんです」


 ミンジュンは彼を見た。


「良い言葉は、反対しにくい」


 森川は続けた。


「誰も、連帯に反対したいわけではない。未来に反対したいわけでもない。だけど現場には、未処理の問題が残る。理念が大きいほど、小さな問題を口にする人間が狭量に見える」


 ミンジュンは、ミュラーの言葉をまた思い出した。


 観客は政治的象徴ではない。


 そして、森川の言葉がそれに重なる。


 小さな問題。


 だが、その小さな問題の上を人が歩く。


 橋を渡る。階段を下りる。ゲートに並ぶ。


「それでも」


 ミンジュンは言った。


「韓国にとって、この大会は必要です」


「日本にとってもです」


 森川は静かに返した。


 二人の間に、短い沈黙が落ちた。


 窓の外の西日は少しずつ弱くなり、ガラスに映る二人の顔も暗くなっていく。


 森川は紙コップのコーヒーを飲み干し、軽く頭を下げた。


「良い大会にしましょう」


 その言葉は、外交辞令のようでもあり、本心のようでもあった。


 ミンジュンは少し遅れて頷いた。


「はい」


 森川が去ったあと、ミンジュンはしばらく窓際に立っていた。


 手の中のコーヒーはもう冷えていた。


     *


 その夜、ホテルの部屋に戻ったミンジュンは、机の上にメモを広げた。


 窓の外には、チューリッヒの街灯が静かに灯っている。ソウルのように騒がしくない。車の音も、人の声も遠い。部屋の中では、空調が低く唸っていた。乾いた風が、カーテンの端をわずかに揺らしている。


 机の上のランプをつけると、黄色い光が紙の上に落ちた。


 庁舎の蛍光灯とは違う光だった。


 少し暖かく、少し嘘っぽい。ものの輪郭を柔らかくし、しわや汚れを目立たなくする光。


 ミンジュンはペンを取った。


 今日、何度も聞いた言葉を書き出す。


 共同開催。


 アジアの連帯。


 過去を越える。


 未来へ進む。


 対等な開催国。


 韓国の国際的評価。


 彼はその下に、小さく別の言葉を書いた。


 日本案の準備力。


 安全不信。


 単独開催困難。


 政治的決着。


 その二つの群れを見比べる。


 上の言葉は、美しい。

 下の言葉は、苦い。


 だが、どちらも現実だった。


 問題は、どちらを国民に見せるか。


 あるいは、どちらを先に見せ、どちらを奥へしまうか。


 ミンジュンは椅子の背にもたれた。布張りの椅子は柔らかく、背中を沈ませる。庁舎の硬い椅子とは違う。体は休めるはずなのに、頭は少しも休まらなかった。


 ギュンスの声が耳に残っている。


 選択した者は、敗者ではない。


 ロランの声も。


 世界に向けては、強い物語になる。


 森川の声も。


 良い言葉は、反対しにくい。


 そしてミュラーの声。


 観客は政治的象徴ではありません。人間です。


 それらの声が、異なる方向からミンジュンの胸を引いた。


 彼は目を閉じた。


 まぶたの裏に、少年のころの土のグラウンドが浮かんだ。乾いた土。剥げたボール。夕方の赤い光。遠くから聞こえる母の声。あのころ、彼はただ韓国が世界に認められる日を夢見ていた。


 その夢が、いま目の前にある。


 だが、夢は近づくほど、輪郭が荒く見える。


 遠くから見れば輝いていたものの表面に、近づけば傷がある。塗り直された跡がある。隠された継ぎ目がある。


 それでも、欲しい。


 ミンジュンは目を開けた。


 そして、メモ用紙の一番上に、ゆっくりと書いた。


 韓国は、アジアの未来のために共同開催を選択する。


 その文章は、彼の手の中で生まれた瞬間から、もう公的な匂いを持っていた。官僚の文章の匂い。誰も傷つけないように見えて、何かを確実に覆い隠す匂い。


 彼はしばらく、その文字を見つめた。


 共同開催。


 その言葉は、美しかった。


 美しく、曖昧で、誰の敗北もはっきりとは映さなかった。


 ミンジュンはペンを置いた。


 窓の外では、チューリッヒの灯りが湖の上で揺れていた。水面に映った光は、形を保てず、風のたびに細かく崩れる。


 それでも遠くから見れば、美しかった。


 共同開催という言葉は、その場にいた誰にとっても便利だった。美しく、曖昧で、誰の敗北もはっきりとは映さなかった。


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