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それでもウリはあきらめない  作者: それウリ
第一章 共同開催

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第2話 日本単独開催だけは避けろ


 ソウルの庁舎は、夜になると別の建物になる。


 昼間は磨かれた石とガラスの箱に見えるその場所も、午前二時を過ぎると、眠り損ねた巨大な獣のように、ところどころに白い目を開けていた。外から見上げると、黒く沈んだ窓の中に、蛍光灯の四角い光だけが浮いている。雨は降っていないのに、夜気は湿っていて、庁舎前の広場の石畳には、排気ガスと土埃の匂いが低く残っていた。


 ハン・ミンジュンは、その白い光の一つの下にいた。


 机の上には、紙が積み上がっている。


 日本側の招致資料。韓国側の修正案。FIFA委員の発言記録。スタジアム予定地の一覧。交通網の整備計画。宿泊施設の試算。警備体制。財政負担。赤鉛筆で線を引いた紙は、どれも少しずつ端が反り、乾いた鱗のように机の上で重なっていた。


 部屋には、古い紙と冷えたコーヒーの匂いが満ちていた。


 それに混じって、誰かが残していった煙草の匂いがある。灰皿には、上司が吸い切らずに潰した煙草が一本、まだ形を残していた。煙はもう出ていない。それでも焦げた葉の匂いは、壁やカーテンや書類の束に染みつき、徹夜の空気を作っていた。


 ミンジュンは煙草を吸わない。


 だが、その匂いは嫌いではなかった。


 この匂いがする場所では、何かが決まる。誰かが眠らずに紙へ向かい、国のためだと信じて文章を書き、数字を直し、赤線を引く。煙草の匂いは、その努力の影のようなものだった。


 彼は冷めたコーヒーを一口飲んだ。


 舌の上に、酸っぱくなった苦味が広がる。胃が小さく縮んだ。それでも眠気は完全には去らない。まぶたの裏には、ここ数日ほとんど眠れていないせいで、薄い砂が張りついているようだった。


 ミンジュンは目頭を指で押さえ、再び資料へ視線を落とした。


 日本案。


 その文字を見るだけで、胸の奥が少し硬くなった。


 彼は日本を憎んでいるわけではなかった。少年のころ、テレビで見た日本の競技場や都市の映像には、むしろ素直に驚いた。真っ直ぐ走る新幹線。照明の整ったスタジアム。時間通りに動く電車。清潔な道路。整った空港。


 だが、その驚きはいつも、喉の奥に小さな棘を残した。


 なぜ、いつも先にいるのか。


 なぜ、世界はまず日本を見るのか。


 韓国もここにいる。韓国にも人がいる。韓国にも歌があり、汗があり、涙があり、ボールを追う子どもたちがいる。


 なのに、世界の目はいつも少しだけ海の向こうに向いている気がした。


 ミンジュンは日本案の資料をめくった。


 紙質がよかった。指先に滑らかで、厚みがある。図面の線は細く、表は整然としている。数字の置き方まで、静かな自信を持っているようだった。


 交通網。


 宿泊能力。


 大会運営。


 安全対策。


 どの項目も、腹立たしいほど落ち着いている。


 韓国案の資料には、もっと熱があった。文章は大きく、言葉は強く、国民の期待を示す写真も多い。赤と青の色が目立ち、ページを開くだけで、胸を叩くような勢いがある。


 だが、日本案には、熱ではなく厚みがあった。


 その厚みが、ミンジュンを苛立たせた。


 彼は赤鉛筆を握り直し、韓国側資料の余白に書き込んだ。


「国民的支持の強調」


「政府主導の保証」


「アジア初開催の意義」


「日本単独開催阻止」


 最後の一文を書いたとき、鉛筆の芯が紙に少し食い込んだ。


 日本単独開催阻止。


 それは、誰も公式文書には書かない言葉だった。


 だが、この部屋にいる者たちは皆、その言葉を知っていた。


 韓国が単独開催を勝ち取れないかもしれないことも、日本の準備力が強いことも、FIFA内部に日本支持の空気があることも、彼らは分かっていた。


 だからこそ、最も避けるべきものは明確だった。


 日本だけのワールドカップ。


 それだけは、避けなければならない。


 ミンジュンは椅子にもたれ、天井を見上げた。蛍光灯の光が眩しかった。白すぎる光だった。人間の顔色を奪い、紙を死人の肌のように見せる光。庁舎の夜の蛍光灯は、いつも人の疲れを隠さない。


 その光の中で、彼の意識はふと、遠い土の匂いへ戻った。


     *


 少年のころのグラウンドは、いつも乾いていた。


 ソウルから遠い地方の小さな町。学校の裏にある土の広場。雨が降れば泥になり、晴れれば細かな砂が舞い上がる。夏には、土と汗と草の匂いが混じり、冬には、凍った地面が靴底を硬く跳ね返した。


 ミンジュンの家には、新しいボールを買う余裕などなかった。


 彼が使っていたボールは、表面の白い皮が剥げ、黒い五角形の模様も半分消えかけていた。縫い目から空気が少しずつ抜けるので、蹴るたびに鈍い音がした。足の甲に当たる感触も、テレビで見る選手たちのボールとは違う気がした。


 それでも、彼にはそれが世界で一番大事なものだった。


 夕方、校舎の影がグラウンドを長く覆うころ、彼は一人でボールを蹴った。


 蹴る。走る。拾う。もう一度蹴る。


 靴は安物で、爪先の布が破れかけていた。足の親指が内側で擦れ、汗が染みると少し痛んだ。だが、その痛みさえ、ボールを追っている間は気にならなかった。


 ボールを蹴っているときだけ、彼は自分の家の狭さも、父の疲れた背中も、母が家計簿の前で黙り込む夜も、忘れることができた。


 サッカーは、彼にとって逃げ場所だった。


 そして、いつしかそれは、願いになった。


 ある夜、彼は家の小さなテレビで日本の映像を見た。


 明るいスタジアム。整った芝。大きな看板。統制された観客席。選手たちのユニフォームは眩しく、ピッチの緑は、彼の町の乾いた土とはまるで違っていた。


 父が隣で言った。


「日本は、もうあそこまで行ったんだな」


 その言い方に、怒りはなかった。羨望も、諦めも、少しだけ混じっていた。


 ミンジュンは画面を見つめた。


 胸の中に、冷たいものが落ちた。


 それは悔しさだった。


 なぜ、韓国ではないのか。


 なぜ、自分たちの国の子どもたちは、土の上で剥げたボールを追い、日本の子どもたちはあんな緑の芝の上に立てるのか。


 その夜、彼は布団の中で眠れなかった。窓の隙間から冷たい風が入り、薄い布団の端を揺らしていた。遠くで犬が吠えていた。家の天井の木目を見つめながら、彼は初めて思った。


 いつか、韓国も世界の中心に立つ。


 ただ勝つだけでは足りない。


 世界に見せなければならない。


 韓国は、もう後ろにいる国ではないのだと。


     *


 庁舎の廊下で、足音がした。


 ミンジュンは顔を上げた。


 足音はゆっくり近づいてくる。革靴の底が、ワックスのかかった床を叩く音だった。夜の廊下では、その音がやけに大きい。


 扉が開き、チェ・ギュンスが入ってきた。


 五十代半ばの男だった。背は高くない。だが、部屋に入ると空気の重心が変わる。髪には白いものが混じり、頬はこけている。目の下には深い皺があるが、その目だけは眠気を知らないように鋭かった。


 黒いコートの肩に、外の冷気が残っている。彼が近づくと、煙草と整髪料、それに冷たい夜気の匂いがした。


「まだ起きていたのか」


「はい」


 ミンジュンは立ち上がろうとした。


 ギュンスは手で制した。


「座っていろ」


 彼はミンジュンの机の上から日本案の資料を取り、無造作にめくった。指先が太く、爪は短く切られている。その手は、紙を扱う官僚の手というより、何か硬いものをつかんできた人間の手に見えた。


「よくできているな」


 ギュンスは言った。


 ミンジュンは黙った。


「悔しいか」


「……はい」


 ギュンスは小さく笑った。


「悔しいと思えるなら、まだ使える」


 彼はページを閉じ、机に置いた。


「準備能力だけを見るなら、日本案は強い」


 その言葉は、ミンジュンの胸を浅く刺した。


 分かっている。


 だが、上司の口から聞くと、別の痛みがあった。


「ですが、韓国にも国民の熱意があります。政府も全力で支援します。アジア初の大会を、韓国抜きで語ることはできません」


「その通りだ」


 ギュンスは頷いた。


「だが、熱意だけでは勝てない」


 ミンジュンは唇を引き結んだ。


 ギュンスは机の端に腰を軽く預け、蛍光灯の白い光の中でミンジュンを見下ろした。


「ミンジュン。お前は、ワールドカップを何だと思っている」


 ミンジュンは少し考えた。


「世界最大のサッカー大会です」


「違う」


 ギュンスは即座に言った。


「国民に夢を与える機会です」


「それも違う」


 ミンジュンは黙った。


 ギュンスは、ゆっくりと言った。


「サッカーは競技ではない。国家の格を決める戦場だ」


 部屋の空気が、一瞬止まったように感じた。


 蛍光灯の微かな唸りだけが聞こえる。


 ミンジュンは、その言葉を胸の奥で受け止めた。


 国家の格。


 戦場。


 その言葉は、危険なほど魅力的だった。


 ギュンスは続けた。


「日本は準備ができている。それは認める。彼らは長く積み上げてきた。金もある。都市もある。交通もある。世界に説明しやすい。だが、だからといって、日本だけに渡していいのか」


「いいえ」


「韓国はいつまで、日本の後ろに立つつもりだ」


 ミンジュンの指が、机の下で強く握られた。


「日本が先に進み、韓国がまた拍手する。そんな絵を世界に見せるために、われわれはここにいるのか」


「違います」


 声が思ったより低く出た。


 ギュンスは満足げに目を細めた。


「単独開催が理想だ。だが、最悪なのは単独開催を逃すことではない。最悪なのは、日本単独開催を許すことだ」


 日本単独開催。


 その言葉が、部屋の中に落ちた。


 紙の束より重く、冷めたコーヒーより苦かった。


「共同開催なら」


 ミンジュンは言った。


「共同開催なら、日本だけの大会にはなりません」


「そうだ」


 ギュンスは頷いた。


「それは敗北ではない。少なくとも、敗北とは呼ばせない」


「ですが、国民は単独開催を望んでいます」


「国民は勝利を望んでいる」


 ギュンスはすぐに返した。


「単独か共同かではない。韓国が世界に認められたと感じられるかどうかだ。言葉を間違えるな。外交も政治も、最後は言葉だ」


 ミンジュンは、机の上の赤鉛筆を見た。


 紙の上に書いた「日本単独開催阻止」という文字が、蛍光灯の下で黒く見えた。


 ギュンスはそれに気づいたらしく、薄く笑った。


「本音を書くな。だが、本音を忘れるな」


 その言葉は、命令のようでもあり、教育のようでもあった。


 ミンジュンは深く息を吸った。部屋の空気は乾いていて、喉の奥に煙草の苦味が貼りついた。


「はい」


「三十分後に会議だ。資料を持ってこい」


 ギュンスはそう言って、部屋を出ていった。


 扉が閉まったあとも、彼の匂いだけが少し残った。


 煙草。夜気。整髪料。


 そして、国家という言葉の匂い。


     *


 会議室には、すでに十数人の官僚が集まっていた。


 長机の上には、湯気の消えた茶、紙コップのコーヒー、乱雑に置かれた資料、灰皿が並んでいる。誰かが開けた窓から、冬に近い冷たい空気が入り込んでいたが、部屋の中は人の体温で少し湿っていた。


 壁には、アジアの地図が貼られている。


 日本列島と朝鮮半島に、それぞれ赤いピンが刺さっていた。ピンの頭が蛍光灯を受け、小さく光る。


 ギュンスが上座に座ると、会議室のざわめきがすぐに消えた。


「状況を確認する」


 彼の声はかすれていたが、よく通った。


「日本案は強い。これは認めなければならない。FIFA内部にも、日本単独開催を支持する流れがある。準備力、財政、交通、宿泊、安全。彼らは弱点を少なく見せるのがうまい」


 若手官僚の一人が言った。


「韓国の熱意は、十分伝わっているはずです」


「熱意は伝わっている」


 ギュンスは答えた。


「だが、熱意は票そのものではない」


 会議室が静まった。


 別の幹部が資料をめくった。


「韓国単独開催にこだわり続ければ、票をまとめきれない可能性があります」


「つまり?」


「共同開催案を、こちらから拒まない姿勢を準備すべきです」


 その言葉に、部屋の温度が少し下がったように感じた。


 単独開催を目指してきた。


 国民にもそう見せてきた。


 その中で「共同開催」を口にすることは、敗北の匂いを持っていた。


 ミンジュンは膝の上で資料を握った。紙の角が指の腹に食い込む。


 ギュンスが言った。


「共同開催は敗北ではない」


 誰も反論しなかった。


 反論しなかったのではない。


 反論できなかった。


 ギュンスは続けた。


「日本だけに開催させない。これが第一だ。韓国を大会の中心に残す。これが第二だ。そして国民には、韓国が世界に認められた結果として伝える」


「しかし、野党やメディアは、単独開催失敗と見る可能性があります」


「だから言葉を用意する」


 ギュンスは地図を指差した。


「日韓共同開催。アジアの連帯。過去を越える大会。新しい時代の象徴。言い方はいくらでもある」


 ミンジュンは、その言葉を聞きながら、喉の奥に小さな違和感を覚えた。


 共同開催。


 たしかに、日本だけの大会にはならない。


 たしかに、韓国も世界に示される。


 たしかに、国民は喜ぶかもしれない。


 だが、それは勝利なのか。


 それとも、敗北を勝利の形に包み直すことなのか。


 彼は顔を上げた。


 会議室の窓の外には、夜明け前のソウルが広がっていた。建物の輪郭はまだ黒く、空は青ではなく、鉄のような色をしている。遠くの道路を走る車のライトが、細い傷のように動いていた。


 この国は、まだ眠っている。


 国民は、まだ知らない。


 自分たちが今、どんな言葉を選ぼうとしているのか。


 ギュンスがミンジュンを見た。


「ミンジュン」


「はい」


「国民向け説明のたたき台を作れ。単独開催に失敗した印象を一切出すな。韓国の努力が国際的に評価されたという軸で書く」


「はい」


「それから、日本への対抗意識を直接書くな」


 ギュンスは少しだけ口元を歪めた。


「直接書けば、品がない。だが、読めば分かるようにしろ」


 会議室に、かすかな笑いが起きた。


 ミンジュンは笑わなかった。


 彼は資料の余白に、短く書いた。


「韓国は世界に認められた」


 その文は、強かった。


 美しかった。


 そして、少しだけ危うかった。


     *


 会議が終わるころ、窓の外は白み始めていた。


 庁舎の外に出ると、朝の空気が頬を刺した。冬の入口のような冷たさだった。ミンジュンはコートの襟を立て、階段を下りた。


 東の空は、まだ完全には明るくない。灰色の雲の下に、薄い橙色が滲んでいる。街路樹の葉は湿っていて、車が通るたびに排気ガスの匂いが朝の空気に混ざった。


 庁舎前の広場には、新聞配達のバイクが一台、音を立てて通り過ぎた。タイヤが石畳の隙間を叩き、小さな水滴が跳ねた。


 ミンジュンは立ち止まり、空を見上げた。


 眠気で目の奥が痛い。


 指先には、まだ紙の感触が残っている。赤鉛筆の粉が親指の腹につき、こすっても薄く赤い跡が消えなかった。


 共同開催。


 その言葉を、彼は口の中で転がした。


 勝利。


 妥協。


 連帯。


 敗北ではない何か。


 どの言葉を使うかで、同じ出来事の見え方は変わる。


 国民が見るもの。

 新聞が書くもの。

 テレビが伝えるもの。

 世界が記憶するもの。


 それらは、事実そのものとは少し違う。


 事実に、どんな名前を与えるか。


 その名前を決める場所に、自分は立っている。


 そう思ったとき、ミンジュンの胸に、誇りに似た熱が広がった。


 だが同時に、その熱の奥で、小さな何かが冷えていた。


 彼はそれを、疲れのせいだと思うことにした。


 庁舎の上階では、まだ蛍光灯がいくつも白く光っている。眠らない部屋。紙の匂い。冷めたコーヒー。煙草の灰。そこで、これから国の言葉が作られていく。


 ミンジュンはもう一度、赤くなった親指を見た。


 その夜、彼は初めて知った。


 国家の勝利とは、事実そのものではなく、事実にどんな名前を与えるかで決まることがあるのだと。


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