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それでもウリはあきらめない  作者: それウリ
第一章 共同開催

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第1話 熱意でコンクリートは支えられない

第1話 熱意でコンクリートは支えられない


 チューリッヒの朝は、まだ夜の体温を残していた。


 湖から這い上がってきた霧が、石畳の隙間に白く沈み、街路樹の枝先を濡らしている。夜のあいだに冷えきった空気は、肺に入ると薄い金属の膜のように胸の内側へ張りついた。通りを走る車の音も少ない。遠くで路面電車が軋むたび、その響きだけが、眠った街の骨を鳴らすように長く伸びた。


 国際サッカー連盟本部の建物は、その冷たい朝の中で、ひときわ乾いた光を放っていた。


 磨かれたガラスの壁面には、灰色の空がぼんやり映っている。入口の金属製の取っ手は、触れれば指先の熱を奪うほど冷えていた。ロビーには、床を磨いた洗剤の匂いと、昨夜から残っている暖房の乾いた匂いが混じっていた。


 まだ職員の足音もまばらな時間だった。


 しかし、二階の会議室だけはすでに灯りがついていた。


 長い楕円形のテーブル。磨かれた木目。壁際に並んだ通訳機材。黒いコードが蛇のように床を這い、各席の前には水差しとグラスが置かれている。銀色のポットに入ったコーヒーからは、焦げた豆の匂いが細く立ち上っていた。皿に並べられたクロワッサンは、まだ誰にも手をつけられておらず、表面のバターだけが照明を受けて鈍く光っていた。


 机の上には、いくつものファイルが積まれていた。


 国名ごとに色分けされた背表紙。

 厚い紙。

 製本された図面。

 細かな数字が並ぶ工程表。


 その中で、日本の提出資料だけは、妙に静かだった。


 派手な言葉は少ない。

 熱っぽい宣言も少ない。

 代わりに、表と図と数字が整然と並んでいる。


 スタジアム候補地。

 都市間輸送。

 宿泊可能人数。

 警備動線。

 医療体制。

 放送設備。

 財政負担。

 工期。


 ページをめくると、乾いた紙の音がした。薄い紙ではない。指先に少し抵抗を返す、密度のある紙だった。インクは濃く、線は細く、図面の角はきれいに揃っている。


 技術評価担当のアルベルト・ミュラーは、老眼鏡を鼻の上でわずかに押し上げた。


 彼は日本案の工程表をしばらく見つめてから、表紙を閉じた。ファイルが木の机に触れ、低い音を立てた。


「準備という点では、非常に堅い」


 声は小さかった。だが、会議室の中では十分だった。


 政治部門の幹部、マルセル・ロランが、椅子の背にもたれたまま尋ねた。


「堅い、とは?」


 ロランの前には、まだ口をつけていないコーヒーがあった。表面には薄い膜が張り、天井の蛍光灯を歪めて映している。


「予定が読める、ということです」


 ミュラーは答えた。


「競技場、交通網、宿泊、警備、医療、通信。もちろん課題はあります。しかし、どこに課題があるかを彼ら自身が理解している。工程表にも余白がある。遅延を見込んだ余白です。これは大事だ」


 誰かが小さく頷いた。


「日本には新幹線がある。空港も、都市機能も整っている」


「財政計画も現実的だ」


「政治的な安定もある」


 委員たちの言葉は、窓の外の朝と同じように冷たく、澄んでいた。


 そのとき、別の委員が皮肉のように言った。


「サッカー文化についてはどうだ」


 会議室に、乾いた笑いがわずかに広がった。


 ロランが肩をすくめる。


「それは、開催までに育てるつもりなのだろう」


 笑いはすぐに消えた。


 ミュラーは笑わなかった。彼はすでに、隣に置かれた別のファイルを見ていた。


 韓国。


 その表紙は、日本案よりも強い色を使っていた。赤と青。大きな文字。開会式の想像図。満員の観客席。国旗。笑顔の子ども。本文には、何度も同じ言葉が現れた。


 情熱。

 国民の願い。

 アジアの新時代。

 分断を越える力。

 世界へ開かれる韓国。


 紙面から、熱が出ているようだった。


 日本案が、よく乾いた木材のような資料だとすれば、韓国案は、火に近づけた布のようだった。触れれば温かい。だが、焦げる匂いも少しする。


 ロランはそのファイルを開き、序文に目を落とした。


「こちらには、別の価値がある」


 彼は言った。


「日本だけに与えれば、たしかに準備は安定する。だが、アジア初のワールドカップという物語は、少し狭くなる」


「物語ですか」


 ミュラーは顔を上げた。


「大会は物語でもある。君もそれは知っているだろう」


「私は、観客席が崩れないかどうかを見る立場です」


「もちろんだ」


 ロランは薄く笑った。


「だから君が必要なのだよ。われわれが夢を語りすぎないように」


 ミュラーは返事をしなかった。


 彼は韓国案の技術資料をめくった。


 ページを送るたびに、紙の端が指の腹をこすった。写真は多い。スタジアムの完成予想図も多い。政府高官の言葉もある。国民の期待を示す新聞記事の切り抜きもある。招致活動に参加する若者たちの笑顔もある。


 悪い資料ではない。


 むしろ、必死で作られた資料だった。


 だが、必死さは、計画の穴を埋めるものではない。


 工程の余白。

 責任区分の余白。

 資金調達の余白。

 施工監理の余白。


 ミュラーの指が、ある項目で止まった。


 大型施設安全管理。


 その下に、薄い別紙が挟まれていた。


 紙の質が違った。

 招致資料の白い紙ではない。

 新聞記事を複写した、少しざらついた紙だった。


 聖水大橋崩壊事故。

 三豊百貨店崩壊事故。


 会議室の空気が、わずかに重くなった。


 誰かがコーヒーカップを受け皿に戻した。磁器の触れ合う音が、妙に鋭く響いた。


 ミュラーは別紙を抜き出した。


 写真が数枚、添付されていた。


 川へ落ちた橋。

 折れた鉄骨。

 水辺で傾いた車。

 白い粉塵に包まれた百貨店の残骸。

 積み重なったコンクリート。

 瓦礫の上に立つ救助隊員の背中。


 写真は、少し荒れていた。

 印刷された灰色の粒が粗く、影の部分は潰れている。だが、それでも十分だった。そこに写っているものが何であるかは、誰の目にも分かった。


 人が使うはずだった場所。

 人が通るはずだった橋。

 人が買い物をするはずだった建物。


 それが、人を押しつぶすものに変わった瞬間だった。


「これは、過去の事故だ」


 日本案を推す委員の一人が言った。


「過去は、計画の一部です」


 ミュラーは返した。


 その声は低いままだったが、少しだけ硬かった。


「特に、それが構造物に関する過去なら」


 ロランが韓国側の説明書きを読んだ。


「韓国側は、安全基準の見直しを進めている。監督体制も強化した。大規模施設については政府主導で点検を行う、とある」


「読みました」


「ならば?」


「私は説明ではなく、仕組みを見ています」


 ミュラーは写真を一枚、テーブルの中央に置いた。


 崩れた橋の写真だった。


 紙の端が少し反っていた。暖房で乾いたのだろう。その反った端が、会議室の空気に触れてかすかに浮いている。そこに写った橋は、まるで自分の重さに耐えかねて折れた獣の背骨のようだった。


「橋が落ちた。百貨店が崩れた。数年のうちに、二度もだ」


 ミュラーは言った。


「これは単なる偶発事故ではありません。設計、施工、監理、行政、利益、納期。どこか一つだけが狂ったのではない。複数の歯車が、同じ方向に緩んでいたと見るべきです」


 沈黙が落ちた。


 窓の外で霧が薄れ始めていた。朝の光がガラス越しに入り、会議室の床を淡く照らす。その光は冷たかった。机の上のグラスを通り、透明な影を木目に落としている。


「韓国に熱意があることは認めます」


 ミュラーは続けた。


「政府の支援も、国民の期待も、政治的な意味も。しかし、世界中から観客が来る。子どもも来る。老人も来る。彼らは国旗を振り、歌い、席に座る。試合が終われば階段を下り、橋を渡り、地下鉄に乗る」


 彼は写真から目を離さなかった。


「そのとき必要なのは、熱意ではありません」


 誰も口を挟まなかった。


「熱意でコンクリートは支えられない」


 その言葉は、重かった。


 大声ではなかった。

 怒鳴ったわけでもない。

 だが、会議室の壁に染み込むような言葉だった。


 ロランは、カップを手に取った。コーヒーはもうぬるくなっていた。彼は一口飲んだが、すぐに顔をしかめた。焦げた苦味だけが残っていた。


「だが、韓国を外すことも簡単ではない」


 韓国案に政治的価値を見ている委員が言った。


「簡単かどうかではありません」


 ミュラーが返す。


「いや、簡単かどうかの問題でもある」


 その委員は身を乗り出した。


「アジア初のワールドカップを日本だけで開催する。韓国はそれをどう受け取る。日本はまた先へ進み、韓国はまた置き去りにされたと感じるだろう。大会が始まる前から、アジアの中に傷を作ることになる」


「われわれは国際政治機関ではありません」


 ミュラーが言った。


 ロランが静かに笑った。


「サッカーほど政治的なものはないよ、アルベルト」


 ミュラーは彼を見た。


「少なくとも、私は図面を見ています」


「そして私は、図面の外側を見ている」


 ロランは韓国案の表紙に手を置いた。指輪が照明を受けて小さく光った。


「日本は準備ができている。これは事実だ。韓国は不安を残している。これも事実だ。しかし韓国を加えれば、大会は単なる開催地選定ではなくなる。和解、連帯、競争、記憶。そういう言葉を乗せられる」


「言葉は、荷重計算には使えません」


「だが、開催地決定には使える」


 ロランの声は穏やかだった。


 穏やかだからこそ、強かった。


 会議室にいる者たちは、その言葉がどこへ向かっているかを理解していた。


 日本単独開催は、安全で、合理的で、説明しやすい。


 しかし、政治的には鋭すぎる。


 韓国単独開催は、熱を持ち、象徴性もある。


 しかし、安全と準備に不安が残る。


 ならば、その中間にある言葉は何か。


 誰も、まだはっきりとは口にしなかった。


 共同開催。


 その四文字は、すでに会議室の空気の中に浮かんでいた。窓から入る朝の光の中で、見えない埃のように漂っていた。


 日本案を推す委員が、苦々しげに言った。


「日本側は反発するでしょう。彼らは長く準備してきた」


「当然だ」


 ロランは答えた。


「韓国側も満足はしない。彼らは単独開催を望んでいる」


「なら、誰が喜ぶのですか」


「世界だ」


 ロランは迷わなかった。


「少なくとも、世界に向けてはそう説明できる。アジアが一つになって初のワールドカップを開く。日韓が手を取り合う。過去を越える。未来へ進む。美しいではないか」


 ミュラーは、テーブル中央の写真を見つめていた。


 瓦礫の写真は、美しくなかった。


 粉塵の匂いがするようだった。

 濡れたコンクリートの冷たさが、指先に伝わるようだった。

 潰れた空間の中で、誰かが最後に吸った空気の重さまで、紙の上に残っているようだった。


「美しい言葉ほど、現場では扱いに困る」


 ミュラーは言った。


 反論はなかった。


 美しい言葉は便利だった。


 便利な言葉は、責任の輪郭を柔らかくする。


 準備。

 熱意。

 安全。

 政治。

 誇り。

 不安。


 本来なら別々に測らなければならないものが、一つの言葉の下に押し込められていく。


 アジアの連帯。


 未来への架け橋。


 共同開催。


 ロランは窓の外を見た。霧は少しずつ晴れ、街の屋根に薄い朝日が触れていた。光はまだ弱く、すべての輪郭を銀色にぼかしていた。


「日本だけに与えれば、準備としては安全だ」


 彼は静かに言った。


「だが、政治としては危うい」


 それが、その朝の結論ではなかった。


 だが、結論の形をした予感ではあった。


 会議はまだ続く。

 文言はまだ何度も変わる。

 誰かが議事録を書き、誰かが削り、誰かが丸め、誰かが美しくする。


 やがて世界に向けて発表される言葉は、もっと清潔なものになるだろう。


 そこに、崩れた橋の写真は入らない。

 百貨店の瓦礫も入らない。

 粉塵で白くなった遺族の顔も入らない。


 それでも、それらは消えない。


 ただ、別のファイルに戻されるだけだ。


 ミュラーは写真を拾い上げた。紙の表面は少しざらついていた。親指でなぞると、印刷の粒がかすかに引っかかった。


 彼はそれを、韓国案の安全管理資料の中へ戻した。


 ファイルを閉じる。


 厚い紙束が重なる音が、会議室に低く響いた。


 ミュラーは知っていた。


 こういう会議では、正しい懸念が必ず勝つわけではない。


 正しい懸念は、しばしば「考慮された」と記録される。

 そして、考慮されたという事実によって、静かに退けられる。


 ロランが立ち上がった。


「休憩にしよう」


 椅子が引かれた。金属の脚が床をこすり、硬い音を立てた。通訳たちがヘッドセットを外し、秘書がカップを片づける。クロワッサンの皿は、まだほとんど減っていなかった。


 人々が部屋を出ていくと、会議室には紙とコーヒーと暖房の匂いだけが残った。


 ミュラーだけは、しばらく席を立たなかった。


 彼は日本案のファイルと韓国案のファイルを並べて見た。


 一つは、準備の厚みを語っていた。


 一つは、欲望の熱を語っていた。


 どちらにも正しさがあった。

 どちらにも欠けているものがあった。


 だが、コンクリートは正しさを選ばない。


 荷重を超えれば割れる。

 監理を怠れば歪む。

 手を抜けば崩れる。

 そして崩れたあとで、どれほど立派な理念を掲げても、人は戻らない。


 ミュラーは、指先に残った紙のざらつきをこすり合わせた。


 それは、瓦礫の粉の感触に似ている気がした。


     *


 同じ頃、ソウルはまだ夜の底に沈んでいた。


 政府庁舎の窓には、いくつもの明かりが残っていた。黒いガラスに蛍光灯の白さが滲み、遠くから見ると、巨大な建物の中に眠れない魚が何匹も泳いでいるようだった。


 庁舎の廊下は、夜になると独特の匂いがした。


 古いワックス。

 湿った紙。

 冷めた弁当。

 誰かの煙草。

 長く閉じられた部屋にこもる、人間の疲労の匂い。


 その一室で、ハン・ミンジュンは机に向かっていた。


 若い官僚の机には、資料が崩れそうなほど積まれている。日本の開催計画、韓国の招致方針、スタジアム候補地、国際世論、FIFA委員の発言記録。赤鉛筆で引かれた線が、紙の上を傷跡のように走っていた。


 コーヒーは冷めていた。


 表面には黒い膜が張り、飲むと舌の奥に酸っぱい苦味が残る。ミンジュンはそれでも、眠気を追い払うために一口飲んだ。胃が小さく縮むような感覚があった。


 灰皿には、上司が残していった吸い殻が一本だけ置かれている。ミンジュン自身は煙草を吸わない。しかし、焦げた紙と煙草の匂いは部屋に染みついていた。徹夜の匂いだった。焦りの匂いだった。国家事業という、よく磨かれた言葉の裏側にある、汗と眠気の匂いだった。


 彼は手元の文章を読み返した。


「二〇〇二年ワールドカップの韓国開催は、国民統合と国家イメージ向上の歴史的契機であり――」


 ペンが止まった。


 歴史的契機。


 その言葉は正しい。

 たしかに正しい。


 だが、まだ何も決まっていない。


 日本は強い。


 それは、彼も知っていた。


 資料を見れば分かる。

 数字を見れば分かる。

 競技場、交通、宿泊、治安、財政。


 日本の計画には隙が少ない。

 韓国がどれほど声を張り上げても、世界は声の大きさだけでは振り向かない。


 それでも、ミンジュンは諦めたくなかった。


 ワールドカップは、ただの大会ではなかった。


 韓国が世界に向かって、自分たちはここにいると叫ぶための舞台だった。


 日本だけのものにしてはいけない。


 そう思うと、胸の奥が熱くなった。冷えたコーヒーで重くなった胃のあたりから、別の熱がこみ上げてくる。その熱だけが、庁舎の白い蛍光灯の下で、彼をまだ立たせていた。


 ミンジュンは新しい紙を引き寄せ、ペンを握り直した。


 紙は乾いていた。

 ペン先が走るたび、微かな摩擦が指に返ってきた。


 窓の外はまだ暗い。


 東の空が白み始めるには、もう少し時間がある。


 彼は知らなかった。


 遠いチューリッヒの会議室で、自分の国がすでに疑われていたことを。


 韓国の熱意が、瓦礫の写真と同じテーブルに置かれていたことを。


 そして、彼がこれから守ろうとしている夢の足元に、まだ乾ききらない亀裂が走っていることを。


 ソウルの夜明け前、ハン・ミンジュンは、自分の国がすでに疑われていることをまだ知らなかった。

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