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7:逃避行の先に、君はいない

 啓輔らしい細い線の文字が多くを語り、去っていく。真っ白な便箋の上を転がっては整列し、読み終えた先から滲んでぼやけて消えていく。

 瞬き一つでクリアになる視界は、何度も海の中を潜り込んで俺が最後まで読み終えるのを遮ってくる。

 啓輔が残した最後の声を、どうしてもっと早くに聞けなかったのだろう。どうしてこれを最後にしてしまうのだろう。

 あの日、あの屋上で一緒に逃げようと言ってくれた啓輔の表情を思い出そうとしても、靄が掛かった記憶は口元だけしか浮かべてくれない。

 ゆるりと持ち上げられた口角。笑っていると思ったそれが、本当は、作り笑いだったなんて信じられなくて。

 ちゃんと見ていなかった自分に腹が立つ。少しでも感じた違和感があったはずなのに、それすら見逃していた自分が憎くて憎くてしかたない。

 大事な時期だからと途絶えていく連絡を先延ばしにして自分の事しか見ていなかった。

 過去も、今も、俺はいつだって自分の事しか考えていないんだと、思い知らされる。

「ごめん、啓輔」

 くしゃりと歪む便箋の束は止まない雨に濡れて文字と共にふやけていく。

「一人にして、置いていって、ごめん」

 記憶の中では微笑んでいたはずのその顔が、棺桶の中で静かに眠る目覚めぬ表情へと塗り替えられていく。

「一緒に、最後まで逃げてやれなくて、本当に、ごめん……っ!!」

 耳の奥で木霊する啓輔の声が、遠く、遠くへと消えていく。

 まるであの日見た波のように寄せては還る、還っていく。海の向こうへと、俺が辿り着けない地平線の彼方へと。

 啓輔はただ一人、ひとりで渡ってしまった。

 置き土産のように残された俺の掌に納まっているシーグラス。啓輔の書いた言葉通り、あの海と同じ色をしている。

 波に揉まれ、岩にぶつかり、石に削られ、その形を雫のようなものへと変えて、今此処に在る。

 これは啓輔が残した、啓輔の涙なのかもしれない。そう思えば思うほど、これを持つ資格が俺にあるのかと不安になる。

 けれど手放すことだけはできそうにない。捨てることはもとより、遺品として啓輔の母親に託すことも、できない。

 啓輔は俺に縋って生きてきたという。依存していただけだという。

 だけどそれがお前だけだと言うならば違う。違うのだ。

「啓輔、俺だって、俺だって本当は――」

 お前に依存して生きてきたんだ。一人になることを恐れて、傍にいたお前と一緒に生きていきたかったんだ。

 なのに傍を離れることになって、残ることだけはできない確定事項に怯えて、二人で逃げ出して――その先の重い責任を前に、俺は折れた。

 子供だなんだと言い訳を重ねて、お前の手を離した。

「一番離しちゃいけない手を、俺は自ら手離して、お前を……っ!!」

 啓輔、お前は逃げたというけれど、そうじゃない。そうじゃないんだ。

 お前は、俺に殺されたんだ。

 お前を一人にして、独りにさせた俺のせいで、お前は、死んでしまったんだよ。

「ごめん、啓輔、本当に、本当にごめん……っ!!」

 その場に蹲り、声が嗄れはてるまで俺は泣いた。握り締めたシーグラスは決して俺に痛みを残そうとはしなかった。鋭さを削られ、丸みを帯びたそれが俺に与えるのは、海の持つ冷たさだけ。

 いっそ突き刺さって消えない傷跡になってくれれば、永遠に啓輔という存在を俺に刻み込むことができただろうに。

 眼に見えない傷跡よりも、眼に見える形でお前の存在を残したかった。

 それがお前の与えてくれたこのシーグラスだというのなら、なおのことそれを使ってこの身体に傷が欲しかったんだ。

 人間は忘れていく生き物だ。忘れたくないと願っていても、覚えていると口にしても、声から順番に、一つ一つ確かに生きていた証を、存在を消していく。

 それが、残された人間が生きる上での必然だとしても、俺はお前を忘れたくない。忘れたくないんだ。


 だから、なぁ、啓輔?

 さよならなんて、言わないでくれよ。

 また会おうって、約束、したのに。

 こんな形じゃない再会を、俺に約束してくれよ!!


「けいすけ、俺を、おいていかないで……っ」


 縋りついたシーグラスの中に、お前という存在が眠るならどうか、その海の中に俺も一緒にいさせてくれないか。

 そうしたら今度こそ、お前の手を離さないと誓うから。

 物言わぬシーグラスは、それでも俺に応えてくれやしない。

 あの日の逃避行の先に、啓輔だけが消えてしまった。

 置いていったのはきっと、俺であり、お前なんだろう。

 後悔してももう遅い。俺達はもう、二度と、出会えない。


「さようなら、亮。また会える日まで」


 そう言って別れたあの日、お前はどんな表情をしていたのだろう。

 もう、思い出すことすら、俺には許されないような気がした。

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