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過去と赤牙

湯上がりの夜。

山間の温泉宿は静かだった。

虫の音だけが聞こえる。

縁側に腰を下ろしたターケシは、湯呑みから立ち上る湯気を眺めていた。

ふと足音が聞こえる。

振り返ると、シフォンがいた。

風呂上がりの髪はまだ少し湿っている。

「隣、いいですか?」

「ああ。」

シフォンは遠慮がちに腰を下ろした。

しばらく二人で夜空を見上げる。

やがてシフォンがぽつりと呟いた。

「私、こんなに幸せなの、久しぶりです。」

ターケシは何も言わない。

続きを待った。

「小さい頃は……村で暮らしていました。」

シフォンの耳がわずかに伏せられる。

「お父さんも、お母さんもいました。」

懐かしそうな声だった。

「畑を手伝って、友達と走り回って……。」

そこで言葉が途切れる。

「でも、ある日。」

夜風が吹く。

「盗賊が来ました。」

ターケシは黙って聞く。

「燃やされて、捕まって……それからはずっと奴隷でした。」

シフォンは膝の上で手を握る。

「何度も売られました。」

「今度の主人はどんな人だろう。」

「殴る人かな。」

「ご飯をくれるかな。」

「また捨てられるかな。」

か細い声。

「転売されるたびに怖かったです。」

ターケシには返す言葉がなかった。

だから黙って聞く。

それしかできない。

シフォンは少し笑った。

「でも。」

灰色の耳がしゃんと立つ。

「今は違います。」

「ご飯がおいしくて。」

「みんな優しくて。」

「一緒に冒険できて。」

「……村にいた頃以来です。」

そして小さく笑う。

「ありがとうございます、ご主人様。」

ターケシは困ったように明後日を見る。

「礼を言われるようなことはしてない。」

「したんです。」

シフォンは珍しく譲らなかった。

その時。

障子が開く音。

「しんみりした話をしているようですわね。」

ロザリアだった。

彼女も湯上がりらしく、長い金髪を下ろしている。

ターケシの反対側へ腰を下ろした。

「聞いていましたの?」

「途中からですわ。」

ロザリアは肩をすくめる。

そして夜空を見上げた。

「私も感謝しています。」

ターケシは少し驚く。

ロザリアがこういうことを素直に言うのは珍しい。

「家は没落し、父は行方不明。」

「私も奴隷になりました。」

「誰も、親友と思っていた人間も、幼なじみも、助けてくれませんでした。」

「正直、人間なんて信用できませんでしたわ。」

苦笑する。

「最初は、あなたのことも。」

ターケシは苦笑いした。

「だろうな。」

二人とも少し笑う。

「ですが。」

ロザリアは真面目な顔になった。

「あなたは私たちを道具として扱いませんでした。」

「それがどれほど救いだったか。」

静かな感謝の言葉だった。

その時。

さらに足音が近づく。

フィリアだった。

月明かりに照らされた緑の髪が揺れる。

「話は聞こえていた。」

エルフの少女は三人の近くに立つ。

「シフォン。」

静かな声。

「君の村を襲った連中について、話しておきたい。」

空気が変わった。

シフォンの耳がぴくりと動く。

「知ってるんですか?」

フィリアは頷く。

「おそらく。」

「赤牙という盗賊、いや、大規模な奴隷狩り集団」

シフォンにはわからない。

「聞いたことがあるな…地下闘技場で戦っていたときに。」

「地下闘技場ですって!?あんなところにいたんですの!?ターケシ様が!?」

「…また今度話す。今は赤牙の話だ。」

だがフィリアの声音は重かった。

「獣人を狩り、奴隷として売る組織。」

「各地の盗賊団や奴隷商人を束ねる巨大な集団だ。」

シフォンの顔が固くなる。

「じゃあ……」

「私の村を……襲ったのはその、」

フィリアは静かに頷く。

「赤牙。」

その名を覚えるように。

噛みしめるように。

呟いた。

月は静かに四人を照らしていた。

誰もまだ知らない。

その名との、長い戦いが始まることを。

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