過去の夢
石畳の路地を降りてゆく。
街の喧騒は、階段を一段下りるごとに遠ざかり、代わりに湿った空気が肌へまとわりつく。
鼻を突くのは、古い血の臭い。
汗。
酒。
獣脂を燃やす松明の煙。
それらが混ざり合った、地下だけが持つ重苦しい匂いだった。
さらに奥へ進む。
やがて視界が開ける。
そこには巨大な円形の空間が広がっていた。
石を積み上げて造られた観客席は、何重にも取り囲むようにせり上がり、数百人もの観客が肩をぶつけ合って座っている。
天井は低い。
黒く煤けた岩盤に、鉄の籠へ入れられた松明が等間隔に吊るされ、赤黒い炎が揺れている。
光は弱く、闘技場全体が夕暮れのように薄暗い。
中央には砂地。
直径二十メートルほどの円形闘技場だ。
砂は黄土色ではない。
何度も血を吸い、踏み固められた黒ずんだ砂。
所々には乾ききらない赤黒い染みが残っている。
境界を示すのは、膝ほどの高さの丸太を並べただけ。
逃げ場はない。
倒れるまで戦うための場所だ。
歓声が響く。
「やれぇぇぇ!」
「首を折れ!」
「殺せぇ!」
「獣人なんぞ潰せ!」
酒杯が飛ぶ。
銅貨が宙を舞う。
勝敗に金を賭ける者。
奴隷の値踏みをする商人。
傷の治り具合を眺める闇医者。
新しい商品を探す奴隷商人。
素性も知れぬ盗賊。
身なりのいい貴族らしき男まで、顔を隠して観客席に紛れている。
誰も戦士の名など覚えてはいない。
強い者は金になる。
負けた者は死ぬ。
それだけだ。
闘技場の外周には鉄格子の控室が並ぶ。
檻の中では、次の試合を待つ男たちが無言で拳を握る。
ある者は神へ祈り、
ある者は家族の形見を握り締め、
ある者は虚ろな目で床だけを見つめている。
そして、重い鐘が鳴る。
ゴォォン……
歓声が一瞬静まり返る。
鉄格子が軋みを上げて開く。
「次だ。」
太い棒を持った役目の無感情な一言。
名誉、栄光よりも。
生き延びる権利を得るために。
ターケシもまた、その砂の上へ何度となく足を踏み入れた。
帰るために。
ただ、生きて帰るためだけに。
「次の試合ッ!」
鉄格子が軋みを上げて開く。
ターケシは無言で砂地へ歩み出た。
両拳には厚く巻かれた麻布。
血が滲み、幾度も巻き直した跡が残っている。
対するは、身の丈二メートル近い大男。
筋骨隆々。
上半身裸。
鼻は潰れ、耳は潰れ、何十戦も潜り抜けてきた歴戦の闘士だった。
「新入りか。」
男が笑う。
「三十秒で潰してやる。」
鐘が鳴る。
ゴォォンッ!
大男が突進する。
まともに殴られれば終わる。
ターケシは顔色を変えず半歩だけ左へ。
拳を紙一重でかわす。
そのまま踏み込み、掌底が大男の顎を跳ね上げる。
男がのけぞる。
間髪入れず腕と肩をつかみ、背中を当てて腰を沈める。
一本背負い。
巨体が宙を舞った。
ドォン!!
砂煙。
場内がどよめく。
「投げただと!?」
だが、大男は転がりながら立ち上がる。
「面白ぇ!」
拳を振るう。
蹴りを放つ。
ターケシは受けない。
かわす。
いなす。
一歩も下がらない。
観客が叫ぶ。
「何だあいつ!」
「全部見えてやがる!」
大男が痺れを切らした。
雄叫びを上げ、両腕で抱え込もうと飛び込む。
その瞬間。
ターケシは低く潜る。
右肩を大男の腹へ。
両脚で地面を蹴る。
ドゴォッ!!
巨体が持ち上がる。
そのまま丸太近くまで押し込む力で一直線。
大男は踏ん張る。
しかしターケシは止まらない。
さらに一歩。
二歩。
三歩。
「おおおおおっ!」観客が吠える。
最後は足を払う。
巨体が後ろへ崩れた。
砂煙。
ターケシは倒れた男の背中に回る。
逃がさない。
腕を絡める。
首へ回す。
ターケシは無表情だった。
力ではない。
呼吸を奪う。
十秒。
十五秒。
やがて大男の動きが止まる。
審判が駆け込む。
「そこまで!」
ターケシはす腕を離し、静かに立ち上がった。
歓声は、一拍遅れて爆発した。
「うおおおおおお!」
「また勝った!」
「鬼だ!」
「あれは人間じゃねえ!」
「異世界の鬼だ!」
銅貨が舞う。
酒が飛ぶ。
観客は熱狂する。
ターケシは歓声を聞いていなかった。
見つめていたのは、闘技場の天井。
あの岩盤の向こうには、空がある。
そのさらに向こうに。
帰るべき世界があるのだろうか。
その答えを知る者は、今日も誰一人いなかった。




