過去の痛み
孤児院の廊下を歩く。
床板はところどころ崩れ、足を置くたびに軋んだ。
壁には煤がこびりつき。
窓枠は黒く焼け焦げている。
長い年月が経っているはずなのに。
その傷跡だけは妙にはっきり残っていた。
「……」
シフォンが足を止めた。
ターケシは振り返る。
少女は一つの部屋を見つめていた。
小さな子供部屋だった。
壁際に並ぶ小さなベッド。
倒れた椅子。
煤で汚れた木箱。
もう何年も誰も使っていない。
それでも、
そこに誰かが暮らしていたことだけは伝わってくる。
シフォンはそっと部屋へ入った。
ターケシも何も言わず後ろからついていく。
少女は小さなベッドの前でしゃがみ込んだ。
指先で黒くなった木枠をなぞる。
「ここ……」
小さな声。
「子供たちが寝てたんですよね」
「ああ」
ターケシは短く答えた。
しばらく沈黙が続く。
風だけが窓から吹き込む。
やがてシフォンが呟いた。
「怖かったでしょうね」
ターケシは何も言わなかった。
シフォンはベッドを見つめたまま続ける。
「火が出た時……」
その声は少し震えていた。
「小さい子もいたと思うんです」
彼女の瞳は過去を見ていた。
この孤児院ではない。
自分自身の。
赤牙に襲われた村。
燃える家々。
泣き叫ぶ人々。
家族と引き離された日のことを。
「神父様もいたんですよね」
ぽつりと呟く。
「たぶんそうだろうな」
「シスターさんも」
「ああ」
「ご飯作る人とか」
「いたかもしれない」
シフォンは少し考える。
そして、
本当に子供らしい質問をした。
「ちゃんと逃げられたでしょうか」
ターケシは答えられなかった。
分からないからだ。
この場所に何が起きたのか。
まだ何も分からない。
「私」
シフォンは小さく笑った。
「お母さんの顔、あんまり覚えてないんです」
ターケシの胸が少し痛んだ。
少女がそんなことを口にするのは珍しい。
「でも」
シフォンは窓の外を見る。
「きっと、こんなところだったんだろうなって」
「こんなところ?」
「はい」
少女は部屋を見回した。
「お母さんじゃなくても」
ベッド。
机。
椅子。
壁。
焼け跡。
「誰かがご飯作ってくれて」
「誰かが怒ってくれて」
「誰かが寝る前におやすみって言ってくれて」
彼女は少し笑った。
だがその笑顔は寂しかった。
「そういう人がいたんだと思います」
ターケシは黙って聞いていた。
ロザリアも。
フィリアも。
誰も口を挟まない。
シフォンは焼け跡の壁に手を置いた。
まるでそこにいた誰かに触れるように。
「子供たちも」
小さな声。
「神父様も」
「シスターさんも」
「みんな無事だったらいいな」
その願いはあまりにも優しかった。
そして。
あまりにも残酷だった。
この場所に残る焼け跡が、
その願いを裏切る未来を予感させるからだ。
ターケシはそっとシフォンの頭に手を置いた。
少女の耳がぴくりと動く。
「まだ分からない」
ターケシは静かに言った。
「だから調べよう」
シフォンは少しだけ目を見開き、
それから力強く頷いた。
「はい」
その返事に、怯えはなかった。




