ハリントン
拍手はしばらく鳴り止まなかった。
地下闘技場を埋め尽くした観客たちは立ち上がり、惜しみない拍手を二人へ送る。
勝者シフォン。
敗者ロザリア。
だが、その場にいた誰もが思っていた。
――二人とも、本当に強かった。
◇
控室へ戻る途中だった。
「よう。」
聞き慣れた声がする。
振り向くと、地下格闘技大会で主人公たちを指導してきた"先生"が腕を組んで立っていた。
「いい試合を見せてもらった。」
珍しく口元が緩んでいる。
「ありがとうございます。」
シフォンとロザリアは揃って頭を下げた。
先生は主人公へ視線を向ける。
「支配人がお前たちと話をしたいらしい。」
「賞金のほかにも、何か望みがあるなら考えておけ。」
「今回は過去にないほど客が入った。」
「お前たちのおかげで、大盛況だったからな。」
主人公は小さく頷いた。
「分かった。」
◇
案内された部屋では、地下闘技場の支配人が待っていた。
恰幅の良い男。
上等な服。
人当たりの良い笑顔。
だが主人公は、この男をあまり好いてはいない。
闘技奴隷だった頃から知っている。
嘘はつかない。
だが、都合の悪いことも決して言わない。
利益になることは笑顔で差し出し、損になることは笑顔で隠す。
そういう男だった。
「いやぁ、本当に見事でした。」
支配人は柔和な笑みを浮かべる。
「ここまで大会を盛り上げてくださった方々は久しぶりです。」
「心より感謝申し上げます。」
主人公は黙って聞いていた。
(……本題はまだだ。)
支配人は机の上へ革袋を置く。
ずしり、と重い音が響く。
「優勝賞金、金貨百枚。」
「地下闘技場としては破格の金額でございますぞ。」
主人公は革袋を見つめた。
金貨一枚。
約十万円。
銀貨百枚に相当する。
さらに銀貨一枚は銅貨百枚。
銅貨一枚は、およそ十円ほどの価値だ。
食事なら銅貨十五枚もあれば十分。
だが日雇い仕事では、一日働いても銅貨二十枚ほどしか稼げない。
その一方で、王都の最高級宿では一泊で金貨数枚が消える。
同じ国とは思えないほどの格差。
それが、この世界だった。
支配人は笑みを崩さない。
「さて。」
「賞金のほかに、何かご希望はございますかな。」
「大会を盛り上げてくださったお礼として、可能な範囲でお応えいたしましょう。」
主人公は迷わなかった。
「黒蛇の動向。」
「それと、獣人奴隷売買について知っていることを教えてほしい。」
支配人の笑みが、ほんの一瞬だけ止まる。
しかし次の瞬間には、元の柔和な表情へ戻っていた。
「……なるほど。」
シフォンが少し驚いたように主人公を見る。
主人公は視線だけで答えた。
――お前の優勝だ。
その報酬でもある。
シフォンは静かに頷いた。
その時だった。
「もう一つ、よろしいでしょうか。」
意外にも、口を開いたのはロザリアだった。
支配人が目を向ける。
「準決勝で戦った……顔無しの騎士。」
「あの方は何者ですの。」
「構えも、足運びも……。」
「とても奴隷とは思えませんでした。」
支配人は目を丸くした。
それもほんの一瞬だった。
再び穏やかな笑みを浮かべる。
「……よくご覧になっておられましたな。」
「お教えしても構いません。」
そこで一度言葉を切る。
「ですが……。」
少し考えるように顎へ手を当てる。
「いえ。」
「まずは、お引き合わせした方がよろしいでしょう。」
意味深長な言葉だった。
◇
主人公たちは支配人の後について歩き出す。
階段を下りる。
さらに下りる。
地下闘技場のさらに地下。
空気は少し湿っていた。
ひんやりとしている。
石壁には等間隔で松明が灯り、長い廊下をぼんやりと照らしていた。
湿った石の匂い。
藁の匂い。
汗。
鉄。
そして、乾ききらない血の匂い。
主人公は小さく息を吐く。
(……変わってないな。)
五年間。
ここは自分の世界だった。
廊下の両側には鉄格子付きの個室が並んでいる。
空室もある。
だが、その多くには奴隷たちが暮らしていた。
今回の地下格闘技大会へ出場した者たちの姿もある。
一室では、ヴァルドが寝転んで壁にもたれ、静かに休んでいた。
シフォンは少し気まずそうに頭を下げる。
ヴァルドも寝転んだまま、小さく頷いた。
言葉は交わさない。
それで十分だった。
支配人が振り返る。
「ここが彼らの住まいです。」
「この闘技場が所有する奴隷もおりますし、興行のため一時的に借り受けている者もおります。」
さらに奥へ。
最奥の一室。
壮年の男が静かに腰を下ろしていた。
ロザリアが、はっと息を呑む。
男はゆっくりと目を伏せ、視線を逸らした。
支配人は穏やかな口調のまま告げる。
「彼が鉄仮面の戦士。」
「顔無しの騎士と呼ばれる男。名はガレオス。」
一拍置いて、静かに続けた。
「かつて地上では、ガレオス・ハリントンと呼ばれていた者です。」




