第6章「勇者の主訴」
王宮へ戻ると宰相府からの伝言が千鶴を待っていた。
〈勇者ライナス殿の所在判明。辺境の村にて滞在中〉
ヴェルナーの直筆の短い文だった。
その下にもう一行付け加えられていた。
〈出立は明朝。同行をお勧めする〉
失踪したと噂されていた勇者のライナスが見つかった。それも王宮への報告も連絡もなしに辺境の村に滞在していた。逃げ出したのか怠けているのか別の事情があるのか――どれであっても王国にとっては重大な案件だった。
ヴェルナーは千鶴の同行を勧めていた。同行を「命じる」のではなく「勧める」と書いた。これも契約関係を尊重する宰相らしい言葉遣いだった。千鶴はその気遣いを内心でありがたく思った。
翌朝千鶴は将軍ロランドの差配で派遣される護衛隊と共に王都を出発した。馬車は古いが頑丈だった。御者は寡黙な中年の男で千鶴に対しても口数が少なかった。それでよかった。千鶴は道中ずっと膝の上のバインダーを開いて作業をした。
旅程は二日。
目的地は王都から東に三日の距離にある〈緑風の村〉という小さな農村だった。ライナスはそこの宿屋で酒に溺れているという報告だった。
ライナスの基礎情報は宰相府で渡された資料に詳しく記載されていた。
・本名:ライナス・コラルド
・年齢:十六歳
・出身:北方辺境の農村〈シェロ村〉
・家族構成:父・母・弟二人・妹一人
・身分:本来は農民
・選定経緯:祝祭月の聖光検査により〈勇者〉と認定されたのが半年前
・選定主体:光輪教会
・教会との関係:認定後王都の教会本部に保護され戦闘訓練と魔法訓練を受けていた
・失踪:三十日前
千鶴はその全てを別紙にまとめ直した。
彼女の頭の中ではすでに勇者は「利用者」だった。十六歳の農民の少年が突然〈勇者〉という社会的役割を背負わされ家族から引き離され訓練を強要され――そして耐えきれずに逃げ出した。
典型的な過剰負荷症例だった。
元の世界でも近い構図を見たことがあった。突然認知症の母親の介護を一手に押し付けられた中年女性が壊れていく事例。突然事故で寝たきりになった配偶者を抱えて働きながら看病する若い夫の事例。本人の同意なく社会的役割が押し付けられた人々は壊れる。壊れる前に介入するのがケアマネジャーの仕事だった。
二日目の夕刻〈緑風の村〉に到着した。
村は名前の通り風が強く家々は低く建てられていた。藁葺きの屋根が多かった。中央広場には古い井戸があり傍らに大樹がそびえていた。村人は外から来た馬車を遠巻きに見ていた。子供たちが千鶴を指差して何か囁き合っていた。
護衛隊長が御者から場所を聞いた。
「勇者殿は〈三本葦の宿〉におられるとのこと」
「失礼ですが」と千鶴は隊長に言った。「私一人で行かせていただけますか。隊が押しかけると勇者様が逃げる可能性があります」
隊長は眉をひそめた。
「ご一人では危のうございます」
「私が会いに行くのは戦士ではなく十六歳の少年です。武装した護衛が背後にいると話が始まりません」
隊長は数秒考えた。それから頷いた。
「了解いたしました。広場に隊を待機させます。何かあればすぐに笛をお吹きください」
千鶴は短い笛を一本受け取って胸ポケットに入れた。
彼女は外套を直しバインダーを脇に抱えて宿へ向かった。
〈三本葦の宿〉は二階建ての小さな宿屋だった。
扉を押すと中は薄暗くて煙草のような薬草の匂いが立ち込めていた。一階は食堂兼酒場になっていた。客は数人しかいない。窓際の隅の席に少年が一人座っていた。
千鶴は一目で彼だと確信した。
肩までの茶色の髪。土埃で薄汚れている。痩せ気味の体格。テーブルの上に空の杯が三つ並んでいる。手元には四つ目の杯。視線は虚ろで誰もいない壁の方角を向いている。
千鶴は宿の主人に銅貨を渡し麦茶を一杯頼んだ。
杯を受け取って少年のテーブルへ歩み寄った。
少年は近づく足音に気づかなかった。
「失礼します。お隣よろしいですか」
少年がぎくりと顔を上げた。
黒に近い深い茶色の瞳が千鶴を捉えた。
彼の目は十六歳のものではなかった。三十年の苦労を背負った中年労働者の目に近かった。
「あんた誰だよ」
少年は短く尖った声で言った。
「篠原と申します。冒険者ギルドに登録しております。Fランクの新人です」
少年の警戒がわずかに緩んだ。冒険者という言葉に反応したらしい。
「Fランク? あんた戦えんの」
「戦えません。私の専門は相談援助業です」
「相談……何だって」
「お話を伺う仕事です。失礼ですが――今日のあなたの主訴を伺ってもよろしいですか」
少年は瞬きをした。
眉間に皺を寄せた。
「しゅ……何」
「主訴です。今あなたが一番困っていること。一番嫌だなと思っていること。それを聞きたいんです」
少年は数秒沈黙した。
それから杯の麦酒を一口飲んだ。
もう一口飲んだ。
千鶴は急かさなかった。
少年が三口目を飲んだあとぽつりと言った。
「眠りてえ」
「眠りたい」
千鶴は復唱した。
復唱しながらバインダーを開きペンを取った。
〈ライナス・コラルド/主訴①「眠りたい」〉
「他には」
「家に帰りてえ」
「家に帰りたい」
「誰にも期待されたくねえ」
「誰にも期待されたくない」
少年は三つ口にした。
言ってからしばらく虚ろな目で天井を見た。それから視線を千鶴に戻した。
「あんた何書いてんだ」
「あなたの今日の主訴を記録しています」
「何のために」
「整理するためです。あなたの困りごとを誰かに伝える必要が出た時にこの記録があれば伝えやすいんです」
少年は数秒黙った。
「俺は逃げてんだ」
「存じ上げております」
「教会から逃げてんだよ」
「ええ」
「あんた俺を捕まえに来たのか」
千鶴は首を横に振った。
「私は王国の助言官という肩書きで動いています。あなたを捕まえる権限も意思もありません。私の仕事はあなたの主訴を伺いそれが叶う方法があるかどうかを一緒に考えることです」
「叶う方法……?」
少年の声が初めて微かに揺れた。
「眠りたいというお気持ちと家に帰りたいというお気持ちと誰にも期待されたくないというお気持ち。これらをどう叶えていくかをあなたと一緒に考えます。それが私の仕事です」
少年はテーブルの木目を見つめた。
長い沈黙があった。
千鶴は一切口を挟まなかった。
彼の中で何かが組み変わっているのが千鶴にはわかった。八年間で何百回も見てきた瞬間だった。
しばらくして少年が顔を上げた。
目が赤かった。
「俺は……勇者なんかじゃねえ」
「ええ」
「ただの百姓のガキだよ」
「ええ」
「親父に会いてえ。お袋に会いてえ。弟と妹に会いてえ。畑仕事がしてえ。星空の下で寝てえ。それだけだ」
少年は両手で顔を覆った。
肩が震えていた。
千鶴は彼の手元の麦酒を脇に寄せた。
「ライナスさん。お話を伺います。今日はあなたの困りごとをすべて私に話してください。整理は私がします」
少年は手の隙間から千鶴を見た。
「あんた……何者なんだ」
「私の仕事はケアマネジャーと申します。あなたの世界には存在しない職業ですが――話を聞き計画を書く仕事です」
「ケア……マネ……」
「覚えなくて結構です。とにかく今日はお話を聞かせてください」
少年は手を顔から離した。
涙が乾いた跡が頬に残っていた。
彼は深い息を吐いた。
そして語り始めた。
半年前にシェロ村の収穫祭の朝に教会の聖光検査を受けたところから。
突然〈勇者〉と認定されその場で家族から引き離されたところから。
王都の教会本部に連れて行かれ訓練を受け始めたところから。
訓練が苦しかったこと。眠れなかったこと。家族に手紙を書いても返事が来なかったこと。教会の神官が「お前は神に選ばれた」と毎日繰り返したこと。逃げ出した夜のこと。緑風の村に流れ着いたこと。麦酒の味を初めて知ったこと。三十日間ずっと酒を飲み続けていること。
千鶴は黙って聞いた。
ペンを動かし続けた。
羊皮紙の上にライナスの言葉が一字一字積み重なっていった。
二時間半後彼の話が終わった。
千鶴は最後の文字を書き終えてペンを置いた。
ライナスは千鶴の方を見ていた。
その目はもう中年労働者の目ではなかった。
十六歳の少年の目に戻っていた。
「ありがとうございます」
千鶴は静かに言った。
「お話を聞かせていただきました。今日はここまでで結構です。明日また伺います。明日はあなたの今後の選択肢について一緒に考えましょう」
「選択肢……」
「いくつかあります。教会に戻る道。家に帰る道。中間の道。どれを選ぶかはあなた次第です。私はそれぞれの道の利点と欠点を整理してお見せします」
ライナスはぽかんとしていた。
ぽかんとしたままぽつりと言った。
「俺の話聞いてくれた人初めてだ」
千鶴はそれを書き取らなかった。
書き取らずにバインダーを閉じた。
仕事の終わりの合図だった。
千鶴は宿の主人に頼んでライナスを二階の客室まで運んでもらった。少年は階段を上る途中で半分眠っていた。三十日ぶりに人と長く話したのだろう。話すことは想像以上に体力を使う。
ベッドに寝かせると千鶴は布団をかけた。
少年の寝顔を見下ろした。
頬骨が薄く出ていた。栄養が足りていない。麦酒を主食にしている人間の典型的な顔だ。
千鶴は宿の主人に頼んで翌朝の朝食を用意するよう手配した。麦のお粥と卵を二つ。代金はギルドのカードで立て替える形にした。これは経費で落とせるはずだ。後で宰相府に請求する。
部屋を出る前に千鶴はもう一度ライナスの寝顔を見た。
寝ている彼は完全に十六歳の子供だった。
元の世界の事業所の隣のコンビニで深夜にレジをしていた高校生のアルバイトの少年と顔つきが似ている気がした。気のせいかもしれなかったがその気のせいが千鶴の胸を締めつけた。
外に出ると陽が傾いていた。
広場で待機していた護衛隊長が千鶴を見て駆け寄ってきた。
「賢人殿。勇者殿はご無事でしたか」
「ご無事です。今夜はこの宿に滞在します。明朝改めて面談します」
「捕縛は」
「いたしません」
千鶴の声は静かだった。
隊長が眉を寄せた。
「しかし王都への連行命令が宰相府より――」
「私は宰相閣下から〈同行を勧める〉と言われたのみで連行命令は受けておりません。勇者様は王国の助言対象であって罪人ではないと理解しております」
隊長は数秒沈黙した。
彼は職業軍人らしく命令系統を尊重する人間だった。けれど千鶴の毅然とした態度の前で迷っていた。
「賢人殿。明日の面談の結果次第でということでよろしいか」
「結構です」
「勇者殿は逃亡されないか」
「逃亡されないよう対処いたします。私を信頼していただきたい」
隊長はゆっくり頷いた。
「承知いたしました。隊は村の宿屋に分宿させます。何かあれば笛を」
「ありがとうございます」
千鶴も頭を下げた。
隊長は若い兵を呼んで宿の手配を始めた。
千鶴は広場のベンチに腰を下ろした。
大樹の葉が風に揺れていた。
葉擦れの音は耳に優しかった。
彼女はバインダーから今日のライナスのアセスメントシートを取り出した。
二時間半の聞き取りの内容をもう一度読み返した。
読み返しながら千鶴は色とりどりの紐を頭の中で組み合わせていた。これは元の世界で先輩から教わった発想法だった。利用者の語りには複数の糸が絡まっている。それを丁寧にほぐし色分けして並べ直すと真のニーズが見えてくる。
ライナスの語りには三本の太い糸があった。
一本目――〈逃げたい〉糸。これは表層の主訴。
二本目――〈家族に会いたい〉糸。これは中層の願望。
三本目――〈自分のままでいたい〉糸。これは深層の願い。
深層の願いに最も近い処方は何か。
家に帰すこと。
それが最短最善の解だった。
しかし家に帰すことができるかどうかは教会の判断次第だった。教会は〈勇者〉という社会的役割を彼に与えた組織だ。教会との交渉なしに家に帰すことは政治的に不可能だった。
千鶴は紙の隅に小さく書いた。
〈交渉相手:光輪教会大司教〉
彼女はため息をついた。
神官長セヴェールの名前が頭をよぎった。
元の世界でも介護保険のサービスを動かすにあたって役所や医療機関と交渉することがあった。話の通じない相手もいた。けれども最終的には交渉した。話が通じなかった相手も粘れば動いた。
粘るしかない。
千鶴は紙を畳んでバインダーに戻した。
空には夕方の星が一つ二つと顔を出していた。
明日の朝食はライナスにきちんと食べてもらおうと思った。
そして昼から面談を再開しよう。
今夜のうちに彼の選択肢を三つ整理しておこう。
千鶴は仕事の頭で考え続けた。
考え続けることが彼女を不安から守った。
ベンチの上で少しだけ目を閉じた。
風が頬を撫でた。




