第5章「冒険者ギルド登録」
契約書の正本に署名してから三日後。
千鶴は王宮を出て王都の街へ降りた。
ヴェルナーから許可を得ていた。
「あなたは王国の現場を見るべきだ」と彼は言った。
千鶴も同意した。
王都ヴァルトハイムは想像していたよりもずっと混沌としていた。
石畳の通りに荷馬車が行き交い物売りが声を張り上げ犬が吠え子供が走り回っていた。空気には汗と動物の糞と料理の煙と古い革と何種類かの香辛料の匂いが入り混じっていた。
千鶴は王宮から借り受けた地味な茶色の外套に身を包んでいた。バインダーを脇に抱えていた。羽ペンと予備のインク壺を腰のポーチに入れていた。装備としてはそれだけだった。
目的は冒険者ギルドの登録だった。
ヴェルナーが直々に勧めた。
「賢人殿。あなたは王国の助言官という肩書きで動くが王宮の外ではその肩書きはむしろ邪魔になる。市井に降りる際は冒険者ギルドの身分証を持つほうがよい。彼らは身分を問わず登録を受け付ける。あなたの存在が貴族たちに察知される前に下層の足場を作っておくのが賢明だ」
千鶴はその助言の意味をよく理解した。
元の世界の介護業界でも同じだった。役所と医療機関と地域住民。それぞれに対して使う名刺は違う。事業所のマネジャーとしての名刺と地域包括ケア会議の委員としての名刺と一介の介護支援専門員としての名刺。場面によって使い分ける。複数の身分を持つことは社会的な装備だった。
冒険者ギルドの建物は王都の中央広場から少し外れた場所にあった。古い石造りの三階建てで看板は剣と盾と巻物の意匠だった。木の扉を押すと中はすでに人で混雑していた。
千鶴は入口でしばらく立ち止まった。
観察した。
冒険者ギルドというのは要するに労働者の派遣会社と職業安定所と銀行と相談所が混ざったような場所だった。壁には依頼の張り紙がびっしりと貼られている。「魔物討伐」「護衛」「素材採取」「迷子の犬の捜索」「老人の薬の調達」――内容は多岐にわたる。
受付窓口は三つあった。一番空いている窓口に並んだ。
順番が来た。
窓口の向こうに座っていたのは三十代と思しき女性だった。栗色の髪を後ろで一つに結い上げて青いベストを着ていた。彼女は千鶴を見て少し驚いた顔をした。
「いらっしゃい。ご用件を」
「冒険者の登録をしたく参りました」
女性は瞬きをした。
「失礼ですが――どのくらいの戦闘経験がおありですか」
「ありません」
「魔法は」
「使えません」
「では何を専門に」
「相談援助業です」
女性はもう一度瞬きをした。
「ええと。すみません。今のお言葉は」
「相談援助業です。利用者様のお話を伺い課題を整理し計画を立てる仕事です。私の世界では介護支援専門員と呼ばれていました。こちらでは何と呼ぶのが適切かわかりませんが――そういう仕事ができます」
女性は数秒沈黙した。
彼女は背後に控えていた年配の男性に視線を送った。男性は受付の主任らしかった。男性が女性のところへ歩み寄ってきた。
「どうした」
「主任。新規登録の方なんですけど職種が……」
女性は紙の上に千鶴の言ったことをそのまま書き取って主任に見せた。主任は紙を読み視線を上げ千鶴を見た。
千鶴は彼に向けて軽く一礼した。
「お忙しいところ申し訳ございません」
「お話をお伺いしてよろしいですか。奥の小部屋で」
「もちろんです」
主任は千鶴を奥の小部屋へ案内した。
小部屋には木の机と椅子が二脚あり壁には地域の地図が貼られていた。彼は千鶴に椅子を勧めた。
「失礼ですが――あなたは異世界より召喚された方ですか」
千鶴は驚かなかった。
ここまで噂が早く広がっているとは思っていなかったが完全に意外でもなかった。
「はい」
「神殿からの公式通達はまだございませんが王宮の事務官の間で噂が広がっております。あなたの肩書きは助言官だと」
「左様でございます。ただ私はギルドにも籍を置きたく考えております」
「理由をお伺いしても」
「市井に降りる際の身分証として必要だと宰相閣下に勧められました。それと――もう一つ申し上げますと私は王宮の業務だけでは王国の実態を把握できないと考えております。冒険者ギルドの依頼を見ると一般民衆の困りごとが見えます。私の仕事には現場の生の声が必要なのです」
主任は深く頷いた。
「了解しました。登録は受け付けます。ですが――あなたの専門が『相談援助業』とのことですとランクは最下位のFからの開始になります。それでもよろしいですか」
「もちろんです」
千鶴は即答した。
元の世界でも新人の頃はそうだった。経験を積み実績を作って初めて担当の数が増えた。最初から上を望むのは間違いだ。
主任は登録用紙を取り出した。
名前。年齢。出身。専門技能。
千鶴は丁寧に書いた。出身の欄には〈異世界・日本〉と書いた。専門技能の欄には〈アセスメント・ケアプラン作成・進捗管理・調整業務〉と書いた。
主任が用紙を覗き込んで眉を寄せた。
「アセスメントとは」
「課題の分析です。お話を伺って真の困りごとを見極める作業です」
「ケアプランとは」
「援助の計画書です。誰がいつ何をするかを文書にしたものです」
「進捗管理とは」
「計画通りに物事が進んでいるかを定期的に確認する仕事です」
「調整業務とは」
「複数の関係者の間で意見を調整し合意を作る仕事です」
主任は紙の上から目を上げて千鶴をしばらく見つめた。
それから低い声で言った。
「賢人殿。これは戦闘職ではない。けれども冒険者ギルドの中では極めて稀有な技能だ。あなたのような職種で登録された冒険者は私が知る限りいない」
「先例がないのですね」
「ない。だが断る理由もない」
主任は登録用紙に印を押した。木製のスタンプだった。〈ギルド登録No.487291〉の番号が捺された。
彼は千鶴に小さな金属の板を差し出した。
「身分証だ。常に携帯するように。Fランクから開始だが依頼を完遂すれば昇格する。ご自分に合った依頼を受けられたい」
「ありがとうございます」
千鶴は身分証を両手で受け取った。
胸ポケットの事業所のIDカードの隣に並べて入れた。
〈居宅介護支援事業所 まどかの郷〉と〈冒険者ギルド登録No.487291〉。
奇妙な並びだった。
奇妙だが千鶴にとっては落ち着く並びだった。
二つの世界の身分が彼女の胸の上に重なっていた。
ギルドを出る前に千鶴は一階の依頼掲示板を改めて眺めた。
多くの依頼は戦闘職向けだった。だが中に混じってこんなものがあった。
〈老母の徘徊あり。日中の見守り依頼。ランク不問〉
〈酒に酔って暴れる夫の説得。ランク不問〉
〈隣人との土地争い。仲裁役募集。ランク不問〉
千鶴は〈老母の徘徊〉の張り紙の前で立ち止まった。
これは私の仕事だ。
反射的にそう思った。
依頼主の名前と住所が書かれていた。報酬は銅貨二枚。安い。だが千鶴にとってそれは問題ではなかった。
彼女は張り紙を取り外して受付に持っていった。
「この依頼を受けます」
受付の女性が驚いた顔をした。
「これ……ここに張られて三週間誰も受けてくれなかった依頼ですよ」
「私が受けます」
千鶴の声は迷いがなかった。
女性は紙に何か書き込みを入れて千鶴に手続きを進めた。
千鶴は依頼の控えを胸ポケットに入れた。
冒険者として最初の仕事だった。
依頼主の家は王都の南区にあった。
石造りの二階建ての一階部分。職人が多く住む地区で軒先に道具類を吊るした店構えが多かった。煤と油と魚の干物の匂いが漂っていた。
千鶴は依頼書に書かれた住所を頼りに辿り着いた。木の扉を叩いた。中から疲れ切った女性の声が応じた。
「どなた」
「冒険者ギルドより参りました。ご依頼の件で」
扉が開いた。
四十代後半に見える女性が顔を出した。彼女は千鶴を上から下まで見て眉を寄せた。
「あなた……戦士じゃないわね」
「戦士ではございません。相談援助業を専門とする冒険者です」
女性は半ばため息をつき半ば呆れた顔で扉を開け放った。
「まあいいわ。三週間誰も来てくれなかったんだから贅沢は言えない。中へ」
千鶴は外套を脱いで入った。
居間は狭かった。木製の食卓と椅子が二脚。竈に小さな鍋が乗っている。隅にベッドが一つ置かれていてその上で痩せた老女が膝を抱えて座っていた。
千鶴は瞬時に観察した。
老女は七十代後半。体格は小柄。痩せ型。視線が定まらない。手の動きが落ち着かず両手で自分の左袖を引っ張り続けている。常同行動。これは認知症の中期によく見られる。
依頼主の女性が千鶴に椅子を勧めた。
「私はマルタ。母のレナと申します。母は半年前から夜に外に出ようとするようになって。私が止めても聞かないんです。前にも一度行方不明になって近所の人に見つけてもらいました。私には旦那と子供たちがいて――昼間は仕事に出なきゃならない。誰かに見ていてほしいんです。けれど夜の徘徊だけ何とかならないかと」
千鶴はメモを取り始めた。
「マルタ様。順を追ってお伺いしますね。お母様のお名前は」
「レナ・ハダリです」
「ご年齢は」
「七十六」
「お一人暮らしではなく一緒にお住まいですね」
「ええ」
「お母様の症状はいつ頃から」
「二年ほど前から物忘れが始まって……一年前にひどくなって。半年前から夜の徘徊が」
「服薬されているお薬はありますか」
「薬……? 何のですか」
「心臓やお血圧などのお薬です」
「いえ。何も。医者にもかかっていません」
「ご家族はマルタ様とご主人様とお子様何人ですか」
「子供は二人。十二歳と九歳」
「お父様はもう」
「十年前に」
千鶴は紙の上にジェノグラムを描いた。レナを中心に配偶者を線で消し下にマルタとその夫と二人の子。
「マルタ様。お母様の主訴を伺いたいのです。お母様ご本人にお話を聞いてもよろしいですか」
マルタは少しためらった。
「母は……話が通じないことが多くて」
「それでも構いません」
千鶴はベッドのレナの傍らに椅子を寄せた。
目線を合わせて低い声で話しかけた。
「レナさん。はじめまして。篠原と申します」
レナは千鶴を見た。視線が一瞬合った。
「あんた。誰の家の子ね」
「篠原と申します。今日はレナさんのお話を伺いに来ました」
「お話」
レナの両手の動きが少し止まった。
「お話なら……うちの人に聞いてくれたらいいのに」
「ご主人様ですね」
「うん。あの人がいないと何もできんのよ私は」
千鶴はメモを取った。
〈レナさんの認識:夫がまだ生きていると思っている/自分が無力だと感じている〉
「レナさん。夜にお出かけになることがあるとお聞きしました。どこへ行きたいんですか」
レナは少し戸惑った顔をした。
それから視線を窓のほうへ向けた。
「あの人が……まだ畑から戻ってこんから」
千鶴は静かに頷いた。
マルタが背後で息を呑む音がした。
千鶴はマルタを振り返らずレナの言葉を書き取った。
〈夜の徘徊の動機:亡き夫を畑へ迎えに行こうとしている〉
千鶴はレナの手を取った。骨ばった冷たい手だった。
「レナさん。ご主人様は今夜は遅くなるそうですよ。あなたは家で待っていてあげてください。それが一番喜ばれます」
レナはぼんやりと千鶴を見た。
「そうかね」
「はい」
「そうね」
レナは納得したように頷いた。
千鶴はそっと立ち上がった。マルタの方へ歩み寄り低い声で告げた。
「マルタ様。お母様の徘徊は迷子の徘徊ではありません。亡くなったお父様を迎えに行こうとしておられる行動です。これを止めるには『お父様は今夜は遅くなる』と伝えるのが効果的です。否定するとかえって混乱されます」
マルタの目に涙が滲んだ。
「私……ずっと『お父さんはもう死んだのよ』って言ってきました」
「お母様にとってはお父様はまだ生きていらっしゃいます。今のお母様の世界では十年前は今と地続きです。それを否定すると混乱と悲しみが繰り返されます」
「そんな……」
「次に夜出かけようとされたら『お父様は今夜は街で泊まりだそうです』とお伝えください。落ち着かれる確率が高いです。あと――」
千鶴はもう一枚の紙を取り出した。
「ご紹介できる仕組みがあるか王宮で調べます。お母様のような状態の方を昼間お預かりして話相手をする場所です。私の世界ではデイサービスと呼ばれていました。こちらに同様の仕組みがあるか確認してご連絡します」
「あの……今日の見守りは」
「お話を伺うだけで一日目は十分です。状況を把握するのが最初の仕事です。これでギルドへの報告書を書きます。報酬は次回からで結構です」
マルタが両手で口を覆った。
彼女は声を殺して泣いた。
千鶴はそれを邪魔せず黙って待った。
元の世界でも家族介護者は最初の面接でよく泣いた。誰にも話せなかった困りごとを初めて言葉にしたとき人は泣く。それは制度がきちんと機能している証拠だった。
マルタが落ち着くまで千鶴は静かに待った。
待つことも仕事のうちだった。
マルタの家を出て外に立ったとき千鶴は深く息を吐いた。
冷たい風が頬を打った。
彼女は依頼書の控えを取り出して〈完了〉と書き込もうとして手を止めた。
完了ではなかった。
始まったばかりだった。
〈継続〉と書いた。
次に来る日付の欄に三日後を記した。
次回は王宮にデイサービスに相当する仕組みがあるか調べてから来る。
ギルドへ戻る道すがら千鶴は新しい計画を頭の中で組み立て始めていた。
王国規模のケアプランと並行して個別の利用者のケアプランも始まったのだ。
仕事は二倍に増えた。
二倍に増えたが彼女の足取りは軽かった。




