第4章「最初のケアプラン」
翌朝の宰相府の部屋には書類の匂いが満ちていた。
羊皮紙と乾いたインクと蝋燭の煤と少しの埃。
千鶴にとって最も馴染みのある匂いだった。
自分の事業所のデスクとほとんど同じ匂いだった。
ヴェルナーは前夜のローブを取り替えていた。今朝のローブは深い藍色で胸元の銀の星が朝の光を弾いていた。彼の隣には昨夜にはいなかった若い文官が控えていた。三十代前半の細身の男で書記係のようだった。机の上には早朝に作られたばかりらしい契約書の文面が置かれていた。
「賢人殿。あなたの希望条件をすべて反映させた」
ヴェルナーが書類を千鶴の前に滑らせた。
千鶴は一礼して受け取った。
彼女はその場で全条文を読んだ。読み終わるのに二十分かかった。何度か文官に質問を投げた。「この『相応の』の解釈は」「この期間の起算日は」「報酬以外の費用については」。文官は丁寧に答えた。ヴェルナーは黙って待った。
千鶴は最後にペンを取った。
契約者欄に〈篠原千鶴〉と書いた。
元の世界の漢字を当てた。誰も読めなくても自分が読める文字で残しておきたかった。
ヴェルナーが横で頷いた。
「これでよろしいか」
「結構でございます。ありがとうございます」
ヴェルナーが小さく息を吐いた。
「賢人殿。あなたほど契約書を熱心に読む者を私は見たことがない」
「私の世界では契約書を読まない人は搾取されます」
「ここでも変わらぬ」
ヴェルナーは苦笑した。
千鶴も少しだけ笑った。
契約という形式が二人の間に小さな共通言語を生んだ。
契約締結の儀式が終わると千鶴は早速本題に入った。
「閣下。昨夜のヒアリングを踏まえて暫定第一表を作成しました。お目通しいただけますか」
彼女はバインダーから書類を取り出した。
ヴェルナーは丁寧に受け取りそれを机に広げた。
書類は三枚あった。
一枚目――〈アルディラ王国サービス計画書(暫定第一表)〉。総合的な援助の方針と長期目標と短期目標が箇条書きで並んでいる。
二枚目――〈優先順位案〉。財政・軍事・民生・統治の四つの軸で短期と長期の課題が整理されている。
三枚目――〈第一段階の具体的提案〉。「辺境村への巡回騎士団派遣」という単一の施策案がより詳細に記述されている。
ヴェルナーは眼鏡をかけた。元の世界のフレーム付きの眼鏡とは少し違うが似たような道具だった。彼は一枚目をじっくり読みそれから二枚目に移り三枚目を読み終えてからもう一度一枚目に戻った。
部屋に十数分の沈黙が降りた。
千鶴は待った。
ヴェルナーが眼鏡を外した。
「賢人殿」
「はい」
「私はこの王国の宰相職を六年勤めている。その前は財務省の長官を九年勤めた。それ以前から数えれば文官として三十年だ」
「はい」
「三十年の中で私はこのような書類を一度も見たことがない」
千鶴は身構えた。
怒鳴られるのか皮肉を言われるのか身構えた。
ヴェルナーは続けた。
「ここには――王国が抱えるすべての課題が一枚の紙に並んでいる。私が頭の中で何年も整理しようと試みて諦めていた絵がここにある。しかも具体的な施策まで添えてある。財政を最優先にせず辺境村への巡回騎士団派遣を最優先にしている理由まで書いてある」
「理由は短期で目に見える成果が出やすいからです」
千鶴は静かに付け加えた。
「財政の建て直しは三年から五年かかります。軍の再編成も二年は必要です。民の支持を取り戻すには時間がかかります。けれども辺境村への巡回派遣は明日にでも始められます。早く動き始めることで王国は『動いている』というメッセージを民に発することができます。これは政治的効果が大きいと判断しました」
ヴェルナーは深く頷いた。
「あなたは政治を理解しておられるな」
「政治というより家族支援の延長です。介護の世界では認知症の進行を止めることはできません。けれども家族が『何か手を打っている』という実感を得ることで家族関係が崩壊するのを防ぐことができます。早期の小さな施策がたとえ根本治療にならなくても感情面での効果は大きいのです」
ヴェルナーはしばらく天井を見上げた。
それから笑った。
今度は苦笑ではなく心からの笑いだった。
「なるほど。王国は認知症の患者か」
「失礼な物言いをいたしました」
「いや。言い得て妙だ」
ヴェルナーは机に肘をついた。
「賢人殿。この第一段階の施策を私の名で発令することを許してくださるか」
「許すも何も。私はそのために書きました。閣下の権限で動かしてください。ただし条件があります」
「申されよ」
「実施後に私がモニタリングを行います。モニタリングとは効果測定のことです。月に一度施策の進捗と問題点を確認し必要であれば軌道修正を行います。これがケアマネジャーの仕事の半分です。書いて終わりではありません」
「承知した」
ヴェルナーは即答した。
千鶴は深く頭を下げた。
書類が一枚動き始めた瞬間だった。
元の世界の介護保険制度ではケアプランが第一表から第三表まで揃って初めて報酬が発生する。書類が動かなければ何も動かない。書類が動いた時に初めて利用者の生活が変わる。
ここでも同じだった。
書類は呪文だった。
書類は人を動かした。
その日の午後千鶴は将軍ロランドにも同じ書類を見せた。
ロランドは武人らしく書類が苦手だったが千鶴の説明を黙って聞いた。聞き終わってから彼は太い手で千鶴の書類を抑えた。
「賢人殿。この巡回派遣は誰が指揮を執る」
「現場の判断は将軍卿に委ねます。私は計画を書くだけで戦の現場は素人です。誰を指揮官に任じるか何人を派遣するか巡回経路をどう設計するかはすべて卿の判断です」
「俺の判断でよいのか」
「卿の専門領域です」
ロランドは少し驚いた顔をした。
「賢人殿はすべてを仕切ろうとはせんのだな」
「私の専門は計画書の作成と進捗管理です。実行は実行できる方々の役目です。役割分担は契約の基本です」
ロランドは荒い声で笑った。
「気に入った。お前は事務官だが事務官の中では一番気が合いそうだ」
「光栄でございます」
千鶴も少しだけ笑った。
ロランドはその場で副将を呼びつけ巡回騎士団の編成を始めた。
千鶴はその場を辞した。
ロランドの執務室の外に出るとき彼女は深く息を吐いた。
肩に重い空気が乗っていた。
元の世界で月初の十日を乗り切った時の重さに似ていた。
でも違った。
あの時の重さには絶望があった。
今の重さには――手応えがあった。
千鶴は廊下の窓から差し込む昼の光に手をかざしてみた。
日本の冬の光に似ていた。乾いて澄んだ光だった。
光に翳した自分の指が震えていることに彼女は気づいた。
疲労ではなかった。
久しぶりに何かが「動いた」という感触に体が反応していた。
千鶴は指を握った。
握った拳の中にペンを思い浮かべた。
ペンしか持っていない自分にもこの世界で何かができるかもしれないと初めて思った瞬間だった。
夕刻になって千鶴は宰相府に戻った。ヴェルナーが午後の執務を終える頃合いを見計らった。
部屋には書記の若い文官が一人だけ残っていた。彼は千鶴を見て立ち上がり一礼した。
「賢人様」
「どうぞ。お仕事を続けてください」
千鶴は彼の机の上に積まれた羊皮紙を見た。膨大な量だった。一日では片付かない量に見えた。
「あの。差し支えなければお伺いしてよろしいですか。あれは何の書類ですか」
文官は少し戸惑った顔をした。
「徴税報告書でございます。各地方領主からの月次報告がここに集まります。本来は宰相閣下が一通ずつ確認されるはずですが閣下のご多忙により私が要約を作成しております」
「失礼ですがお名前を」
「カリス・ヴェレと申します」
「カリス様。要約の様式はご自分で考案されたのですか」
「は……はい。閣下が読みやすい形をと思いまして」
「素晴らしいですね」
千鶴は本心から言った。
「現場の事務官が様式を整えるのはとても重要です。私の世界でも書式を工夫した職員が組織全体の効率を上げる例をいくつも見ました」
カリスは耳まで赤くなった。
「光栄でございます」
「お時間があれば後で要約様式を見せていただけますか。私の計画書にも応用できそうですので」
「もちろんでございます」
千鶴は心の中で小さく頷いた。
カリスのような若手の事務官は組織の中で見落とされがちな存在だ。けれど計画書を実行に移す現場の最前線は彼らだ。彼らを味方につけられるかどうかでケアプランの成否は決まる。
元の世界では訪問介護のサービス提供責任者やデイサービスの相談員にあたる役割だった。彼らに敬意を払うことを千鶴は新人時代に先輩から徹底的に叩き込まれた。
「カリス様。一つお願いしてもよろしいですか」
「はい」
「私の身分が暫定で『助言官』となりましたが私は王国の制度に疎いです。今後私が動く際に手続き上で困らないよう色々と教えていただきたいのです。事務官同士のお付き合いとして」
カリスは目を瞬かせた。
「事務官同士……でございますか」
「私はそういう立場です。閣下の隣に座るような存在ではございません」
カリスは深く頭を下げた。
「お引き受けいたします」
千鶴も頭を下げた。
味方が一人増えた。
味方を作ることは計画書を書くこととほぼ同じくらい重要な仕事だった。
その夜千鶴は再び自室に戻り机に向かった。
今夜は契約書の正本が手元にあった。
暫定第一表が宰相と将軍に渡った。
明日からは具体的な進捗管理と並行して国王本人との面接の調整を進める必要があった。
彼女は新しい羊皮紙を広げた。
〈王国アセスメントシート〉と書いた。
その下に項目を作った。
・基本情報
・主訴
・既往歴
・現病歴
・家族構成(組織図)
・経済状況
・社会的役割
・生活歴
・本人の意向
元の世界の介護のアセスメントシートを王国規模に置き換えた。書きながら千鶴は半分笑い出しそうになった。馬鹿げているかもしれなかった。けれどもこれ以外に何の方法も知らなかった。馬鹿げている方法でも何もしないよりはましだ。
窓の外で梟がまた鳴いた。
千鶴は手を止めて窓辺に近づいた。
夜の冷気がガラスを伝って肌に届いた。
彼女は呟いた。
「お母さん」
返事はなかった。
返事はないと知っていた。
それでも声に出さずにはいられなかった。
千鶴は窓に映る自分の顔を見た。
目の下の隈は元の世界からそのまま持ち越されていた。
でも目つきは少し違って見えた。
何かに集中している人間の目つきだった。
千鶴は窓を背にして机に戻った。
書きかけのアセスメントシートに向かい合った。
〈本人の意向:未確認〉と書いた。
明日にはこの空欄を埋めなければならなかった。
翌朝早く宰相府の使いが千鶴の部屋を訪ねてきた。
昨日の夕刻に提出した第一段階の施策がもう動き始めているという報告だった。将軍ロランドの差配で副将率いる三十騎の小隊が辺境の三村への巡回派遣に向けて編成中だという。出発は三日後を予定。千鶴の書類は将軍府の壁に貼り出されているという。
千鶴は使いに礼を言って戸を閉めた。
書類が貼り出されている。
その光景を頭の中で思い浮かべた。
元の世界では事業所の壁に運営方針や年間研修計画が貼り出されている。誰も毎日読まないが何かあった時に皆が見上げる。あれと同じ役割を担う書類がここでも生まれた。
千鶴は深く息を吐いた。
最初のケアプランが動き始めた朝だった。
窓の外で太陽が昇り始めていた。
千鶴は外套を羽織り王宮の中庭に出た。冷気が頬を刺した。中庭の石畳は霜で薄く白く覆われていた。誰もいない朝の中庭で千鶴はバインダーを胸に抱きしめて一人でしばらく空を見上げた。
星は消えかけていた。
代わりに東の空が橙に染まっていた。
仕事は始まっている。
仕事が始まっている限り自分は自分でいられる。
千鶴はそう信じることにした。
信じることにしてから彼女は一度大きく深呼吸をした。冷たい朝の空気が肺の奥まで届いた。元の世界の事業所の階段で吸う朝の空気と同じ感触だった。場所が違っても朝は朝だった。仕事は仕事だった。
彼女は中庭から戻り廊下を歩き始めた。次の打ち合わせが彼女を待っていた。




