第3章「初回相談、王国編」
千鶴は深夜まで宰相ヴェルナーと将軍ロランドの聞き取りを続けた。
ペンを動かす手が止まらない。
羊皮紙の束は六枚に膨れ上がっていた。
燭台の蝋燭が二度替えられた。
二人の男は最初こそ警戒していたが千鶴の質問が深まるにつれて口数が増えた。これも職業病的な発見だが当事者たちは語る場を求めていた。語る場が与えられないからこそ拗れていた。
千鶴は途中で何度か紙の上に図を描いた。組織図。財政の流れ図。脱走兵が発生する箇所の地図。彼女が描く図は素人の落書きのようなものだったがそれでも口頭の説明よりは情報が整理された。
ヴェルナーがある瞬間に呟いた。
「これだけのことを我ら自身で並べて見たことが一度もなかった」
「閣下方は実務の渦中におられます」
千鶴はペンを止めずに答えた。
「渦中の人が渦の形を描けないのは当然です。私は外から来ました。図を描くだけが仕事です」
ロランドが鼻を鳴らした。が嫌悪ではなかった。むしろ敬意に近い音だった。
「賢人とは聞こえがいいが体は事務官だな」
「事務官という言葉は実は誇り高いものでございます」
千鶴はそう答えた。本心だった。
四時間が過ぎた頃ヴェルナーが手を挙げた。
「賢人殿。本日はここまでといたしましょう。お疲れではないか」
「私は大丈夫ですが閣下方がお疲れでしょう」
「いや」
ヴェルナーは奇妙な顔をした。
「奇妙なことに……疲れていない。むしろ頭が冴えている」
ロランドも頷いた。
千鶴はその反応にも見覚えがあった。長年溜めていた愚痴を吐き出した家族介護者と同じ顔だ。彼らはケアマネジャーの初回訪問が終わった後で「久しぶりにこれだけ話した」と言って肩の力を抜く。場合によっては涙を流す。話を聞かれるという体験そのものが彼らの神経を緩める。
千鶴はバインダーを閉じた。
「では本日のヒアリング内容を整理し明日までに第一案をお持ちいたします。明日は何時に伺えばよろしいでしょうか」
ヴェルナーが目を瞬かせた。
「明日……でございますか」
「明日です」
「閣下お一人で何かを書き上げてくださると」
「全部は無理です。骨子だけです。それでも明日中にはお見せできるようにします。優先順位の高い課題から手をつけましょう。財政は時間がかかります。軍の脱走は急ぎます。農村の魔物被害は最優先と考えます」
ヴェルナーは長く沈黙した。
彼の青白い顔の下に小さく笑みが浮かんだのを千鶴は見逃さなかった。希望ではなく職業的な共感に近い笑みだった。
「賢人殿」
「はい」
「あなたは我らの王国に対する最初のケアマネジャーになる」
「最後にもなれるよう努めます」
千鶴の口が反射的に答えた。冗談のつもりではなかった。利用者との契約は最後の担当になることが目標だ。途中で他のケアマネに引き継がれる場合もあるがそれは結果論だ。最初に契約を交わした時にはみな最後まで担当するつもりで臨む。
ヴェルナーは小さく頷いた。
彼は紙の隅に何かを書いた。それを部屋の隅に控えていた若い文官に渡した。文官は深く礼をして部屋を出ていった。
「賢人殿に滞在の間を用意させた。明日の朝食までゆっくりお休みください」
「ありがとうございます。一つよろしいですか」
「何なりと」
「私の身分について明確にしておきたいのです。私はアルディラ王国に雇われたのですか。それとも神殿の召喚に応じたのですか。誰の指揮下で動くのか書面にしていただきたいのです」
「契約書を……」
「はい。私の世界ではこれを契約締結と呼びます。重要事項説明と同意取得の儀式のようなものです。これがなければ後でトラブルが起きます」
ヴェルナーは数秒考えてから頷いた。
「明日朝までに案を作らせる。あなたの希望条件があれば書き出して提出しなさい」
「承知しました」
千鶴は深く一礼した。
与えられた部屋は王宮の三階にあった。
窓の外には王都の夜景が広がっていた。
灯りはまばらで街路灯と呼べるものは存在しない。家々の窓から漏れる蝋燭の橙色の光が点々と見えるだけだ。元の世界の都心の夜景とは比較にならない暗さだった。
部屋には木製のベッドと小さなテーブルと椅子があった。テーブルの上に水差しと木のカップが置かれていた。壁には簡素な織物が掛かっていた。質素だが清潔だった。
千鶴はバインダーをテーブルに置いた。
羊皮紙の束を取り出して並べた。
夜更けだったが頭は冴えていた。元の世界の事業所で月初の徹夜をしていた時と似た冴え方だった。締切のある仕事に没頭している間は疲労を感じないのだ。疲労が来るのは仕事が終わった瞬間だ。
彼女はテーブルに向かいまず一枚目の白紙を取り出した。
見出しを書いた。
〈アルディラ王国サービス計画書(暫定第一表)〉
その下に「総合的な援助の方針」の項目を作った。
ペン先を止めた。
元の世界では何百枚と書いてきた書式だ。利用者と家族の意向を踏まえて援助の方針を文章化する。短く簡潔に。誰が読んでも内容が伝わるように。
ところがこの場合の利用者は王国そのものだった。利用者の意向を直接聞いていない。まだ国王本人と会っていない。家族介護者にあたる宰相と将軍にしか会っていない。
ケアマネジャーが本人に会わずにプランを書くことはない。あってはならない。それは運営基準違反になる。
千鶴は手を止めた。
ペンのキャップを開けて閉めた。
書けない部分は書けないと記録すべきだ。空欄にして「本人面接後に確定」と注記する。これも基本だった。
彼女は紙の右上に〈作成日:祝祭月三日〉と書いた。〈作成者:篠原千鶴(介護支援専門員)〉。
元の世界の資格名をそのまま書いた。
ここでは介護保険制度などないし国保連も存在しない。どこに提出するわけでもない。けれど形式を守ることは自分の手と頭の動きを保つために重要だった。
書式は職業人を支える骨組みだ。
骨組みがなければ千鶴の頭は崩れていただろう。
千鶴は深呼吸をした。
〈総合的な援助の方針〉の欄に書き始めた。
現時点では暫定とする。
国王本人と直接面接の機会を得た後に確定する。
現状の主な課題は以下のとおりである。
・財政:歳入の急減と教会への上納の維持
・軍事:辺境駐屯地の人員不足と脱走兵の増加
・民生:辺境の魔物被害と農村の崩壊
・統治:意思決定機能の不全
以上を踏まえ短期目標と長期目標を別途設定する。
優先順位は本人面接後に決定する。
千鶴はそこまで書いて手を止めた。
外で梟の鳴く声がした。
元の世界では聞いたことのない種類の鳥の声だった。低くて短い。猫の鳴き声に似ていた。
彼女はベッドに腰を下ろした。
外套をかけたままだった。脱がなかった。脱ぐと冷気が体に直に当たりそうで嫌だった。
手元に残った白紙を一枚引き寄せた。
〈契約条件案〉と書いた。
以下を希望する。
・身分:アルディラ王国宰相府所属の助言官(暫定)
・職務範囲:王国の課題に関するアセスメントおよび計画書の作成と提案
・実施しないこと:戦闘・魔法行使・宗教儀式
・期間:六ヶ月(暫定)。期間終了時に再評価
・報酬:宿泊・食事・必要経費の支給
・撤回権:千鶴本人の判断で契約解除可
書きながら千鶴は自分でも奇妙な気分になった。
異世界に飛ばされた人間が真っ先に書くのが契約条件の書類なのか。
しかし千鶴にはこれしかなかった。
剣も魔法も持たない。
持っているのは制度を知る頭と契約を結ぶ意思だけだ。
契約は人を守る。
契約は曖昧さから人を守る。
契約は搾取から人を守る。
元の世界で千鶴が利用者から学んだ最大の教訓のひとつだった。
ベッドの隅に座ったまま千鶴は窓の外の星を見上げた。
日本では見たことのない配置だった。
北極星らしきものが見当たらない。
ここは違う星空の下にある。
違う星空の下で違う人々が違う困りごとを抱えている。
でも仕事は同じだった。
主訴を聞く。
真のニーズを見極める。
計画を書く。
合意を取る。
モニタリングする。
千鶴は静かに目を閉じた。
眠れる気はしなかった。
明日の宰相府で渡す書類のこと――暫定第一表の続き――が頭の中で勝手に組み上がり始めていた。
考えながら指先が動いていた。
羽ペンを握ったまま彼女は浅い眠りに落ちた。
夜が明ける前に千鶴は目を覚ました。
握ったままだった羽ペンが手から滑り落ちて床で小さな音を立てた。彼女は腰を下ろしたまま眠ってしまっていたらしい。首の付け根が痛んだ。掌で揉みほぐしながら自分の格好を見下ろした。スーツのジャケットは皺だらけでブラウスの胸元の汗ジミは乾いて白くなっていた。
窓の外はまだ暗い。
夜明けが近いのか遠いのかわからなかった。
千鶴は水差しから木のカップに水を注いだ。一口飲んだ。
水は冷たかった。元の世界の水道水とは違う味がした。ミネラルが多い気がした。井戸水なのだろう。雑菌が気になったが千鶴はそれ以上考えるのをやめた。気にし始めると食事も摂れなくなる。
彼女はテーブルに戻り昨夜書きかけた書類を改めて並べた。
暫定第一表。
契約条件案。
組織図。
主訴の一覧。
どれも未完成だった。
千鶴は新しい紙を一枚取り出した。これに自分のためのメモを書こうと思った。
〈本日の業務〉
・契約締結(宰相府にて)
・国王陛下との面接アポイントメント
・神官長との情報共有
・暫定第一表の宰相府への提出
・第二表(具体サービスの内容)の作成準備
書きながら千鶴は息を吐いた。
元の世界での月初の業務リストとよく似ていた。
月初の十日。
あれは今思えば日常そのものだった。日常そのものだったから千鶴はそれを地獄だと思っていた。十七件の留守電もエラー表示の赤い光も。
でも今ここではそれらを懐かしく感じる自分がいる。
懐かしいというのは奇妙な感情だ。
千鶴は窓辺に立った。
空がうっすら白み始めていた。
灰色がかった青に染まっていく東の空に星の数がひとつまたひとつと減っていく。
ふと自分の母のことを考えた。
元の世界に残してきた母は介護施設に入っていた。アルツハイマー病の中期。兄夫婦の家からは遠くて千鶴がいちばん近かったのに千鶴の仕事の都合で施設に入れた。兄は「お前の仕事はどうなんだ」と何度も言った。千鶴は答えなかった。仕事だから――その三文字で全部を片付けてきた。
他人の家族の主訴は丁寧に聞く。
自分の母の主訴はずっと聞いていない。
千鶴は窓の冷たいガラスに額を押し当てた。
ガラス越しに王都の屋根が見えた。瓦のような何かが葺かれている。煙突から細い煙が上がり始めている。誰かが竈に火を入れたのだろう。
別の世界の朝が始まろうとしていた。
千鶴も自分の朝を始めるしかなかった。
彼女はテーブルに戻った。
ペンを拾った。
自分のためのメモの末尾にもう一行書き加えた。
〈母に手紙を書く〉
書いてしばらく見つめた。
書いてもどこにも届かない手紙だった。
それでも書こうと思った。
届かない手紙を書くのも仕事のうちだと千鶴は知っていた。家族介護者がいない高齢者の利用者に対しケアマネジャーは時に家族の代わりを引き受ける。千鶴は何度かそういう役割をやってきた。母にもそれをしたかった。仕事として。職業として。それが今の自分にできる唯一の謝罪の形だと思った。
部屋の扉を遠慮がちに叩く音がした。
若い女性の声がした。
「賢人様。朝食のご用意ができましたが」
「すぐ参ります」
千鶴は答えた。
答えてからもう一度ペンを取り暫定第一表の余白に小さく書き足した。
〈追記:本人(国王)面接の最優先化〉
書いて鞄を肩に掛けた。
肩に掛けた瞬間革のバインダーの重みが彼女の腕にずしりと乗った。重みは半年前の事業所の机の上の書類と同じ重みだった。場所は変わっても重さは同じだった。仕事の重さは同じだった。
千鶴はその重みを抱えて扉に向かった。
仕事の朝だった。




