第2章「召喚されたケアマネジャー」
希望ではなく担当者です。
千鶴がそう告げた瞬間ガイウスの顔がわずかに歪んだ。
怒りではなかった。
戸惑いに近かった。
膝をついた十二人の白衣の神官たちは互いに視線を交わした。誰も口を開かない。蝋燭の蝋が一滴垂れて石床に落ちた。その音が広間に響いた。
千鶴は内心で焦りを感じていた。職業人の声を出してはいるが心臓は早鐘を打っている。指先が痺れている。逃げ場がないことに気づいたからだ。元の世界の事業所には戻れない。少なくとも今この瞬間には。だとしたらここで生き延びるしかない。生き延びるためには仕事をするしかない。それが彼女の知る唯一のサバイバル術だった。
「賢人様」
ガイウスが慎重に言葉を選んだ。
「あなた様は理の言葉を持つ方と承っております。理の言葉とは古き聖典に記された世界を整える力でございます。我らはそれを希望と呼ぶのです」
「あの」
千鶴はまたペンを動かした。
「私は理の言葉が何かを存じ上げません。私の世界では介護支援専門員と呼ばれる仕事をしておりました。利用者様のお話を伺い課題を整理し計画を立てる職業です。ケアマネジャーという呼称が一般的でした」
「けあまね……?」
「失礼。日本語の業界用語です。直訳すると介護管理者になりますが管理という言葉は誤解を生むのでマネジャーという英語のままで使われていました」
ガイウスは口の中で「けあまね」と繰り返した。発音が微妙に違っていた。千鶴はそれを訂正しなかった。利用者は名前を覚えてくれない。これも八年で慣れた。
「私の世界では利用者様――要介護状態にある高齢者の方々と契約を結びサービスを設計するのが仕事でした。ご本人の主訴と真のニーズを見極め適切な社会資源と結びつけ生活の質を維持する。それがケアマネジメントです。神の言葉を聞いたこともなければ予言を解いたこともございません」
神官たちが顔を見合わせた。
ガイウスは長く沈黙した。それから老いた両手を組んだ。骨ばった指の関節に擦り傷のような皺が寄っている。八十代後半の利用者によく見られる手だった。千鶴は思わず観察してしまった。職業病だ。
「賢人様」
ガイウスは静かに言った。
「あなた様の言われる理の言葉は我らの予言と一致しております」
「は」
「課題を整理し計画を立て社会の資源を結びつける――それは理の言葉が為すことそのものでございます。我らは長年にわたって異界より賢人を召喚せんと試みてまいりました。が現れた賢人はみな剣を振るう者か魔法を放つ者でございました。話を聞き計画を書く賢人はあなた様が初めてです」
千鶴はそれを書き取らなかった。
書き取らずにペンを止めた。
ペン先が紙の上で宙に浮いている。
誰かが私を見つけてくれた。
そう感じた瞬間に喉の奥が痺れた。これは仕事の感覚ではない。職業人の声でも処理できない感覚だった。
「あの」
千鶴はゆっくりと言った。
「お話の本題に戻りましょう。私の役割が何にせよ私が今ここにいる以上できることをいたします。ですが私には魔法も剣もありません。書類とペンと話を聞く耳しかありません。それでもよろしければ」
「もったいないお言葉でございます」
ガイウスは深々と頭を下げた。
「ではまず現状をご案内いたしましょう。神殿よりお移りいただき王宮にて陛下にお目通り願います」
千鶴は祭壇から足を下ろした。靴は履いていなかった。元の世界では事業所のスリッパだった。素足が冷たい石床に触れる。背筋が反射的に伸びた。
「あの。靴を貸していただけますか。それと――」
千鶴は自分の格好を見下ろした。事業所のオフィスで着ていた紺のジャケットとブラウス。下はパンツスーツ。胸ポケットに事業所のIDカードがクリップで留まったままだ。〈居宅介護支援事業所 まどかの郷 介護支援専門員 篠原千鶴〉。プラスチックの板に印刷された自分の名前を見て千鶴は息を吐いた。これがあれば自分が誰だったかを忘れずに済む。
「服装も場違いかもしれませんが今日のところはこのままでよろしいでしょうか」
「もちろんでございます」
ガイウスが手を打つと若い女性の神官が二人駆け寄ってきた。彼女らが千鶴に革のサンダルと羊毛の外套を差し出した。サンダルは少し大きかったが歩けないほどではない。外套は重く温かかった。
「では参りましょう」
ガイウスが先に立った。
千鶴はバインダーを胸に抱きしめて続いた。
神殿から王宮への道は地下回廊で繋がっていた。
石の壁にところどころ松明が灯っている。煤と石の湿った匂いがする。元の世界の地下駐車場とは違う匂いだ。生き物の気配のない空気。
千鶴は歩きながら頭の中で項目を整理していた。
まず現状把握。これは初回のアセスメントに相当する。
次に契約。私が誰の指示で動くのか。私の身分は何になるのか。報酬は。
それから家族構成――この場合は王国の主要人物――を聞き取る。意思決定者は誰か。キーパーソンは誰か。
「ガイウス様」
「はい賢人様」
「歩きながらで構いません。アルディラ王国の主要な意思決定者を教えてください。誰が誰の上にいるのか系図のような形で把握しておきたいのです」
ガイウスは少し驚いた顔をした。が拒まなかった。
「最高責任者は国王アルフレッド三世陛下でございます。御年四十八。ご即位より十二年。妃殿下は十年前にお亡くなりになりお世継ぎは王太子レオン殿下お一人。御年十六でございます」
千鶴は歩きながらメモを取った。羊皮紙の上を黒い羽ペンが滑る。インクが乾くのが早い。元の世界とは違う筆記具だが書きやすかった。
「政務の実質的な指揮は宰相ヴェルナー閣下が執っておられます。御年五十二。文官出身で財政と外交を担っておられます。軍務は将軍ロランド卿。教会との折衝は神殿長たる私が」
「ありがとうございます。続けてください」
「主要な大貴族として東方に辺境伯モルガン家。北方に伯爵テオドール家。南方に侯爵ベルティニ家がございます。それぞれが自治権を持ち中央への忠誠は名目のみと申せましょう。教会は王権から独立しており光輪教会大司教座が王都に置かれております。大司教はセヴェール猊下と申されます」
千鶴は紙の上に小さな図を描いた。中心に〈王〉。その下に〈宰相〉〈神殿長〉〈将軍〉。その外側に〈大貴族三家〉と〈光輪教会〉。家族関係図と同じ要領だ。
「ガイウス様。これは家族関係でいうところのジェノグラムです。誰がキーパーソンで誰が意思決定者で誰が外野にいるのかを把握するための図です」
「じぇのぐらむ……」
「便利な道具です。後でゆっくり書き直しますね」
ガイウスは興味深そうに紙を覗き込んだ。
「お一つ伺ってもよろしいでしょうか賢人様」
「どうぞ」
「あなた様の世界では病を抱えた老人を支える仕事に就かれておられたとのこと。それは尊い仕事と存じます。ですが大勢の老人を相手にされていては――心が摩耗されることもございましたか」
千鶴は歩を止めた。
松明の影が壁の上で揺れた。
ガイウスは謝った。
「立ち入った問いをいたしました。お忘れください」
「いえ」
千鶴は答えた。
「摩耗していました。今もそうです。倒れる直前まで私は留守電の音声を聞いていました。クレームの声でした。一日も休めない月もありました。眠れない夜もありました。それが私の世界の仕事の現実です」
「お辛うございましたな」
「辛かったですね」
千鶴は自分でその言葉を口に出して少し驚いた。
辛かった。
その三文字を職業人の声以外で発するのは久しぶりだった。
ガイウスは頷いた。
それ以上は何も言わなかった。
千鶴も何も言わなかった。
松明の煤が天井の煤と混ざって長い影を作っていた。
地下回廊は王宮の地下まで続いていた。
その先で千鶴は弱小王国の宰相と最初の面接をすることになる。
地下回廊の最後の階段は螺旋を描いていた。石が古く角が丸まっている。手すりは鉄製だが冷たさを感じる前に千鶴は外套の袖口で握り直した。
階段の途中でガイウスが立ち止まった。
「賢人様」
「はい」
「上では宰相閣下と将軍卿が待っておられます。今宵は陛下にはお目通りせず先に閣下と打ち合わせていただきたいと存じます。陛下は……お疲れでございますので」
千鶴はその言い回しを記憶した。〈陛下はお疲れ〉。家族から「父はちょっと体調が悪くて」と聞いた時と同じ語気だった。何かを隠している語気。本人を会わせたくない時の語気。
「了解しました。ガイウス様。一つ確認させてください」
「はい」
「私の同席者として閣下方とお会いするのですか。それとも私が単独で対応するのですか」
「単独でお願いいたします」
千鶴は内心でため息を吐いた。
単独。つまりこの神殿の人々は王宮の人々と十分な情報共有ができていないか共有していてもなお千鶴を単独で送り出したい事情がある。あるいは自分たちは責任を取りたくないか。家族関係でいえばよくある構図だ。母親の介護について長男と次男が口を出すが二人は仲が悪く一緒に話し合いの場に出てこない。結果ケアマネジャーが両者の間を一人で行き来して伝書鳩のような役割を強いられる。
千鶴は短く頷いた。
「承知しました」
ガイウスはほっとしたような顔をした。
千鶴はその顔を観察した。観察しながら自分に呆れた。さっき「辛かった」と口にしたばかりなのにもう次の利用者の家族の機嫌を伺っている。職業病だ。職業病以外の何物でもない。
階段を上りきった先には木製の重厚な扉があった。両開きの扉の表面に複雑な紋章が彫り込まれている。剣と麦穂と冠が組み合わされている図柄だ。千鶴は紋章をしばらく眺めた。剣は軍事を麦穂は農を冠は王権を表すのだろう。職業ではないが趣味で歴史小説を読んできた経験がうっすらと役に立った。
ガイウスが扉を二度叩いた。
内側から「お通しせよ」という声が応じた。低い声だった。年齢を重ねた男の声だ。
扉が開いた。
部屋の中は明るかった。神殿よりも明るい。床にはペルシア絨毯のようなものが敷かれていて壁には古い地図が飾られている。中央に楕円形の樫のテーブルがあり数人分の燭台が並んでいる。テーブルの向こう側に二人の男が立っていた。
一人は背の高い細身の男だった。年齢は五十前後。短く刈り上げた灰色の髪。肌は青白い。文官の服装――黒いローブの胸元に銀の星形の徽章。
もう一人は逆に背が低く頑健な体格の男だった。鎧は身につけていない。だが首から下げた銀の鎖の先に獅子の意匠が垂れ下がっている。
「お入りなさい」
長身の男が言った。
千鶴は外套のフードを下ろし一礼した。
「失礼いたします。先ほど神殿で召喚されました篠原千鶴と申します」
二人の男は同時に視線を交わした。
長身の男のほうが先に口を開いた。
「宰相ヴェルナーである。隣は将軍ロランド卿。神殿長より話は伺っている。あなたが我らを救ってくださるという賢人ですな」
千鶴は首を横に振った。
「救うかどうかは申し上げられません。それは結果でございます。私が今この時点でお約束できるのは情報を整理し計画を立てることのみです」
ロランドが眉を寄せた。
「何のことだ」
ヴェルナーが小さく手を挙げて将軍を制した。
「お続けなさい」
千鶴はバインダーを開いた。中には先ほど神殿で書いた一枚と新しい白紙が数枚。
「お二方。失礼ですが本日は閣下方の主訴を伺いたく存じます。アルディラ王国がいま一番困っていることを順に教えてください。神殿長様からは既に概略を伺っておりますがあくまで概略です。実務を担われているお二方からの直接の主訴を聞かせていただきたいのです」
ヴェルナーは顎に指を当てた。
ロランドは腕を組んだ。
二人ともしばらく口を開かなかった。
千鶴は待った。八年間でアセスメントの最初の数十秒は待つ時間だと学んでいた。利用者は最初の問いには答えない。本当の主訴は二問目以降に出る。だから一問目はただ静かに待つ。
最初に口を開いたのはロランドだった。
「軍が動かん。兵が逃げる。辺境の駐屯地は半数が空になっている。脱走兵を追う人員すらおらん」
千鶴は書き取った。
〈主訴① 軍:脱走兵が多い/辺境駐屯地の人員不足〉
「ありがとうございます。続けてください」
ロランドは少し驚いた顔をした。続けてくれ――そう言われるのが意外だったらしい。彼は手で口元を隠して声を低くした。
「給金が滞っている。三ヶ月前から。理由は財政だ。財政のことはヴェルナー閣下に聞かれよ」
ヴェルナーが息を吐いた。
「税が入らぬ。辺境からの徴収が滞っている。魔物被害で農地が荒れ村が消え徴税官が殺される事案が相次いでいる。中央の貴族からの献金は形骸化し交易税は隣国との関係悪化により激減している。教会への上納は止められない。我が王国の歳入は前年比で四割減じている」
千鶴は頷きながら羽ペンを走らせた。
〈主訴② 財政:歳入四割減/辺境徴税不能/交易税激減/教会上納維持〉
「ありがとうございます。お二方。一つだけ確認させてください。これらの状況を陛下はご存じですか」
ヴェルナーとロランドが同時に黙った。
千鶴は二人の沈黙の質を観察した。これはよく知っている沈黙だ。「父はもう物事を理解していない」と家族が口にできない時の沈黙とよく似ている。
ヴェルナーが先に口を開いた。
「陛下はご存じである。ご存じだが……」
「ご決断ができないのですね」
千鶴は静かに引き取った。
ヴェルナーの顔が一瞬硬直した。それから彼は深く頷いた。
「左様」
千鶴はそれを書き取った。書き取って括弧の中に小さな印をつけた。〈意思決定機能不全〉。
元の世界で何度も書いた印だった。
誰の家族にもいる。
誰の組織にもいる。
千鶴はペンのキャップを開けて閉めた。
いつもの癖だった。
仕事が始まる合図だった。




