第21章「ケアプラン、世界版」
送還の儀式の前夜。
千鶴は最後の書類を書いていた。
〈アルディラ大陸サービス計画書(暫定第一表)〉
彼女のバインダーの一番奥に挟み込まれていた紙だった。
召喚された日に最初に書いた書類だった。
あの時は空欄ばかりだった。
〈本人の意向:未確認〉と書かれていた。
〈総合的な援助の方針〉も〈長期目標〉も〈短期目標〉も書かれていなかった。
今夜千鶴はその空欄を埋めることにした。
ペンを取った。
書き始めた。
〈本人の意向〉
アルディラ大陸の住人は対立ではなく対話を望む。
連合は自治と対等な関係を望む。
教会は監督権限と威信の保持を望む。
王国は仲介役と民の支持を望む。
以上は表面の意向である。
各々の真のニーズは「他者から尊重されること」にある。
〈総合的な援助の方針〉
三者協議会の恒常化により対話の場を維持する。
各組織の独自性を尊重しつつ共通課題(民生・医療・教育・治安)への共同対応を進める。
戦争の再発を防ぐため定期的なモニタリング(三月毎の本会議)を実施する。
〈長期目標〉(百年計画)
・連合・教会・王国の三者間で武力衝突が一度も発生しない状態を百年継続する
・各組織の指導者が相互の組織の文化を理解し継承する
・大陸全土に対する基本的医療・教育サービスの整備
〈短期目標〉(一年〜三年)
・三者協議会の事務局を機能させる
・各組織の連絡担当官を相互に配置する
・連合の自治権の段階的拡大と教会の監督権限の段階的整理を同時に進める
〈モニタリング担当〉
・三月毎の本会議:神殿長ガイウス様(事務局長)
・年次総括会議:ロディウス猊下(共同議長)
・特例緊急会議:いつでもいずれかの代表が招集可能
千鶴は紙の最下段に書いた。
〈作成者:篠原千鶴(介護支援専門員)/作成日:祝祭月の終わりの満月の翌日〉
書き終えてからもう一度読み返した。
書類はいつものように粗削りだった。
完璧ではなかった。
でも完璧な書類など存在しない。
書類は動かすために書かれる。
動かしながら修正していくものだ。
千鶴は書類を畳んでガイウス宛の引き継ぎ袋に入れた。
明日にはガイウスの手に渡る。
扉を叩く音がした。
ライナスだった。
ライナスは書きかけの紙束を抱えていた。
「篠原さん」
「ライナスさん」
「あんたが行く前に……俺の主訴を改めて伝えに来た」
千鶴は微笑んだ。
彼女は椅子を勧めた。
ライナスは座らずに立ったままだった。
「俺の主訴は変わった」
「お聞きします」
「眠りたい。家に帰りたい。誰にも期待されたくない」
彼は最初の頃と同じ三つを口にした。
「これが半年前の俺の主訴だ。今は違う」
「お聞かせください」
「眠れる時に眠る。家には帰る。期待には自分で応える範囲で応える。期待されない選択もする」
千鶴は深く頷いた。
「素晴らしいご成長でございます」
「篠原さんが教えてくれた」
「あなたが選ばれた道です」
千鶴は静かに答えた。
ライナスは深く頷いた。
彼は紙束を千鶴の前に置いた。
「これ俺たち全員からだ」
千鶴は紙束を開いた。
四十数枚の紙だった。
ライナス。ジオ。アンナ。リフィ。ガイウス。カリス。ヴェルナー。ロランド。拓也。ロディウス。ミラ。ティナ。ヴォルク。ソフィ。ハルディス。
それぞれの名前で短い手紙が書かれていた。
千鶴へ。
千鶴は一枚ずつ読んだ。
読みながら涙が滲んだ。
滲んだ涙を拭いながら最後まで読んだ。
ティナの手紙には大きな字でこう書かれていた。
「シノハラさんのこと わすれない あなたが くれた はの ことばを わたしは いつまでも おぼえています」
千鶴は紙束を抱きしめた。
長い間抱きしめていた。
ライナスはしばらく黙って立っていた。
彼は最後に言った。
「篠原さん」
「は」
「向こうの世界でも――俺たちみたいなのがいたら助けてやってくれ」
「はい」
「絶対に助けてやってくれ」
「はい」
千鶴は深く頷いた。
ライナスは部屋を出ていった。
扉が閉まった後千鶴はバインダーを開いた。
手紙の束をバインダーの一番奥に挟んだ。
古い聖典の隣に。
書きかけの〈お母さんへ〉の紙の隣に。
全てが彼女のバインダーに収まっていた。
半年分の仕事と関係と思い出が一つの革表紙の中に詰まっていた。
夜半過ぎヴェルナーが訪ねてきた。
彼は珍しく素朴な木の小箱を持っていた。
「賢人殿。お渡ししたい物がございます」
千鶴は小箱を受け取った。
開けた。
中には新しい羊皮紙の束と十数本の予備の羽ペンと小さな硝子の瓶が二本入っていた。
硝子の瓶にはインクが満たされていた。
「ヴェルナー閣下。これは」
「あなたの世界で使っていただく道具を私が想像して作らせた」
「閣下」
「あなたが向こうの世界でも書類を書き続けられるように。ペンとインクと紙だけはこちらの方が手に入りやすい場合もあろうと思って」
千鶴は深く頭を下げた。
涙が滲んだ。
「ありがとうございます」
ヴェルナーは小さく笑った。
「賢人殿」
「は」
「あなたは契約書を熱心に読むケアマネジャーであった」
「はい」
「私はあなたとの契約を最後まで履行いたしました」
「ありがとうございます」
「契約終了の儀式を申し上げる。〈アルディラ王国宰相府助言官〉の任を解く。期間は祝祭月三日より本日まで。報酬は本書類に記載の通り全額支払い済み」
ヴェルナーは正式な書類を一枚差し出した。
千鶴は一枚一枚目を通した。
契約書の終結文書。
業務報告書。
完了確認書。
すべて整っていた。
契約終結の儀式だった。
元の世界で利用者との契約が終了した時に書く書類と全く同じ形式だった。
千鶴は契約書の最終欄に署名した。
〈介護支援専門員 篠原千鶴〉
ヴェルナーも副署した。
「契約終了でございます」
千鶴は深く頭を下げた。
ヴェルナーも頭を下げた。
「賢人殿」
「は」
「あなたが為された仕事は王国の歴史に残ります。それと――王国の歴史に残らない部分でも残るものがございます」
「と申しますと」
「あなたが私個人に教えてくださったことです。〈主訴を聞く〉ということ。私は宰相職を続ける限りこの言葉を忘れません」
千鶴は微笑んだ。
「閣下が忘れずにいてくださる限り私の仕事は続きます」
「了解いたしました」
ヴェルナーは深く頷いた。
彼はもう一度頭を下げて部屋を出ていった。
明け方近く拓也が部屋を訪ねた。
彼はもう鎧を着ていなかった。
簡素な黒い旅装に外套だけだった。
「篠原さん」
「拓也様」
「今夜の儀式が終わったら俺はまた黒翼城に戻る。連合の事務局長補佐の任を引き受けることにした。ハルディスから打診があった」
「素晴らしいお仕事でございます」
「あんたが渡してくれた仕事だ」
「いえ。あなたが選ばれたお仕事でございます」
拓也は小さく笑った。
「篠原さん」
「は」
「向こうの世界に戻ったら……お袋に会いに行ってくれねえか」
「はい」
「俺の代わりに。一言だけでいい。『拓也は元気だ』って」
千鶴は深く頷いた。
「お伝えいたします」
「頼んだ」
「お任せください」
拓也は深く頭を下げた。
頭を下げてから言った。
「篠原さん。あんたは俺の最後の担当者だった」
「光栄でございます」
「悪い担当者だと思ってた。けど――一番いい担当者だった」
千鶴は涙を拭わなかった。
涙が頬を伝った。
拓也は最後に小さく笑って部屋を出ていった。
夜明けが来た。
千鶴は窓辺に立った。
半年前に最初に見た王都の夜景の朝の姿が今広がっていた。
灰色がかった空。
白み始めた東の空。
屋根の上から立ち上る煙突の煙。
半年前と何も変わっていない景色だった。
でも千鶴の中の景色は変わっていた。
彼女はバインダーを抱きしめた。
今夜送還の儀式が行われる。
元の世界に戻る。
戻ってからやることは決まっていた。
母に会う。
拓也の母に会う。
事業所のデスクの留守電を一件ずつ処理する。
そして自分にもケアプランを書く。
最初の利用者は自分自身。
〈本人の主訴:休みたい〉
〈真のニーズ:自分自身に丁寧に向き合うこと〉
〈総合的な援助の方針:他人を助ける前にまず自分を助ける〉
千鶴は頭の中でそれを書き始めた。
書き始めながら彼女は気づいた。
元の世界の千鶴と今の千鶴はもう同じ千鶴ではなかった。
半年でケアマネジャーは少しだけ成長した。
昼前にアンナが訪ねてきた。
彼女は茶葉の小さな袋を持っていた。
「篠原さん。あたしから一つだけ」
「アンナさん」
「向こうの世界で疲れた時にこのお茶を飲んでおくれ。あんたを思い出して」
千鶴は袋を受け取った。
乾いたハーブの香りがした。
南区のアンナの家の縁先で嗅いだのと同じ香りだった。
「ありがとうございます」
「あんたが教えてくれた療養所の構想ね。あれを引き継ぐよ。あたしが死ぬまでに形にする」
「アンナさん」
「あたしは死ぬまで働くからな。あんたが残した仕事を続ける」
「光栄でございます」
アンナは深く頭を下げた。
彼女は小さく笑って部屋を出ていった。
昼過ぎリフィが書記の作業を持って訪ねてきた。
「篠原さん。最終の議事録を清書しました。確認をお願いします」
千鶴は議事録を受け取った。
リフィの美しい字で三者協議会の本会議の全記録が清書されていた。
千鶴はゆっくりと読んだ。
一字も誤りがなかった。
完璧な議事録だった。
「リフィさん。素晴らしいお仕事です」
「あなたが教えてくれた書式を守りました」
「これからもこの書式でお願いします」
「もちろんです」
リフィは小さく笑った。
彼女は千鶴に書式の見本を返してきた。
「これはあなたが王宮で最初に書かれた議事録の見本です。私たちの基本書式として保存しておきます」
千鶴は深く頷いた。
書式は形式であり形式は組織を守る。
彼女が残せる最大の遺産は形式だった。
形式が彼女の不在を補ってくれる。
リフィは深く頭を下げて部屋を出ていった。
午後遅くにジオが来た。
彼は寡黙な彼らしく長く話さなかった。
「篠原さん」
「は」
「父親に手紙を書いた」
「お聞かせください」
「あなたが代筆してくれた手紙の続きを自分で書いた。返事も来た。父は『お前の道を歩め』と書いてきた」
「素晴らしいことでございます」
「あんたが代筆してくれた最初の一通がなかったら俺は手紙を書けなかった」
「ジオさん」
「は」
「あなたが書きました。私はきっかけだけです」
ジオは深く頷いた。
彼は短く一礼して部屋を出ていった。
寡黙な男の最大限の感謝の表現だった。
夕暮れにガイウスが訪ねてきた。
彼は神殿長の正装ではなく旅装に近い簡素な服装だった。
事務局長としての新しい衣装らしかった。
「賢人様」
「ガイウス様」
「私を信じてくださりありがとうございました」
「あなたが私を呼んでくださったから今があります」
ガイウスは深く頭を下げた。
「賢人様の引き継ぎ書類はすべて拝受いたしました。私はこれを毎日読み返し書式を守りながら事務局を運営してまいります」
「ご無理のないように」
「無理はいたしません。賢人様が書類で教えてくださった通り――無理は良い仕事の敵でございます」
千鶴は微笑んだ。
ガイウスはバインダーの中から一冊の小さな冊子を取り出した。
「賢人様。最後に一つお願いがございます」
「お聞きします」
「この冊子に賢人様が為された仕事の要点を書き残していただきたいのです。次の世代の事務局員が読めるように」
「了解いたしました」
千鶴は冊子を受け取った。
ペンを取った。
最初の頁に書いた。
〈ケアマネジャーの仕事の核心〉
その下に書き始めた。
〈一 主訴を聞く〉
〈二 主訴と真のニーズのズレを見極める〉
〈三 計画を書く〉
〈四 合意を取る〉
〈五 モニタリングを続ける〉
〈六 書式を守る〉
〈七 自立を促す〉
千鶴はその七つを書き終えた。
書き終えてから付け加えた。
〈最終 ケアマネジャー自身もケアされなければならない〉
千鶴は冊子をガイウスに返した。
「ありがとうございます」
ガイウスは深く頭を下げた。
彼は冊子を胸ポケットに大切に収めた。




