第22章「モニタリング、そして帰還」
深夜。
神殿の召喚の間に千鶴は立っていた。
半年前に目を覚ました場所だった。
石の祭壇。
幾何学模様の床。
頭上のシャンデリア。
すべてが半年前と変わっていなかった。
円陣の外側に人々が立っていた。
ロディウス。ガイウス。ヴェルナー。ロランド。アルフレッド三世。ハルディス。セヴェール。拓也。ライナス。ジオ。アンナ。リフィ。カリス。ミラ。ティナ。ヴォルク。ソフィ。
千鶴がこの世界で関わった全ての人々が円陣の外に並んでいた。
誰も声を出さなかった。
千鶴は祭壇に上った。
半年前に目を覚ました同じ場所に座った。
バインダーを胸に抱きしめた。
手紙の束も古い聖典もすべてバインダーに収まっていた。
ロディウスが祭壇の前に進み出た。
彼は古い詠唱を始めた。
言葉は千鶴には聞き取れなかった。
けれども音の響きが半年前の召喚の時と同じ調子だった。
今度は「呼ぶ」のではなく「送り返す」詠唱だった。
幾何学模様の床が銀色に光り始めた。
光が次第に強くなった。
千鶴は目を閉じた。
目を閉じる前に最後にもう一度全員の顔を見た。
ライナスが手を挙げていた。
アンナが目元を拭っていた。
リフィが小さく笑っていた。
ジオが直立していた。
ハルディスが深く頭を下げていた。
セヴェールも頭を下げていた。
ヴェルナーが目を伏せていた。
拓也が一度だけ手を振った。
ティナが大声で叫んだ。
「シノハラさん!」
千鶴は微笑んだ。
光が頂点に達した。
彼女の意識は半年前と同じ白い光に溶けた。
目を開けた。
目蓋の裏側がオレンジ色だった。
冷たい床の感触が背中にあった。
香の匂いはなかった。
代わりに蛍光灯のちらつきの音が遠くから聞こえた。
千鶴は半身を起こした。
胸の上にバインダーが乗っていた。
彼女は周囲を見回した。
事業所のデスクの下に倒れていた。
書類の山が床に散らばっていた。
時計の針は午前一時十五分を指していた。
彼女が倒れた直後の時刻だった。
半年が一瞬で消えていた。
あるいは――半年は実は一瞬の出来事だったのか。
千鶴は立ち上がった。
膝に力が入った。
半年前のあの夜のように崩れ落ちなかった。
彼女はバインダーを開いた。
中にあるはずだった。
古い聖典。
手紙の束。
書きかけの〈お母さんへ〉。
元の世界の物ではない物たち。
バインダーは元の世界のものに戻っていた。書きかけのアセスメントシートだけが入っていた。
千鶴は息を呑んだ。
夢だったのか。
半年は彼女の脳が見せた長い夢だったのか。
その時――。
彼女のスーツのジャケットの内ポケットに違和感を感じた。
手を入れた。
硬い物が触れた。
取り出した。
冒険者ギルドの金属の身分証だった。
〈ギルド登録No.487291/篠原千鶴/Fランク〉
古い金属の感触が彼女の掌の中にあった。
千鶴は身分証を見つめた。
長い間見つめた。
夢ではなかった。
彼女はスーツの埃を払った。
書類の山を集めて机の上に戻した。
介護報酬請求ソフトの画面を見た。
まだエラー表示が赤く光っていた。
〈単位数不一致〉
千鶴はパソコンの前に座った。
マウスを握った。
半年で動かしてきた羽ペンの感触が残る掌でマウスを握った。
奇妙な感覚だった。
彼女は仕事を再開した。
単位数不一致の修正。
書類は呪文だった。
書類が動けば人が動いた。
元の世界でもそれは同じだった。
明け方近くに千鶴はようやく事業所を出た。
外は夜が明けかけていた。
彼女はアパートには戻らなかった。
代わりに駅へ向かった。
始発電車に乗った。
目的地は母のいる介護施設だった。
兄が「お前の仕事はどうなんだ」と何度も繰り返した施設。
千鶴がずっと避けてきた施設。
半年で何度も書きかけて書けなかった手紙の宛先。
電車の中で彼女はバインダーを開いた。
〈お母さんへ〉と書かれた紙。
今ならば書けそうだった。
ペンを取った。
書き始めた。
お母さんへ。
お母さんの主訴を聞きに行きます。
遅くなってごめんなさい。
遅くなりましたが行きます。
千鶴は短い手紙を書いた。
書きながら涙が滲んだ。
涙を拭きながら書き続けた。
施設に着いた時刻は朝の八時過ぎだった。
受付の女性が千鶴を見て驚いた顔をした。
「篠原さん……お久しぶりです」
「お久しぶりです。母に会いに来ました」
「お母様のお部屋へご案内します」
千鶴は廊下を歩いた。
元の世界の介護施設の廊下だった。
半年前に見た王宮の地下回廊と似ているようで違う廊下だった。
母の部屋の前で立ち止まった。
深く息を吐いた。
扉を叩いた。
返事はなかった。
彼女は静かに扉を開けた。
母はベッドに座っていた。
窓の外を見ていた。
千鶴はベッドの傍らに立った。
「お母さん」
母は振り返った。
千鶴を見た。
しばらく見て――小さく笑った。
「あら。千鶴ちゃん」
千鶴は息を呑んだ。
母の目は澄んでいた。
今日は調子のいい日だった。
千鶴は母の前に座った。
手を取った。
母の手は痩せていた。
元の世界の他の利用者の手と似ていた。
「お母さん。失礼ですが――今日のあなたの主訴を伺ってもよろしいですか」
母は瞬きをした。
彼女は娘の言葉に首を傾げた。
それからゆっくりと答えた。
「あんたに会いたかったよ」
千鶴の目から涙が落ちた。
彼女は母の手を強く握った。
「お母さん」
「ん」
「ごめんなさい」
「いいよ」
「ずっと聞かなかった」
「いいよ」
母は静かに答えた。
彼女は娘の頭を撫でた。
千鶴は声を上げて泣いた。
半年ぶりに――いやもっとずっと長い年月ぶりに――職業人ではない声で泣いた。
二時間ほどして千鶴は施設を出た。
外は朝の光に満ちていた。
彼女は駅に向かう道で立ち止まった。
もう一つの訪問先があった。
黒沢拓也の母――黒沢ハナさんの家。
拓也の代わりに伝えなければならない一言があった。
〈拓也は元気だ〉
千鶴は深く息を吐いた。
彼女は再び歩き始めた。
黒沢ハナさんの家に着いた時には午前十時を過ぎていた。
千鶴は呼び鈴を押した。
拓也の代わりに介護をしているのは近所のヘルパーだった。
彼女は千鶴を見て驚いた顔をした。
「篠原さん。今日はどうされたんですか」
「ハナさんにお会いしたく参りました」
「お入りください」
ハナさんは居間のソファに座って毛布をかけられていた。
彼女は千鶴を見て――小さく笑った。
彼女もまた今日は調子のいい日だった。
「あら。ケアマネさんね」
「篠原千鶴と申します」
「うん。覚えてる」
ハナさんは小さく頷いた。
千鶴は彼女の前に座った。
「ハナさん」
「ん」
「拓也様からの伝言がございます」
ハナさんは目を上げた。
「拓也」
「拓也様は今お元気でございます」
「拓也が」
「はい」
千鶴は静かに告げた。
「拓也様は今遠い場所でお仕事をされております。立派なお仕事でございます。お母様のことを案じておられます」
ハナさんはしばらく沈黙した。
彼女の目に微かに涙が滲んだ。
「あの子……元気だってかい」
「お元気でございます」
「ありがとうね」
ハナさんは深く頷いた。
千鶴は彼女の手を握った。
ハナさんの手も痩せていた。
元の世界と異世界の利用者の手の感触が千鶴の中で重なった。
仕事は同じだった。
どこの世界でも仕事は同じだった。
千鶴は駅へ向かう道でバインダーを開いた。
書きかけのアセスメントシートを取り出した。
半年前にあの夜書こうとして書けなかった〈総合的な援助の方針〉の欄。
彼女はペンを取った。
書き始めた。
〈作成者:篠原千鶴/対象:篠原千鶴本人/作成日:本日〉
〈総合的な援助の方針〉
〈本人は他者の主訴を聞くことに長けているが自身の主訴を聞くことを長らく怠ってきた。今後は自身の主訴を定期的に整理し休息を確保する。月に一度自分自身のためのモニタリングを行う。家族との関係修復を優先課題とする〉
〈長期目標〉
〈三年以内に自身の人生の主訴と真のニーズを完全に把握する〉
〈短期目標〉
〈毎月母を訪問する〉
〈本日より一週間以内に有給休暇を取得する〉
〈半年以内に事業所の業務分担を見直し書類仕事の負担を半減する〉
千鶴はそこまで書いて手を止めた。
書きながら自分でも笑い出しそうになった。
馬鹿げているかもしれなかった。
けれども馬鹿げている方法でも何もしないよりはましだ。
彼女は最後に一行加えた。
〈モニタリング担当:篠原千鶴本人〉
書き終えて紙を畳んだ。
バインダーに収めた。
冒険者ギルドの身分証の隣に。
駅のホームで電車を待ちながら千鶴は空を見上げた。
春の朝の空だった。
元の世界の空だった。
半年前と同じ空のはずだった。
でも違って見えた。
空は変わっていなかった。
変わっていたのは彼女の方だった。
千鶴は深く息を吐いた。
ホームに電車が滑り込んできた。
彼女はバインダーを抱えて電車に乗った。
次の利用者のもとへ向かう電車だった。
彼女の仕事はこれからも続く。
書類を書き続ける。
主訴を聞き続ける。
主訴と真のニーズのズレを見極め続ける。
書類が動けば人が動く。
動かしながら修正していく。
それが彼女の知る唯一の世界の動かし方だった。
電車のドアが閉まった。
彼女は窓の外を見た。
窓の外で誰かが手を振っているような気がした。
誰もいないはずなのに。
千鶴は微笑んで小さく手を振り返した。
異世界からの最後の挨拶のような気がした。
あるいは元の世界からの最初の挨拶のような気もした。
どちらでもよかった。
仕事の朝だった。
電車が動き出した。
千鶴は座席に腰を下ろした。
膝の上にバインダーを乗せた。
彼女はバインダーをそっと撫でた。
革の表紙には半年分の傷が増えていた。
元の世界の物理法則ではあり得ない傷だった。
でも傷は確かにそこにあった。
彼女が為してきた仕事の証だった。
電車の中で彼女はもう一度バインダーの中身を確認した。
冒険者ギルドの身分証はあった。
書きかけのアセスメントシートの自分用ケアプランもあった。
古い聖典は消えていた。
手紙の束も消えていた。
〈お母さんへ〉と書いた紙は今朝書き直したものだけが残っていた。
元の世界に戻ったものと戻らなかったものがあった。
千鶴はそのことを少し考えた。
考えてやめた。
考えても仕方のないことだった。
戻らなかったものは向こうの世界に残っているはずだった。
ガイウスのバインダーの中に。
ライナスの引き出しの中に。
ティナの宝物入れの中に。
千鶴の名前が向こうの世界に残っているのと同じように。
電車は朝の街を走り続けた。
窓の外を流れる景色は元の世界の景色だった。
高層ビル。
高速道路。
信号機。
看板。
半年前と同じ景色のはずだった。
でも違って見えた。
千鶴は気づいた。
彼女の目が変わったのだ。
見える景色が変わったのではなく見る彼女が変わった。
それは八年前に新人ケアマネジャーになった時にも経験した変化だった。
変化は人の中で起きる。
世界の中ではなく。
彼女は事業所の最寄り駅で降りた。
いつもの通勤路を歩いた。
見慣れた歩道。
見慣れたコンビニ。
見慣れた花屋の前。
花屋の前で立ち止まった。
春の花が並んでいた。
白いカスミソウ。黄色いミモザ。淡い紫の花。
千鶴は店の中に入った。
花を一束買った。
母の部屋に飾るためだった。
午後にもう一度施設に寄るつもりだった。
事業所の扉の前で千鶴は深呼吸をした。
扉を開けた。
所長が机に向かっていた。
彼は千鶴の顔を見て驚いた。
「篠原さん。来てたの」
「おはようございます。所長」
「給付管理どこまで進んだ」
「八割は終わりました。残りは午前中に片付けます」
「悪いね。徹夜だったの」
「いえ」
千鶴は静かに答えた。
「徹夜ではございません。少し仮眠を取りました」
所長は怪訝な顔をした。
千鶴の表情があまりにも穏やかだったからだろう。
彼女は自分の机に戻った。
書類の山が片付けられている机だった。
昨夜彼女自身が片付けた。
彼女は花瓶代わりにマグカップを使い水を入れて花を活けた。
春の匂いが事業所の空気に混じった。
所長が再び怪訝な顔をした。
千鶴は微笑んで自分のパソコンを起動した。
介護報酬請求ソフトの画面を開いた。
単位数不一致のエラーは昨夜のうちに修正済みだった。
彼女は次の請求業務に取り掛かった。
仕事は仕事だった。
月初十日は月初十日だった。
でも今度は終わりが見える月初十日だった。
終わりが見える仕事は楽だった。
彼女のペンが動き続けた。
動き続けるペンの中に半年分の経験が乗っていた。
午後遅くに千鶴は所長に有給休暇を申請した。
来週からの三日間。
所長は驚いた顔をした。
「篠原さんが有給取るなんて……何年ぶりだろう」
「八年ぶりです」
「あ。本当に取るのね」
「取ります」
所長は受理印を押した。
千鶴は申請書を受け取った。
彼女は深く頭を下げた。
所長も頭を下げた。
仕事の合間の小さな儀式だった。
夕方千鶴は事業所を出た。
もう一度母の施設に向かった。
花束を抱えて。
母の部屋の窓辺に花を飾った。
母は今度は寝ていた。
千鶴は母の枕元に座った。
しばらく母の寝顔を眺めた。
穏やかな寝顔だった。
彼女は母の手を取らなかった。
起こしたくなかった。
彼女はバインダーから一枚の紙を取り出した。
〈母のためのケアプラン〉
今日から書き始めることにした。
主訴を聞いてからまだ一日しか経っていなかった。
〈本人の主訴〉の欄に〈娘に会いたかった〉と書いた。
千鶴の指が震えた。
書きながら泣いた。
泣きながら書き続けた。
書類は呪文だった。
書けば人が動いた。
今度動くのは千鶴自身だった。
夜になって千鶴は施設を出た。
駅へ向かう道で彼女は空を見上げた。
元の世界の空だった。
星はまばらだった。
元の世界の都市の空は星が見えない。
でも今夜は数粒だけ瞬いていた。
千鶴は星を見ながら呟いた。
「お疲れ様でございました」
誰に向けた言葉でもなかった。
あるいは全員に向けた言葉だった。
半年間で出会った全ての利用者に。
半年間で書いた全ての書類に。
半年間で動かした全ての世界に。
彼女は深く息を吐いた。
明日からの新しい月初十日が始まる。
仕事は続く。
彼女のペンも続く。
ケアマネジャー篠原千鶴の物語はここから先も続いていく。
(了)




