第18章「黒沢拓也との対峙」
ハルディスとの面会が終わった日の午後。
千鶴は中庭の片隅にあるベンチに腰を下ろしていた。
拓也がやってきて隣に座った。
二人は朝までの寒さの残る午後の光の中で並んでいた。
黒翼城の中庭は思ったよりも穏やかだった。
兵士たちが少し離れた場所で訓練をしていたが大声は出していなかった。
子供たちが井戸の周りで遊んでいた。
角のある子もない子もいた。
誰も互いの違いを気にしていなかった。
「篠原さん」
「は」
「魔王の話は聞いたか」
「伺いました」
「どう思った」
千鶴は少し考えた。
「ハルディス様は……長く一人で頑張ってこられた方です」
「ああ」
拓也は短く同意した。
「俺がこの城に来た時もハルディスはたった一人で執務をしていた。書類の山に埋もれていた。俺はそれを見て――同情した。俺は人に同情するなんて柄じゃないが」
「拓也様」
「ん」
「失礼ですがあなたはいつから人に優しくなられたのですか」
拓也は笑った。
乾いた笑いだった。
「篠原さん。あんたは俺の元の世界での顔しか見てない。俺は元の世界では最低の人間だった。お袋を金づるにしてあんたみたいな人間に怒鳴り散らしてた」
「左様でございました」
「自覚はあった。でもどうにもならなかった」
拓也は地面を見た。
彼の足元の石畳に小さな草が一本生えていた。
彼はそれを見つめていた。
「こっちに来てから俺は誰でもなかった。誰でもないところからやり直すしかなかった。最初は荒野で飢えてた。盗賊の真似事もした。傭兵の真似事もした。何度も死にかけた。一度本当に死にかけた時にハルディスが俺を拾った」
「ハルディス様が」
「ああ。彼女は俺を見て『この男は使える』と判断したらしい。彼女は人を見抜く目がある。俺の中の使える部分を見つけた」
「使える部分とは」
「忠誠心だ」
拓也は静かに言った。
「俺はお袋に対して忠誠心があった。歪んだ形でな。でも忠誠心ではあった。ハルディスはその部分を引き出した。俺はハルディスに忠誠を誓った。それから俺は変わった」
千鶴は深く頷いた。
元の世界では拓也の歪んだ忠誠心は怒りとクレームの形でしか発露されなかった。母への愛が怒りに変換されていた。
ハルディスはその変換を「正しい方向」に再変換した。
千鶴の言葉でいえば〈ストレングス・アプローチ〉だった。
利用者の弱みではなく強みに焦点を当てる支援手法だ。
「拓也様」
「ん」
「あなたは元の世界で――お母様に何を伝えたかったのでしょうか」
拓也の顔が一瞬硬直した。
「お袋に……?」
「はい」
「俺は……」
彼は長く沈黙した。
「ありがとうって言いたかった。たぶん」
千鶴は頷いた。
「お母様もきっと同じ気持ちだったと思います」
「お袋は俺のことが嫌いだったんじゃないか」
「いいえ」
千鶴は静かに首を横に振った。
「お母様は……あなたを愛しておられました」
「なんでわかる」
「私はお母様の主訴を伺いました。元の世界で。拓也様の介護調整の打ち合わせの時に」
千鶴はバインダーを開かなかった。
記憶を呼び起こした。
元の世界の事業所で何度も書いた書類。黒沢ハナさんの第一表。
「お母様の主訴は『息子と仲良く暮らしたい』でした。文字通りそう書いてあります」
拓也の目が大きく見開かれた。
「お袋が……そう言ったのか」
「はい」
「俺と仲良く……?」
「はい」
拓也は両手で顔を覆った。
彼の肩が震えた。
しばらくの間彼は声を出さなかった。
声を出さずに泣いた。
千鶴は黙って待った。
遠くで子供たちが笑う声が聞こえた。
午後の光が中庭の石畳の上で柔らかく揺れていた。
拓也が顔を上げた。
彼の頬は濡れていた。
「篠原さん」
「は」
「俺は元の世界に戻れるのか」
千鶴は答えなかった。
答えられなかった。
彼女自身もまだ戻れるかどうかわからなかった。
拓也は手で頬を拭った。
「戻れねえなら戻れねえでいい。お袋に会えねえなら会えねえでいい。けど――」
彼は深く息を吐いた。
「俺がこっちで何かまともなことをやれば。お袋に届くかもしれねえ。声は届かなくても俺がやったことは届くかもしれねえ」
「届くと思います」
千鶴は静かに答えた。
「拓也様。あなたが今やっておられること――この城の人々を守り戦争を止めようとされていること――それは元の世界のお母様にも届きます。形は違っても届きます」
拓也は深く頷いた。
頷いてからもう一度涙を拭った。
「篠原さん」
「は」
「あんたを連れてきて悪かった」
「いえ」
「あんたを王国に戻す。明日にでも。勇者パーティも一緒に」
「ありがとうございます」
「ハルディスとの交渉は俺が橋渡しをする。あんたが王国側の責任者として交渉に来てくれればハルディスも応じる」
「了解しました」
千鶴は深く頷いた。
拓也は立ち上がった。
彼は中庭を見渡した。
「篠原さん。俺はもうクレーマーじゃない」
「左様でございますね」
「あんたを困らせない」
「光栄でございます」
千鶴も立ち上がった。
二人は同じ高さで顔を合わせた。
元の世界では事業所の電話越しでしか向かい合わなかった二人だった。
今ここでは中庭の光の中で同じ場所に立っていた。
拓也は一礼した。
千鶴も一礼した。
元の世界の関係はここで一度終わり別の関係が始まった。
千鶴はそれを感じた。
主訴が変わった。
主訴が変われば関係も変わった。
千鶴の経験則だった。
その夜千鶴の部屋で勇者パーティ四人と再会した。
ライナス。ジオ。アンナ。リフィ。
彼らは無事だった。
拘束中も丁重な扱いを受けていた。
ライナスが千鶴を見て叫んだ。
「篠原さん!」
「お元気そうで何よりです」
「俺は……ずっと心配してた」
「ありがとうございます」
千鶴は四人を椅子に座らせた。
今夜は緊急のサービス担当者会議だった。
「議題は二つです。一つ目――明日の王都への帰還について。二つ目――今後の連合と王国と教会の三者交渉に向けた我々の役割について」
千鶴は議事録の紙を取り出した。
議事録は黒翼城の客間で書かれた。
書類は呪文だった。
書類が動けば人が動いた。
千鶴のペンが今夜も動いていた。
会議は二時間続いた。
ライナスが最初に発言した。
「篠原さん。俺は……俺なりに考えた」
「お聞きします」
「俺は勇者として戦う気はやっぱりねえ。でも――話し合いの場には立つ。勇者の立場で立てるんなら立つ。教会と連合と王国が話し合うなら俺の名前も使ってくれていい」
千鶴はそれを書き取った。
「ありがとうございます。あなたの判断を尊重します」
ジオが続いた。
「俺は元の駐屯地に戻ることはしない。脱走兵として処分される可能性が高い。だから――篠原さんの個人的な護衛として動きたい。賢人の助手として登録できねえか」
「冒険者ギルドの規約では可能です」
千鶴は答えた。
「明日王都に戻ったらギルドに登録の変更を申請します」
「頼む」
「頼まれました」
アンナが続いた。
「あたしは年寄りだからな。あたしは王都の南区の家に戻る。そこで『勇者パーティの療養所』みたいなものを開きたい。連合からも王国からも教会からも――心の傷を抱えた者が来れる場所を。あんたのケアプランの『デイサービス』ってやつだ」
千鶴は息を呑んだ。
元の世界の彼女が長年口にしていた仕組みをアンナが提案している。
「アンナさん。それは素晴らしい構想です。私が王都に戻り次第運営計画書を一緒に作りましょう」
「頼んだよ」
最後にリフィが顔を上げた。
彼女は四人の中で一番痩せていたが目には光が戻っていた。
「私は……教会本部には戻りたくない。でも魔法の勉強は続けたい」
「了解しました」
「篠原さんの隣で書類仕事を手伝いたい。文字を書くのは得意。計算もできる。あなたの助手として働きたい」
千鶴は深く頷いた。
彼女には書記が必要だった。一人で抱える書類仕事の量は限界に達していた。
「リフィ様。一緒に働きましょう」
リフィは小さく笑った。
久しぶりの笑みだった。
会議の終わりに千鶴は議事録を読み上げた。
「本日の決定事項は以下の通りでございます。一つ。明日朝に王都へ向けて出立する。二つ。勇者パーティは解散せず三者交渉に向けた支援組織として継続する。三つ。各メンバーの今後の役割は本日合意の通り。四つ。療養所の運営計画書を後日作成する」
四人は深く頷いた。
千鶴は議事録の最後に〈出席者全員署名〉と書いた。
四人がそれぞれ署名した。
ライナスは練習した字で書いた。
ジオはぶっきらぼうな字で書いた。
アンナは整った字で書いた。
リフィは美しい字で書いた。
四枚の名前が紙の上に並んだ。
千鶴は最後に自分の名前を書き加えた。
〈介護支援専門員 篠原千鶴〉
元の世界の資格名を書き続けた。
書き続けることが彼女を彼女のまま保たせていた。
会議が終わった後ライナスだけが部屋に残った。
他の三人は別々の部屋に戻った。
ライナスはテーブルの前で椅子に座ったまま動かなかった。
「ライナスさん。何かございますか」
千鶴は声をかけた。
ライナスは顔を上げた。
「篠原さん。あんた本当に元の世界に帰りたいのか」
千鶴は息を呑んだ。
答えに詰まった。
元の世界。
月初十日の地獄。
十七件の留守電。
黒沢拓也のクレーム。
単位数不一致のエラー表示。
あの場所に戻りたいか。
戻りたくないと答えるのは簡単だった。
でも千鶴の胸の中には別の答えがあった。
「ライナスさん」
「ん」
「私には元の世界に……母がいます」
ライナスは深く頷いた。
「会いてえだろ」
「会いたいです」
「だよな」
ライナスは少し笑った。
「俺も家族に会いてえからわかるよ」
千鶴は深く息を吐いた。
ライナスは続けた。
「篠原さん。もしあんたが元の世界に帰る方法が見つかったら――俺たちのことは気にしねえで帰れよ。俺たちは大丈夫だ。あんたが教えてくれた仕事のやり方で何とかする」
千鶴は涙が滲みそうになった。
滲ませなかった。
職業人として滲ませなかった。
「ライナスさん。ありがとうございます」
「お互い様だ」
ライナスは立ち上がった。
彼は扉の前で振り返った。
「篠原さん」
「は」
「俺は篠原さんの最初の利用者だってことは忘れねえからな」
千鶴は小さく笑った。
「光栄でございます」
ライナスは扉を閉めて出ていった。
千鶴は部屋に一人残された。
彼女はテーブルの上の議事録を見つめた。
四人の名前が並んでいた。
彼らはもう千鶴がいなくても回る。
千鶴は彼らに「自立支援」を施していた。
彼らは依存ではなく自立に向かっていた。
それがケアマネジャーの仕事の真髄だった。
いつかケアマネジャーは不要になる。
不要になることを目指す仕事だった。
夜更けに千鶴はバインダーを開いた。
ハルディスから渡された古い聖典を取り出した。
革表紙の本だった。
彼女は最後の節を開いた。
古い文字で書かれていた。
彼女には読めない言語だった。
けれども一つの単語だけが彼女の目に留まった。
文字の形で〈主訴〉と読めるものが二つ。
彼女はその箇所をペンで囲んだ。
囲みの脇に〈神は世界の主訴を聞き給うた〉と日本語で訳を書き入れた。
書きながら息が震えた。
ガイウスから示唆された一節と一致していた。
二つの聖典の最後の節が同じ言葉で結ばれていた。
千鶴は本を閉じた。
燭台の火を見つめた。
明日王都に戻る。
戻ってからすぐに教会本部に向かい三者交渉の場を設定する。
交渉の中で〈ロディウス〉という名の存在の真偽を確認する。
この戦争を終わらせる。
千鶴は目を閉じた。
眠れない夜になりそうだった。
窓の外で月が傾き始めていた。
月の光が古い聖典の表紙を照らした。
革の上に細かい傷が無数に走っていた。
無数の手がこの本を撫でて生きてきたのだろう。
千鶴はそれを撫でた。
次の手のために。




