第17章「魔王、ご本人」
夜明け前にミラが千鶴を起こしに来た。
彼女は新しい衣服を持っていた。
黒ではなく深い青色の長衣だった。
肩に銀の刺繍。
控えめだが格式のある装いだった。
「賢人様。これにお召し替えくださいませ。お母様――いえ魔王様より頂戴いたしました」
千鶴は驚いた。
魔王から自分のための衣服が届いている。
それは敵対者に対する扱いではなかった。
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
千鶴は服を着替えた。
長衣は思っていたより軽く動きやすかった。腰のあたりで紐で結ぶ簡素な作りだった。袖は広めで腕の動きを妨げなかった。
元の世界の正装ではないが正装の役割を果たす衣服だった。
ミラは千鶴を案内した。
城の中央塔へ向かう廊下は静かだった。
他の従者や兵士には会わなかった。
誰もいない時刻を選んだのだろう。
中央塔の最上階に魔王の私室があった。
扉は木製で装飾がほとんどなかった。
ミラが二度叩いた。
中から低い女性の声が応じた。
「お通ししてくれ」
扉が開いた。
部屋の中は思っていたよりも狭かった。
書斎のような造りだった。
壁の三方に書棚。中央に古い樫のテーブル。テーブルの上に積み上げられた本と紙束。窓際に椅子が二脚置かれていた。
窓辺の椅子の一脚に女性が座っていた。
彼女が魔王ハルディスだった。
千鶴は一目で彼女を理解した。
五十代前半。
灰色がかった金髪を首の後ろで一つに束ねている。
角があった。両側に小さく細い角。
顔つきは穏やかだった。年齢相応の皺が目尻と口元にある。
着ているのは黒い長衣だが千鶴のものより簡素だった。
手は荒れていた。労働者の手だった。
彼女の前に開かれた本が一冊と何かの帳簿のようなもの。
彼女は千鶴を見て立ち上がった。
「お招きしました賢人殿。こちらへどうぞ」
声に威圧感はなかった。
むしろ温かみさえあった。
千鶴は深く一礼した。
「篠原千鶴と申します」
「ハルディスです。座りなさい」
千鶴は向かいの椅子に座った。
ミラは静かに扉を閉めて去った。
二人きりになった。
ハルディスは千鶴を見つめた。
しばらく見つめてから小さく笑った。
「思っていたより細い人だね」
「申し訳ございません」
「謝ることはない。私が勝手にそう思っていただけだ。あんたの噂は色々と耳に入っていた。王国を立て直しつつあるとも聞いた。教会と対立しているとも聞いた。勇者を保護しているとも聞いた」
「噂が早うございますね」
「角持ちの情報網は強い」
ハルディスは小さく笑った。
彼女は窓の外を見た。
夜明けの空が薄く青み始めていた。
「賢人殿。私はあんたに会いたかった」
「光栄でございます」
「光栄ではない。私は五十年待っていた」
千鶴は瞬きをした。
「五十年」
「私が連合の長になったのは三十二の時だった。それ以前は孤児院で育った。父も母も知らない。育ての親は連合の前任の長だった。彼は私が長になる時に言った。『お前が次の長だ。お前は教会と話をする役目を負う』と。私はその役目を引き受けた」
ハルディスは窓辺に置かれていた本を閉じた。
古い革表紙の本だった。
「私は長になってから二十年間教会本部に手紙を書き続けた。話し合いの場を求めた。返事は一度も来なかった。手紙そのものが届いていなかったのかもしれない。届いていても破棄されたのかもしれない。私は二十年でその活動を諦めた」
「左様でございましたか」
「諦めた後私は連合の自治を強化することに集中した。子供を教育し医療を整え農地を広げた。結果として連合は三十年の間に三倍の規模になった。教会から見ればこれが〈魔王の脅威の増大〉と映ったのだろう。攻撃が始まった」
千鶴はメモを取らずに聞いていた。
今日は記録を取らないと決めていた。
彼女はハルディスの言葉を全身で受け止めていた。
「賢人殿」
「は」
「私はあんたに頼みたいことがある」
「お聞きします」
「あんたの仕事の流儀で――私の話を聞いてくれ。誰にも聞いてもらえなかった話だ」
千鶴は深く頷いた。
彼女はバインダーをテーブルに置いて開かなかった。
ペンも取らなかった。
ハルディスを見た。
「ハルディス様。失礼ですがあなたの主訴を伺います」
ハルディスは目を閉じた。
長く目を閉じていた。
目を開けた時彼女の瞳は湿っていた。
「対等に話を聞いてほしい。それだけだ」
千鶴はそれを書き取らなかった。
書き取らずに頷いた。
「他には」
「教会との戦争を止めたい」
「他には」
「連合の子供たちが安心して暮らせる世界を作りたい」
「他には」
ハルディスは長く沈黙した。
長い沈黙の後で彼女は小さく言った。
「私自身が……一度だけでいいから無条件に愛されたかった。子供の頃に」
千鶴は息を呑んだ。
書き取れなかった言葉だった。
書き取ってはいけない言葉だった。
千鶴は静かに言った。
「ハルディス様」
「ん」
「お話を伺いました。ありがとうございます」
ハルディスは深く息を吐いた。
「賢人殿。あんたは……不思議な人だ」
「左様でございますか」
「私の長い人生で誰一人として最後の主訴を聞いてくれた者はいなかった。皆が前の二つで満足した。前の二つは『公的な主訴』だ。最後のは『個人的な主訴』だ。誰も個人的な主訴を聞いてくれなかった」
「それは私の仕事ですので」
千鶴は静かに答えた。
ハルディスは小さく笑った。
笑いながら少しだけ涙を流した。
涙を流しながらも背筋は伸びていた。
彼女は強い人だった。
強い人ほど一度だけ甘えていい瞬間が必要だ。
今がその瞬間だった。
しばらく沈黙が続いた。
窓の外で夜が明け切った。
朝の光が部屋に差し込んだ。
光の中でハルディスは涙を拭いた。
彼女は千鶴を見た。
「賢人殿。提案がある」
「お聞きします」
「あんたを連合と王国の仲介役に任じたい。教会との交渉も含めて。あんたは双方を知っている。中立に立てる人間だ」
「光栄でございます。ですがいくつか条件がございます」
「申せ」
「一つ。私の同行者四名を解放してください。彼らは交渉の人質ではないと宣言してください」
「了解した」
「二つ。私が王国へ戻ることを許可してください。連合と王国の間を行き来する権限を与えてください」
「了解した」
「三つ。教会との交渉の場を私が設定する権限を与えてください。ハルディス様もご出席いただきたい」
ハルディスは少し驚いた顔をした。
「私が……教会の連中と同じ部屋にか」
「はい。これは現代的な交渉のあり方の必須条件です。当事者なしの交渉は意味がありません」
ハルディスは深く息を吐いた。
吐いてから頷いた。
「了解した」
千鶴は深く頭を下げた。
ハルディスも頭を下げた。
二人の女性は朝の光の中でしばらく頭を下げ合っていた。
頭を下げ合った後ハルディスはテーブルの上の帳簿を千鶴の前に滑らせた。
「これを見せたい」
千鶴は帳簿を開いた。
古い紙の束が綴じられていた。
最初の数枚は書き手の筆跡が違う。明らかに何代もの人物が書き継いできた帳簿だった。
〈連合への光輪教会襲撃記録〉
そう題されていた。
日付。被害集落の名前。死者数。傷者数。略奪された物資。
千鶴は数頁を捲った。
半世紀分の記録だった。
最初の頁は今から五十一年前。
〈月の終わりの日/教会騎士団五百名による〈ハロワド村〉襲撃/死者八十四名/傷者百二十名〉
千鶴は息を呑んだ。
彼女はその日付を見た。
神官ロディウスが「魔王の脅威」の予言を発したと言われている年と同じ年だった。
「ハルディス様」
「ん」
「この記録の最初の頁……五十一年前の事件は連合と教会の間の戦争の発端でしょうか」
ハルディスは静かに頷いた。
「あの襲撃の前まで連合と教会の間には平和に近い距離があった。緊張はあったが直接の戦闘はなかった。半世紀前のあの月にすべてが変わった」
「襲撃の理由は教会側から告知されておりましたか」
「されていない」
ハルディスは答えた。
「告知も警告も最後通牒もなかった。ただ突然来た。突然来てそのまま戦争状態になった」
千鶴はそれを書き取った。
今度は書き取った。
書き取らねばならない情報だった。
〈五十一年前/ハロワド村襲撃/告知なし/戦争の発端〉
千鶴は紙の隅にもう一行加えた。
〈ロディウス神官「魔王の脅威」予言と同年〉
彼女は顔を上げた。
「ハルディス様。教会内部に〈ロディウス〉という名の神官がいるとお聞きしましたか」
ハルディスは眉を寄せた。
「ロディウス……? 神官の名前は私は詳しくないが――」
「半世紀前の予言を発した人物と言われております」
「ああ」
ハルディスは思い出したように頷いた。
「その名前なら聞いたことがある。ただし――その予言が発せられたとされる時期に教会本部にロディウスという名の神官がいたかどうかは私の調査では確認できていない。我ら連合の情報網は教会内部までは届かない」
千鶴は深く頷いた。
仮説がさらに強まった。
ロディウスは教会内部の人物だが公式記録に残らない存在かもしれない。
不老長寿の存在。
千鶴はそれをメモした。
メモしてからもう一つ重要な質問を投げた。
「ハルディス様。失礼ですが――連合の中で〈不老の存在〉あるいは〈長寿の存在〉は実際にいらっしゃいますか」
ハルディスは少し考えた。
「我ら角持ちは普通の人間と同じ寿命だ。せいぜい七十年から八十年だ。不老の存在は連合内には知られていない」
「左様でございますか」
千鶴は紙の隅に小さく書いた。
〈不老の存在は教会側の特異現象の可能性〉
彼女はバインダーを閉じた。
「ハルディス様。本日は貴重なお話をありがとうございました。本日伺った内容を整理し王国に戻ってから対応を検討いたします」
「賢人殿」
「は」
「あんたに渡したい物がある」
ハルディスは立ち上がり書棚から一冊の本を取り出した。
古い革表紙の本だった。
彼女は本を千鶴の前に置いた。
「これは連合に伝わる古い聖典だ。〈創世の書〉と呼ばれている。光輪教会の聖典と同じ題名だが内容は異なる。あんたが持っていた方が役に立つかもしれない」
千鶴は本を受け取った。
手に重かった。
古い本特有の埃と乾いた革の匂いがした。
彼女は表紙を撫でた。
「ありがとうございます。大切にいたします」
「最後の節を読むがいい」
「は」
「最後の節に――あんたの仕事の言葉と同じ言葉が書かれている」
千鶴は息を呑んだ。
「主訴」
「左様」
ハルディスは頷いた。
「我らの聖典の最後の節に〈神は世界の主訴を聞き給うた〉という一文がある。光輪教会の聖典の最後の節と同じ文章だ。連合と教会の聖典は元は同じ書物だ。三百年前に分裂した」
千鶴は本を抱きしめた。
胸が冷たくなった。
冷たくなりながら頭の中で何かが繋がり始めた。
主訴という言葉は単なる業界用語ではない。
千鶴がこの世界に呼ばれた理由はその言葉と関係がある。
大司教セヴェールが千鶴を警戒したのもその言葉が理由だった。
そして〈ロディウス〉という不老の存在もおそらく――。
「ハルディス様」
「ん」
「もう一つ伺ってもよろしいですか」
「申せ」
「あなた方の聖典の中で――〈神〉とはどのような存在として描かれていますか」
ハルディスは少し考えた。
「我らの聖典の神は世界の主訴を聞いて応えた存在だ。世界を創造した存在ではない。世界の困りごとを聞いて整理した存在として描かれている。教会の聖典では〈神〉は世界の創造者として描かれているらしい。ここが大きな違いだ」
千鶴は本を強く抱きしめた。
〈神は世界の主訴を聞き給うた〉
その一文が彼女の頭の中で何度も反響した。
彼女がこの世界に呼ばれた理由が見え始めていた。
まだ全貌は見えなかった。
でも一つの輪郭が浮かび上がっていた。
彼女はゆっくりと頷いた。
「ハルディス様。本日のお話はすべて私の仕事に活かします」
「頼んだ」
ハルディスは深く頷いた。
二人はもう一度頭を下げ合った。
千鶴は古い聖典をバインダーの脇に挟んで部屋を出た。




