第15章「拉致と拘束」
黒翼城の正門は黒い鉄で出来ていた。
馬車は門を潜り中庭で止まった。
千鶴は降りた。
空気が違っていた。
城の空気は思っていたよりも生活感に満ちていた。中庭の隅で兵士たちが洗濯物を干していた。井戸の周りで料理人が大きな鍋を運んでいた。厩から馬を引き出している少年がいた。城というより小さな町の役場のような賑わいがあった。
黒い鎧の騎士団は規律正しかったが千鶴に対して粗野な扱いをしなかった。武器は取り上げられたがバインダーは依然として手元にあった。拓也の指示が徹底していた。
拓也は中庭で部下たちに何事か指示を出してから千鶴のところへ戻ってきた。
「篠原さん。城内の客間に案内する。あんたとパーティの四人は別々の部屋だ。互いの面会は俺の許可があれば許す」
「了解しました。拓也様。一つ確認してよろしいですか」
「ああ」
「客間と申されましたが――これは拘束ですか」
拓也は数秒沈黙した。
彼は中庭の石畳を見た。
「拘束だ。形式としては」
「了解しました。拘束であれば法的根拠を伺いたいのですが」
拓也の口元が微かに歪んだ。
「あんた本当に変わってねえな」
「これが私の仕事ですので」
「俺の権限で拘束する。理由は『敵性勢力の使者として捕縛』だ。手続き上はそうなる。ただし――」
彼は声を低めた。
「俺はあんたを傷つけるつもりはない。魔王に会わせるまでの一時的な保護だ」
「魔王様にお会いするのはいつになりますか」
「明後日だ。準備が要る」
「了解しました」
千鶴はメモを取った。
〈拘束日:本日/面会予定:明後日/拘束責任者:黒翼侯爵(黒沢拓也)〉
彼女は紙の隅に小さく〈契約形式:黒翼侯爵による一時保護〉と書いた。
書きながら千鶴は奇妙な感覚を覚えた。
拘束されているのに書類が書ける。
書類が書けるなら状況は管理できる。
管理できる状況は危機ではなかった。
彼女はそう自分に言い聞かせた。
客間は城の三階にあった。
石造りの部屋にしては暖かかった。
壁には織物が掛けられ床には毛皮のようなものが敷かれていた。中央にベッド。テーブル。椅子。窓には鉄格子が嵌っていた。鉄格子越しに城の中庭が見えた。
扉は外から鍵がかけられた。
千鶴はバインダーをテーブルに置いた。
外套を脱いだ。
部屋を一周した。
窓は開かない。鉄格子は太い。脱出は不可能だ。けれども危害を加えるための部屋ではなかった。
彼女は椅子に腰を下ろした。
深く息を吐いた。
ここまで来てしまった。
元の世界の事業所のデスクで倒れた夜から数えて――何日が経ったか。
四十数日。
その四十数日で千鶴は王国の助言官になり冒険者ギルドのFランクになり勇者パーティを編成し国王と面会し大司教と対立し――そして魔王軍に拉致された。
元の世界の千鶴がこれを聞いたら笑うだろう。
でも今ここに座っている千鶴は笑わなかった。
仕事として処理していた。
仕事として処理する以外に方法を知らなかった。
彼女はバインダーを開いた。
新しい紙を一枚取り出した。
〈黒翼城滞在期間中の作業計画〉と書いた。
第一段階――城内の現状把握(観察)
第二段階――拓也様への聞き取り継続
第三段階――魔王ハルディス様との面会と主訴の聴取
第四段階――勇者パーティ四名の安全確認と精神的フォロー
第五段階――王国側への連絡手段の確保
書きながら手が落ち着いた。
計画書は呪文だった。
書くだけで状況が秩序を取り戻した。
夕食は給仕の女性が運んできた。
二十代後半の女性で黒い制服を着ていた。
角があった。
頭の側面から左右に小さな角が一本ずつ伸びていた。
千鶴は驚かなかった。
驚かなかった自分に少し驚いた。
女性は無言で食事を並べた。スープ。パン。蒸した野菜。チーズ。一人前として十分な量だった。
千鶴は会釈した。
「ありがとうございます。お名前を伺ってもよろしいですか」
女性は手を止めた。
彼女は驚いた顔で千鶴を見た。
「私は……ミラと申します。賢人様」
「ミラ様。お食事をありがとうございます。一つお願いしてもよろしいですか」
「は」
「明日も同じ時間に食事を運んでくださる方であれば短くお話を伺いたいのです。お忙しい時に無理は申しません」
「お話……?」
「あなたの仕事のお話。城の中の様子。差し支えない範囲で結構です」
ミラは戸惑った顔をした。
「私のような者の話を……?」
「ええ」
千鶴は静かに答えた。
「私の仕事は人のお話を伺うことです。あなたのお話を伺いたいです」
ミラは数秒沈黙してから小さく頷いた。
「明日も……お運びします」
「ありがとうございます」
ミラは扉を閉めて去った。
千鶴は食事を食べた。
味は素朴だった。けれど温かかった。
城の中の食事は王宮のそれと比べて遥かに質素だったが温度は同じだった。
夜になって部屋の燭台に火が入れられた。
城の中庭から夜警の声がときおり聞こえた。
千鶴はバインダーを開いて今日の支援経過記録を書いた。
〈祝祭月四十六日/黒翼城に拘束/給仕ミラ様(角あり)と接触/明日継続聞き取り予定〉
書き終えてからもう一枚紙を取り出した。
その紙には何も書かれていなかった。
白いままの紙だった。
彼女はその紙にペンを走らせた。
「お母さんへ」
書いてからしばらく止まった。
書けなかった。
書けないまま彼女は紙を畳んでバインダーの内側に挟んだ。
書けない手紙が一通また増えた。
書けない手紙は彼女のバインダーの内側にいつも何通か挟まれていた。
元の世界の母に。
亡くなった父に。
幼い頃の自分に。
誰にも届かない手紙ばかりだった。
届かない手紙を書くことも仕事だった。
いつかそう言ったのは新人時代の千鶴だった。
あの千鶴はどこへ行ったのだろう。
今ここにいる千鶴はあの千鶴の続きなのだろうか。
窓の外で夜警の声がもう一度聞こえた。
千鶴は燭台の火を吹き消した。
暗闇の中でベッドに横たわった。
眠りは浅かった。
夜中に何度か目が覚めた。
目が覚めるたびに天井の暗がりを見つめた。
元の世界の自宅のアパートの天井とは違う天井だった。けれど人が眠るために作られた空間という意味では同じだった。
明け方近く一度だけ廊下を歩く足音が聞こえた。
誰かが千鶴の部屋の前で立ち止まった。
数秒間立ち止まってから去った。
足音は重かった。鎧の音はしなかった。だが一定の足取りだった。
拓也だろうかと千鶴は思った。
あるいは魔王の使いだろうかとも思った。
扉は開かなかった。
誰かが彼女の部屋の前で何かを置いていったわけでもなかった。
ただ立ち止まっただけだった。
千鶴はそれをメモした。
〈夜間侵入未遂(または見回り)/時刻:明け方/詳細不明〉
書いてから彼女はもう一度浅い眠りに落ちた。
翌朝ミラが朝食を運んできた。
パンとミルクと簡単な果物。
千鶴は前日の約束通り少しだけ話の時間を頼んだ。
ミラは扉を半分閉じてから千鶴の前に座った。
「賢人様。本当に……私のような者の話を聞いてくださるのですか」
「もちろんです」
千鶴はバインダーを開かなかった。
今日は記録を取らない。聞くだけにする。彼女の判断だった。記録を取られていると感じると人は本心を語らない。
「ミラ様。失礼ですがあなたは何という種族でいらっしゃいますか」
「角持ちと呼ばれております」
「角持ち」
「四代前まで〈魔人〉と呼ばれておりました。光輪教会が我らを〈魔〉に分類したからでございます。今は〈角持ち〉と呼ばれております」
千鶴は黙って聞いた。
「私たちは元々この大陸の北方に住む民族でございました。三百年前に光輪教会が大陸を統一する過程で〈異教徒〉として弾圧されました。生き残った者は北方の荒原に逃れここで自治を続けてまいりました」
「自治の組織は」
「魔王連合と申します。失礼な名前ですが教会から〈魔王〉と呼ばれて以来私たちが自ら名乗るようになりました」
「魔王ハルディス様は」
「我らの代表でございます。連合の長と申し上げるのが正確でございます。陛下とお呼びする者もいれば母様とお呼びする者もおります。私はお母様とお呼びしております」
「お母様」
「ハルディス様は孤児院を出られた後私たちの長になられました。今でも孤児たちの面倒をご自身でご覧になっておられます」
千鶴はその一言で多くのことを理解した。
〈魔王〉と呼ばれている人物は孤児院出身の女性で角持ちの種族の自治連合の長であり子供の世話を続けている――それは光輪教会の喧伝する〈世界を破壊する魔王〉のイメージとは正反対の人物像だった。
「ミラ様」
「は」
「あなた方の困りごとは何でしょうか。一番困っていることを教えていただけますか」
ミラは長く沈黙した。
彼女は窓の外を見た。
「教会との戦争を……止めたいのです。私たちは戦争を望んでおりません」
千鶴は深く頷いた。
頷きながら頭の中で素早く整理した。
戦争を望んでいないのに戦争状態にある。
主訴は「戦争を止めたい」。
真のニーズは「対等な交渉の場を持ちたい」だろう。
元の世界の家族介護の現場で似た構図を何度も見た。
息子が母親の介護をしているが息子は介護を続けたくない。けれど他に頼める家族がいない。介護を続けたいのではなく介護を続けるしかない。本当に欲しいのは「他の選択肢」。
角持ちたちも同じだった。
戦争を続けたいのではなく戦争を続けるしかない。本当に欲しいのは「対等な交渉の場」。
「ミラ様」
「は」
「ありがとうございます。あなたのお話は私の仕事に役立ちます」
ミラは目を伏せた。
「賢人様……私のような者でもお役に立てるのでしょうか」
「立っていらっしゃいます。心から感謝いたします」
ミラは小さく頷いた。
彼女は朝食の食器を片付けて部屋を出た。
扉が閉まる時に彼女がもう一度小さく頭を下げるのが見えた。
千鶴はバインダーを開いた。
昨日の作業計画の続きを書いた。
〈追記:ミラ様情報/角持ち民族/三百年前の弾圧/自治連合〈魔王連合〉/ハルディス様は孤児院出身〉
書きながら千鶴は確信を強めた。
この戦争は誰の主訴でもなかった。
誰も望んでいないのに続いている。
だとすれば誰がこの戦争から利益を得ているのか。
千鶴の頭の中で名前が浮かんだ。
ロディウス神官。
半世紀前に「魔王の予言」を捏造したと噂される人物。
千鶴はその名前を紙の隅に小さく書いた。
書いてから紙を裏返した。
今はまだ仮説だ。
仮説のままで動いてはいけない。
午後にもう一度足音が部屋の前に止まった。
今度は足音の主は扉を叩いた。
拓也だった。
扉を開けて入ってきた彼は鎧を脱いでいた。簡素な黒い上着と灰色のズボンに革のブーツ。武装していない姿は元の世界の彼に近かった。
「篠原さん」
「お疲れ様でございます」
「明日の朝に魔王と会わせる」
「了解しました」
「準備しといてくれ。あんたの仕事の流儀でな」
「了解しました」
拓也は椅子に座った。
千鶴の正面の椅子だった。
彼はテーブルの上に羊皮紙を一枚置いた。
〈魔王ハルディス様の経歴と現状〉と書かれていた。
拓也の手書きだった。
「俺が知る限りのハルディスの情報だ。アセスメントの参考にしてくれ」
千鶴は紙を取り上げた。
ざっと目を通した。
ハルディスの生年月日。出身。家族構成。経歴。健康状態。趣味。日々の習慣。
拓也は綿密に書いていた。
元の世界の彼が書いたとは思えないほど丁寧だった。
千鶴は顔を上げた。
「拓也様」
「ん」
「ありがとうございます。これは助かります」
「俺もケアマネの真似事をしてみた」
拓也は少し笑った。
「あんたが書類書いてるのを見てたら俺も書きたくなった。何か――こうやって書くと頭が落ち着くもんなんだな」
「左様でございます」
千鶴も少しだけ笑った。
書類は人を落ち着かせる。
書類は人を秩序の中に入れる。
元の世界では拓也は書類を書く人ではなかった。
でも今ここでは書類を書く人になっていた。
人は変わる。
千鶴はそれを目の前で見ていた。




