第14章「黒翼侯爵」
北方調査隊の準備は六日で整った。
馬車二台。護衛二十騎。物資二週間分。
千鶴と勇者パーティの四人は別々の馬車に分かれて乗った。
出発は朝の鐘と共にだった。
千鶴の馬車は王都を出てから三日北上した。
道は最初は石畳だったが二日目から土道になり三日目には轍の少ない原野道になった。風景が変わるたびに千鶴は窓の外を見つめた。麦畑。森。荒れた草原。廃村。地形の変化と共に空気の匂いも変わった。緑の匂いが消え土の匂いが濃くなり最後には硬い岩の匂いが鼻を刺した。
四日目の夕刻調査隊は最初の魔物の襲撃を受けた。
大型の狼に似た獣が三体。森の縁から一斉に飛び出してきた。
ロランド将軍から派遣された護衛隊長の指揮で兵たちは即座に陣形を組んだ。ライナスが馬車を飛び出し剣を抜いた。ジオも続いた。アンナが詠唱を始めた。リフィが風魔法を放った。
戦闘は短かった。
十分ほどで終わった。
獣の死体が三体。負傷者は兵が二人。軽傷だった。アンナの治癒魔法ですぐに塞がった。
千鶴は戦闘の間ずっと馬車の中で支援経過記録を書いていた。
戦闘終了後馬車を出てライナスとジオの様子を確認した。二人とも怪我はなかった。リフィが少しふらついていた。彼女の魔力が一度に放出されたからだ。
千鶴はリフィを馬車に戻し水を飲ませた。
「無理をされましたね」
「久しぶりに……魔法を使ったから」
「次回からは無理をなさらないでください。あなたの安全が最優先です」
リフィは小さく頷いた。
彼女の頬には微かに赤みが戻っていた。
不眠の影が薄くなっていた。
仕事は人を生かす。
千鶴はその確信を強めた。
五日目の朝隊は北方の関門を通過した。
関門の向こうから景色が変わった。
空が灰色がかっていた。
草が黒っぽかった。
風が乾いていた。
〈北方の暗き地〉に入った。
ロディウス神官が二十年前の予言で言及した地域だった。
地名としては〈ヴェルサ荒原〉と呼ばれている。
住人はほぼいない。点在する廃村。岩肌のむき出しの丘。乾いた風。
馬車が原野を進む間千鶴は窓の外をずっと見ていた。
ここに本当に魔王がいるのか。
ここで本当に何かが「立ち上がろうとしている」のか。
千鶴の目には何も見えなかった。
ただの荒原だった。
むしろ荒原が示しているのは別のことだった。
長い間人が住んでいない。徴税官が来ない。商人が来ない。だから荒れている。
原因は魔王ではなく単純な放置だった。
千鶴はそう感じた。
仮説がさらに強まった。
六日目の夕方調査隊は突然の襲撃を受けた。
今度は獣ではなく人間だった。
黒い鎧の騎士団。
数は五十騎以上。
千鶴の馬車を取り囲んだ。
護衛隊長が剣を抜いたが相手の数が圧倒的だった。
ライナスとジオが馬車を出て戦闘態勢に入ろうとした。
その時敵騎士団の中央から一人の騎乗の男が進み出た。
黒い鎧。黒い兜。黒い外套。
兜の下から低い声が響いた。
「無駄な抵抗はやめろ」
声に聞き覚えがあった。
千鶴の身体が一瞬硬直した。
元の世界で何度も聞いた声だった。
黒沢拓也の声だった。
拓也は兜を取った。
顔が現れた。
三十七歳の男の顔だった。
千鶴の知るあの顔だった。
拓也は千鶴を見た。
千鶴を見て――小さく首を傾げた。
彼は千鶴を覚えていなかった。
覚えていない顔だった。
「異界の賢人だな」
拓也は静かに言った。
「魔王軍黒翼侯爵が貴様らを引き取りに来た」
千鶴は馬車の窓辺で凍りついた。
拓也が彼女を「覚えていない」事実が彼女の中で何かを大きく揺らしていた。
彼女にとって拓也は人生最大のクレーマー家族だった。
拓也にとって彼女は替えのきく事業所の担当者の一人に過ぎなかった。
ズレ。
最大のズレが今ここにあった。
千鶴は深く息を吐いた。
彼女は馬車を降りた。
拓也の前に立った。
拓也の顔が歪んだ。
怪訝そうな目で千鶴を見た。
「貴様……どこかで会ったか」
「ご存知でしょうか」
千鶴は静かに答えた。
「私はあなたを存じ上げております」
拓也の眉が上がった。
千鶴は彼の目を真っ直ぐ見た。
「黒沢拓也様。あなたのお母様の介護支援専門員でございました。篠原千鶴と申します」
拓也の目が一瞬大きく見開かれた。
それから――彼は笑った。
乾いた笑いだった。
「あの……ケアマネか」
彼の声に微かな震えがあった。
「あんた……こっちの世界にもいたのか」
「召喚されました」
「俺と同じだな」
千鶴は頷いた。
拓也は兜を地面に投げ捨てた。
黒い鎧の下から疲れた中年男の顔が完全に露出した。
「篠原さん。あんたを連れて行く」
「同行します。ただし条件があります」
「条件……?」
「私の同行者四名と護衛二十名の安全を保障してください」
拓也は数秒沈黙してから笑った。
「あんた相変わらずだな。命の保証もない場面で条件出すのか」
「これが私の仕事ですので」
拓也は笑い続けた。
笑いながら彼は配下の騎士に指示を出した。
「全員捕縛するな。武装解除のみ。賢人の同行者と護衛は全員生かして連行する」
配下の騎士たちが動いた。
ライナスとジオは武器を取り上げられた。アンナとリフィは丁重に馬車から降ろされた。護衛隊長は降伏の姿勢を取った。
千鶴は両手をバインダーに置いていた。
バインダーは取り上げられなかった。
拓也の指示だった。
「賢人にはペンを持たせろ」
彼はそう命じた。
なぜそう命じたのかは千鶴にはわからなかった。
もしかすると拓也の中にも〈何か〉が残っているのかもしれなかった。
千鶴はそう思った。
黒翼侯爵の騎士団は調査隊全員を縄で縛らずに連行した。
馬車も置き去りにされなかった。
拓也の指示は徹底していた。
「丁重に運べ」と。
千鶴は新しい馬車に乗せられた。
元の馬車より広い。革張りの座席。床には絨毯。明らかに高位の人物のための馬車だった。
拓也は千鶴の馬車に同乗した。
二人きりだった。
他の四人は別の馬車に分けられて連行されていた。
馬車が走り始めると拓也は窓のカーテンを下ろした。
外の光が遮られた。
車内の灯火だけが二人を照らした。
拓也は千鶴を正面から見た。
「篠原さん」
「はい」
「いつ来た」
「四十数日前です」
「俺は……三年だ」
千鶴は瞬きをした。
元の世界の時間軸では拓也は千鶴より先に消えたわけではなかった。少なくとも千鶴が倒れた前夜の留守電に拓也のクレームがあった。彼は元の世界に確実に存在していた。
でもこの世界では三年前から侯爵をしている。
時間の流れが違うらしい。
千鶴はそれをメモしようとしてバインダーを開いた。
拓也が手を挙げた。
「書くな。今は」
「は」
「今は俺の話を聞いてくれ」
千鶴はペンを置いた。
拓也は深く息を吐いた。
「俺はあの夜パチンコ屋で店じまいしてアパートに帰った。階段の踊り場で目眩がして倒れた。気づいたらこっちの世界の修道院だった。修道院の連中は俺を『黒い翼を持つ転生者』と呼んだ。何のことかさっぱりわからなかった。けど身分のない俺にはそれを利用するしかなかった」
「お母様は」
千鶴は静かに尋ねた。
拓也の顔が一瞬硬直した。
「お袋……」
彼は窓の外を見ようとしてカーテンが下りていることに気づき視線を漂わせた。
「お袋は……あの後どうなった」
「私が倒れたのが祝祭月三日だと申し上げてもわからないですよね。元の世界の暦で言いますと――三月十日でございました。私はそのまま事業所で意識を失いました。後のことは知りません」
拓也は長い沈黙をした。
「俺はお袋の年金を食ってたな」
「左様でございました」
「お袋に会いてえ」
拓也の声が震えた。
千鶴は驚かなかった。
元の世界で千鶴が拓也をどう見ていたか――無責任な息子。母親の年金を食う寄生虫。彼女に毎週のように怒鳴り散らすクレーマー。
でも今ここに座っている拓也は十六歳のライナスと同じ顔をしていた。
母に会いたいと泣く子供の顔だった。
千鶴は深く息を吐いた。
元の世界では絶対に見せなかった顔を彼は今この瞬間に千鶴に見せていた。
なぜか。
千鶴は仮説を立てた。
拓也は元の世界で母親への愛情を完全に押し殺していた。「自分が苦労している」という物語の中でしか母親と関係を持てなかった。だから母親への愛情は怒りの形で千鶴にぶつけられていた。本当の主訴は隠されていた。
主訴と真のニーズのズレ。
拓也の場合のズレは特に深かった。
千鶴は静かに言った。
「拓也様」
「ん」
「あなたの真のニーズは何でしょうか」
拓也は千鶴を見た。
彼の目は赤かった。
「お袋に……愛されたかった」
「左様でございましたか」
「お袋は俺をいつもガキ扱いしてた。長男なのにいつまでも子供だってよ。俺は怒ってばっかりだった。でも怒ってる間ならお袋に構ってもらえた。俺はそうやって生きてた」
千鶴は黙って聞いた。
拓也は続けた。
「こっちの世界に来てから俺は強くなった。誰にも怒られない。誰にも子供扱いされない。でも――誰にも愛されもしない」
「左様でございますね」
「篠原さん」
「はい」
「俺は……何のために生きてんだろうな」
千鶴はバインダーを開いた。
今度は拓也は止めなかった。
千鶴は静かに書いた。
〈黒沢拓也/三十七/元世界からの転生者/真の主訴:母に愛されたかった/現在の問い:何のために生きるか〉
書きながら千鶴は気づいた。
拓也もまた利用者だった。
千鶴が出会う人間は全員が利用者だった。
彼女の仕事はそういう仕事だった。
拓也は窓の外を見ようとしてまたカーテンが下りていることを思い出した。
彼はカーテンを少し開けた。
夕陽が差し込んだ。
彼は夕陽を見た。
夕陽の中で彼の顔は四十代の中年男の顔に戻りつつあった。
「篠原さん」
「はい」
「魔王に会わせる」
千鶴は息を呑んだ。
「魔王様に」
「魔王に話を聞いてみろ。あんたの仕事の流儀でな」
「拓也様。あなたは魔王様のお側におられるのですか」
「侯爵だからな。当然側にいる」
「魔王様はどのようなお方でいらっしゃいますか」
拓也は少し笑った。
「会ってみればわかる。あんたが思ってるのとは違う」
千鶴は深く頷いた。
彼女は新しい紙を一枚取り出した。
〈面会予定:魔王ハルディス殿〉
書いてバインダーを閉じた。
拓也は車内の暗がりに身を沈めた。
千鶴は窓の外を見続けた。
馬車は二日二晩走り続けた。
途中で停車した時に千鶴は拓也の許可を得て他の四人の馬車の様子を見に行った。
ライナスもジオもアンナもリフィも丁重に扱われていた。食事も水も与えられていた。
拓也は約束を守っていた。
「丁重に運べ」という指示を厳格に履行していた。
元の世界の彼からは想像できない律儀さだった。
千鶴はそれを観察した。
拓也は元の世界で「自分は苦労している」という物語に縛られていた。その物語から外れた部分の彼は本来こういう人間だったのかもしれなかった。
主訴が変わると人は変わる。
千鶴の経験則だった。
元の世界で何度も見てきた光景だった。
馬車は最終日の夕刻〈黒翼城〉と呼ばれる城に到着した。
城は荒原の中央にあった。
黒い石で造られていた。
高い塔が四本そびえ各塔の頂には黒い旗が翻っていた。
城の周囲には集落があった。
集落には普通の人々が住んでいた。
子供が走り回り婦人が洗濯をし老人がベンチで日向ぼっこをしていた。
千鶴は窓から集落を見た。
拓也が静かに言った。
「ここは魔王軍の本拠地だ。けど見ての通り暮らしている連中はあんたの王国の連中と何も変わらん」
「左様ですね」
千鶴は窓を見続けた。
集落の中に教会のような建物があった。
光輪教会の十字でも円でもない別の意匠の紋章だった。
集落の人々はその建物の前を通る時必ず一礼していた。
千鶴はそれをメモした。




