第13章「主訴のズレ」
ガイウスから聖典の一節を聞いた翌朝。
千鶴は自室で資料を整理していた。
机の上には三冊のバインダー。
それぞれに別々の利用者群の記録が綴じられていた。
一冊目――〈アルディラ王国アセスメント〉。
二冊目――〈勇者パーティ・サービス計画書〉。
三冊目――〈個別利用者ファイル〉。マルタ宅レナさんの記録。
千鶴は三冊を順に読み返した。
読み返しながら気づいたことがあった。
すべての利用者に共通する構造があった。
〈表面の主訴〉と〈真のニーズ〉のズレ。
ライナス。表面の主訴は「逃げたい」。真のニーズは「自分のままでいたい」。
ジオ。表面の主訴は「父親から離れたい」。真のニーズは「父親に認められたい」。
アンナ。表面の主訴は「腰が痛い」。真のニーズは「役に立ちたい」。
リフィ。表面の主訴は「眠りたい」。真のニーズは「失敗を許されたい」。
陛下。表面の主訴は「決められない」。真のニーズは「妻を喪った悲しみを認めてほしい」。
ヴェルナー。表面の主訴は「政務が回らない」。真のニーズは「孤独に支えるのに疲れた」。
ロランド。表面の主訴は「兵が逃げる」。真のニーズは「軍人として誇りを取り戻したい」。
マルタ。表面の主訴は「母の徘徊を止めたい」。真のニーズは「母の最期を看取る覚悟ができていない」。
レナさん。表面の主訴は「夫を畑へ迎えに行く」。真のニーズは「夫の死を受け入れられない」。
千鶴はそれを一覧表にした。
書きながら背中に冷や汗が伝った。
すべての主訴と真のニーズの間にはズレがあった。
ズレの幅はそれぞれだったがズレないものはなかった。
千鶴は紙の余白に書いた。
〈主訴と真のニーズはなぜズレるのか〉
答えは元の世界で先輩から教わったとおりだった。
主訴は社会的に許容される形に整えられた言葉だ。
真のニーズは社会的に整えにくい何か――しばしば恐怖や悲しみや欠乏感――の核にある。
人は真のニーズを直接口にすることができない。
社会化された主訴の形に変換して語る。
ケアマネジャーはその変換を逆向きに辿り真のニーズを掘り当てる。
千鶴はその仕事を八年間続けてきた。
でも今気づいた。
もしかするとこの世界全体にも〈主訴〉と〈真のニーズ〉があるのではないか。
もしそうなら〈世界の主訴〉と〈世界の真のニーズ〉もズレているはずだ。
千鶴の手が止まった。
ペンの先がインク壺のすぐ上で宙に浮いていた。
昼に宰相府でヴェルナーと面会した時千鶴はその仮説を口にした。
ヴェルナーは静かに聞いた。
「閣下。アルディラ王国の現在の主訴は何でしょうか」
「魔王の脅威。隣国の侵略。財政の破綻。民の困窮」
「これらは公式の主訴でございます。ですがアルディラ王国の真のニーズはこれと違う可能性があります」
ヴェルナーは眉を寄せた。
「と申すと」
「私が今までお会いしてきた人々――陛下も閣下もロランド卿も大司教様も――皆さんそれぞれに表面の主訴と真のニーズのズレを抱えておられました。王国全体にも同じ構造があるかもしれません」
「では真のニーズとは何か」
「分かりません。それを調べるのが私の次の仕事と思います」
ヴェルナーは長く沈黙した。
「賢人殿。失礼ながら――あなたはアルディラ王国を一人の老人として診ようとしておられるな」
「左様でございます」
「治療方針はあるのか」
「まずは病歴の確認です。アルディラ王国はいつから今の状態に陥ったのか。原因は何か。それを遡る作業をしなければなりません」
ヴェルナーは静かに頷いた。
「私は宰相職に六年。財務の長官だった九年。それ以前から数えれば三十年。三十年の中で起きたことを順に話そう」
「お願いいたします」
千鶴はバインダーを開いた。
ヴェルナーは深く息を吸い語り始めた。
三十年前のアルディラ王国の様子。
二十五年前の繁栄期。
二十年前の魔王の予言。
予言を発したのは光輪教会の高位神官だったこと。
予言から段階的に始まった軍備強化と教会への上納の増額。
十五年前の隣国との関係悪化。
十年前の妃殿下の崩御と陛下の意思決定機能の低下。
五年前の財政危機。
現在に至る。
千鶴はメモを取り続けた。
メモを取りながら一つの点に目が止まった。
〈二十年前の魔王の予言〉
予言の内容は何だったのか。
予言を発した神官は誰だったのか。
ヴェルナーは記憶を辿った。
「予言の内容は……『北方の暗き地より魔王が立ち上がり五十年の後にアルディラ王国を呑み込む』というものだったと記憶しておる」
「予言を発した神官のお名前は」
「ロディウスと申された」
千鶴はその名を書き取った。
〈ロディウス/光輪教会高位神官/二十年前に魔王予言を発した人物〉
「ロディウス様は今もご健在ですか」
「亡くなったと聞いておる。十年ほど前に天寿を全うされたと」
「お年は」
「百歳近かったか。もう少し上だったか」
「天寿の確認は教会のどこにございますか」
「教会本部の墓所か。あるいは大司教座の記録に残っておるはずだ」
千鶴はメモに書いた。
〈確認事項:ロディウス神官の死亡記録/墓所〉
彼女はバインダーを閉じた。
「閣下。現時点で私は次の仮説を立てております。アルディラ王国の現在の状態は二十年前の予言を起点として段階的に作られたものです。予言の真偽を確認することが第一歩です」
「予言の真偽を確認するとは」
「予言が外れる可能性を視野に入れるということです」
ヴェルナーは目を見開いた。
「予言は神の意志である。外れることはない」
「閣下」
千鶴は静かに言った。
「私は元の世界で何度も『神様の予言』に近いものを目にしました。家族介護の現場で『この子は将来必ず家を継ぐべきだ』『母は施設に入れたら一週間で死ぬ』『私は夫より先に死ぬ運命だ』。すべて『当然の前提』として家族の中で動いていました。でも実際はその多くが外れました。前提は前提に過ぎません」
ヴェルナーは深く息を吐いた。
「あなたは……予言を疑うのか」
「疑うのではなく確認するのです」
千鶴の声は静かだった。
「ケアマネジャーの仕事はあらゆる前提を確認することから始まります」
ヴェルナーは長い沈黙の後静かに頷いた。
「了解した。ロディウス神官の記録を取り寄せよう」
「ありがとうございます」
千鶴は深く頭を下げた。
彼女は宰相府を出て自室に戻った。
帰り道で彼女は何度も足を止めた。
頭の中で何かが組み変わりつつあった。
主訴と真のニーズのズレ。
予言と現実のズレ。
もしこの二つが繋がっているとしたら――
千鶴は廊下の中ほどで深く息を吐いた。
胸の中で何かが冷たく研ぎ澄まされていく感覚があった。
仕事の感覚だった。
でも今度の仕事は今までで一番大きい。
王国一つを揺らすかもしれない仕事だった。
数日後ヴェルナーから報告書が届いた。
ロディウス神官の死亡記録の調査結果だった。
千鶴は報告書を読みながら指先が冷えていくのを感じた。
報告書にはこう書かれていた。
〈ロディウス神官の死亡記録は教会本部に存在せず墓所も特定できず。葬儀の記録もなし。最後の公的な記録は十二年前に教会本部内で目撃された記録のみ〉
千鶴はその一文を二度読んだ。
死亡記録がない。
葬儀の記録がない。
墓所がない。
それは死んでいないということと同義だった。
もちろん偶然のこともある。古い時代の記録は紛失しやすい。地方の墓所に埋葬された可能性もある。
でも――千鶴の中で警報が鳴っていた。
元の世界の介護現場で千鶴は何度か行政書類の不整合に出会った。書類の不整合は多くの場合「誰かが意図的に消したから」発生する。家族の中の誰かが認知症の母の通帳を勝手に動かした時。家族の中の誰かが介護放棄の事実を隠そうとした時。書類の不整合は告発のサインだった。
ロディウス神官の死亡記録の不在も同種のサインかもしれなかった。
千鶴は深く息を吐いた。
彼女は新しい紙を取り出した。
〈仮説〉と書いた。
〈ロディウス神官は今も生きている可能性が高い〉。
〈生きているならば二十年前の魔王予言の発令者として現在も何らかの形で関与している可能性がある〉。
〈その関与は王国の主訴と真のニーズのズレを意図的に維持することかもしれない〉。
書きながら千鶴の手が震えた。
ペンを握り直した。
仮説の最後に小さく書き加えた。
〈確認方法:ロディウス神官の生存を直接確認する〉
書いてバインダーを閉じた。
その夜千鶴は会議室で勇者パーティの四人と会った。
ライナス。ジオ。アンナ。リフィ。
四人とも同じ顔をしていた。
千鶴の話を聞き終えた後の四人の顔だった。
「皆様。私の仮説を伺っていただきありがとうございます。これからのパーティの活動方針を変える必要があります」
千鶴は紙を四人に見せた。
〈勇者パーティ・新方針案〉。
主目的。魔王討伐ではなく〈魔王の予言の起点〉を確認すること。
行動。北方の暗き地――かつてロディウス神官が予言で言及した地――へ向かう。
目標。ロディウス神官の生存確認および予言の真偽の確認。
千鶴は四人を見渡した。
「これは戦闘ではありません。調査です。皆様が魔王と戦うことを想定して結成されたパーティの本来の目的とは異なります。同意できない方は降りていただいても構いません」
四人はそれぞれ紙を読んだ。
ライナスが先に口を開いた。
「俺は……篠原さんの言うことを信じる。魔王と戦うのも調査するのも俺にとっては同じだ」
ジオが続いた。
「俺も行く」
アンナが頷いた。
「あたしも」
リフィが最後に小さく言った。
「私も……行きます」
千鶴は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。出発の準備を始めます。一週間後に王都を発つ予定です」
四人は静かに頷いた。
会議室の窓から夕方の光が差し込んでいた。
千鶴は議事録に書いた。
〈勇者パーティ全員の同意を得て北方調査を決定〉
書いてバインダーを閉じた。
彼女の中で次の章が始まっていた。
会議の後千鶴は王宮の中庭を一人で歩いた。
石畳に夕陽が斜めに落ちていた。
彼女は中庭の池の縁に腰を下ろした。
水面に自分の顔が映った。
元の世界で映していた顔と少し違っていた。
目の下の隈は薄くなっていた。けれど眉間に小さな皺ができていた。
仕事の皺だった。
千鶴は水面に手を伸ばして触れた。
水は冷たかった。
元の世界で月初の徹夜明けに洗面所で顔を洗った時の水と似た温度だった。
彼女は手を引いた。
水面に波紋が広がった。
波紋が縁まで広がって消えた。
千鶴は呟いた。
「世界の主訴」
誰にも聞かれない呟きだった。
でも空気がそれを聞いていた気がした。
彼女は立ち上がった。
夕陽がさらに傾いていた。
明日からの一週間は出発の準備に費やされる。
準備の合間にもう一度神官長ガイウスを訪ね予言の原文を確認する。さらに陛下の決定機能のリハビリのためのプログラムを宰相府に引き継ぐ。マルタ宅のレナさんの引き継ぎも必要だ。
仕事は山積みだった。
でも千鶴の足は軽かった。
彼女は中庭を出て自室へ戻った。
扉を閉めた瞬間にバインダーを抱きしめた。
仕事は彼女を生かしていた。
その夜千鶴は寝床に入る前にもう一度〈母に手紙を書く〉のメモを見た。
彼女は新しい白紙を取り出した。
〈お母さんへ〉と書いた。
今度は二行目が書けた。
〈遠い場所にいます。仕事をしています。元気です〉。
書けたのはそこまでだった。
でも昨日より一行多かった。
千鶴は紙を畳んだ。
明日また書こう。
明日も書こう。
窓の外の星はいつもの違う配置で光っていた。
千鶴はその下で目を閉じた。
明日からの一週間が始まろうとしていた。
仕事の続きの夜だった。
仕事だけが千鶴を眠りに導いた。
眠りは浅かった。けれども眠れた。眠れる夜は仕事ができる朝に繋がる。彼女が八年で覚えたことだった。




