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異世界ケアマネジメント計画書 〜ケアマネ・三十四歳、世界(ごりようしゃ)の主訴を伺います〜  作者: もしものべりすと


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第11章「王のアセスメント」

陛下は痩せていた。

 四十八歳の男の顔ではなかった。

 肌は灰色がかっていた。

 目の下に深い影があった。


 千鶴は職業上の眼差しでその顔を観察した。瞬時に複数の所見が頭の中を流れた。慢性的な睡眠不足。栄養状態の低下。日光不足。軽度のうつ症状の可能性。これらすべてが元の世界の高齢利用者の初回面接でよく見る所見と同じだった。

 陛下は静かに手を挙げた。

「腰を下ろしなさい」

 声には張りがなかった。

 千鶴は窓辺の椅子に座った。バインダーを膝に置いた。

 ヴェルナーが部屋の隅に控えた。同席はするが発言はしないという姿勢だった。千鶴はその位置取りを内心でありがたく思った。

「陛下。御前を汚し恐縮にございます。アルディラ王国宰相府助言官の篠原千鶴と申します。本日はお話を伺いに参りました」

 陛下の眉がわずかに動いた。

「お話を……」

「はい。陛下のお困りごと――お心の中で重くなっていらっしゃることがございましたら順を追ってお聞かせいただけますでしょうか」

 陛下は長く沈黙した。

 千鶴は急かさなかった。

 元の世界で何百回と繰り返した最初の数十秒だった。

 部屋の外で鳥が鳴いた。

 風が窓のカーテンを少し揺らした。

 陛下が口を開いた。

「賢人よ。わしは病人と言われておるか」

「申し上げにくいことですが――宰相閣下より病とお聞きいたしました。心の病であると」

 陛下は乾いた笑いを漏らした。

「そうか。心の病か」

「失礼な物言いをいたしました」

「いや」

 陛下は小さく首を横に振った。

「正しい言い方であろう。わしは何も決められぬ」

「決められない」

 千鶴は復唱した。

 復唱しながらバインダーを開いた。

「決められぬ」

「いつ頃からでございますか」

「妻が……死んでからである」

 千鶴はペンを止めた。

 止めて陛下の目を見た。

 陛下は窓のほうを向いていた。窓の外の朝の光に目を細めていた。

「十年になる。妻は産後の肥立ちが悪く徐々に弱り三年ほどで世を去った。わしは妻と相談せねば何も決められぬ性分だった。彼女は文官の家の娘でな。政務の話を聞かせるとよい意見をくれた。わしの判断はほとんど彼女の意見の追認だった」

「左様でございましたか」

「妻が死んでからわしは独りで決めることが恐ろしくなった。最初は些細な決定だ。庭師の人事。次は領地の徴税率の調整。やがて軍事も外交もすべて――わしは決められず宰相に丸投げするようになった」

 ヴェルナーが部屋の隅で目を伏せた。

 彼はこの話を初めて聞くわけではないらしい。けれど初めて陛下が他人にこれを語る場面に立ち会っている。彼の沈黙にはそういう重さがあった。

 千鶴はメモを取った。

 〈意思決定機能不全の発症時期:妃殿下の死別から〉

 〈背景:意思決定の伴走者の喪失〉

 〈現状:宰相への決定権の事実上の委譲〉

 彼女は紙の上で点をつないだ。

 元の世界でこれと同じ構造の利用者を見たことがあった。配偶者を失った後一切の決定ができなくなった老人。彼の場合は施設入所もデイサービス利用も子供たちが代わりに決めた。本人の主訴は「自分で決めたい」だったが家族は「お父さんはもう決められない」と決めつけていた。千鶴はその利用者に長い時間をかけて伴走しもう一度小さな決定から始めてもらった。

「陛下」

「は」

「陛下が決められないのは陛下のご病ではございません。お一人で決めるという経験を十年積んでおられないからでございます。経験の不足は病ではございません」

 陛下が振り返った。

 彼の目に何かが揺れた。

 怒りでも反発でもなかった。

 戸惑いだった。

「経験の不足」

「左様でございます。お一人で決めるという経験を十年積めなかった。妃殿下を喪われた直後に少しずつそれを積み直す必要があったのですが――陛下のご周囲はそれを許す余裕がなかったのではございませんか」

 ヴェルナーが小さく身じろぎした。

 千鶴は彼を見ない。

 陛下だけを見ていた。

 陛下は小さく頷いた。

「妻を喪った直後辺境で叛乱があった。宰相と将軍がその場で対応し叛乱を鎮めた。わしは決定の場におらなんだ。次の月にも別の事案があった。次の月にも。気づけばわしは決定の場から外されていた」

「陛下のご家臣の方々はおそらく善意で陛下を守ろうとされたのでございましょう」

「うむ」

「ですが結果としてそれは陛下の決定する力を奪っていったのでございます」

 千鶴は静かに言った。

 ヴェルナーが息を呑む音が聞こえた気がした。

 陛下は千鶴の言葉を反芻するように口の中で繰り返した。

「奪った……」

「悪意ではございません。介護の世界ではこれを〈過剰介護〉と呼びます。本人の能力を尊重せず家族や支援者が代わりに決めてしまうことで本人の力が削られていく現象です。元の世界でよく見た光景でございます」

「過剰介護」

 陛下は言葉を口にした。

「奇妙な言葉だな」

「奇妙な言葉ですが本質を捉えていると私は思います」

 陛下は少し笑った。

 久しぶりに笑ったような笑顔だった。

 千鶴は紙を一枚差し出した。

「陛下。一案ご提案いたします。今日この場から小さな決定を陛下お一人でしていただきたいのです。たとえば――」

 千鶴は窓の外を見た。

「あちらの庭の薔薇の手入れをどなたに任せるか」

「庭師がやっておる」

「その庭師の名をご存じでしょうか」

 陛下は数秒沈黙した。

「ホレーシオ……だったか。いやベンジャミンか」

「お確かめになり陛下から直接労いのお言葉をかけていただきたいのです。これが今日の最初の決定でございます」

 陛下の眉が動いた。

「労いの言葉」

「決定とはこういう小さなことから始まります。徴税率や軍事ではなく庭師の名前から。陛下の感謝のお言葉は陛下にしかかけられません。それをお任せできる方は他にはおられません」

 陛下は長い沈黙の後静かに頷いた。

「やってみる」

 千鶴は深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 彼女は紙の上に〈本日の決定事項:庭師への声かけ〉と書いた。

 書いて陛下に見せた。

 陛下は紙を見て小さく笑った。

「これがケアプランというものか」

「左様でございます」

「ヴェルナー」

 陛下は宰相を呼んだ。

 ヴェルナーが進み出た。

「は」

「賢人を信じる。今後の宰相府の動きにつき賢人の助言を最大限尊重するように」

 ヴェルナーが膝をついた。

「御意」

 千鶴は静かに息を吐いた。

 陛下が一つの決定を下した瞬間だった。

 宰相府が公式に千鶴の助言を尊重する旨を陛下が発令した瞬間でもあった。

 千鶴はもう一度深く頭を下げた。

 陛下の私室を出る時彼女の足はわずかに震えていた。

 張り詰めていたものが緩んだのだ。

 仕事は前進した。

 まだ始まりに過ぎなかった。


 部屋の外に出てしばらくすると千鶴は廊下の壁に手を突いた。

 膝が震えていた。

 冷や汗が背中を伝った。

 集中力を切らした瞬間に身体に疲労が一気に追いついてきた。

 近衛兵の一人が心配そうに千鶴を見た。

「賢人様。お加減が」

「大丈夫でございます。少し休みます」

 千鶴は壁に背を預けて深呼吸を繰り返した。

 胸の中で心臓が大きく跳ねていた。

 元の世界で初めて主任ケアマネとして大きな会議を仕切った日のことを思い出した。あの時も千鶴は終わった直後に控え室の壁に手を突いて深呼吸した。

 仕事の重さは異世界に来ても変わらない。

 ヴェルナーが部屋から出てきて千鶴を見つけた。

 彼は無言で千鶴の隣に立った。

 しばらく沈黙が続いた。

 ヴェルナーが小さく言った。

「賢人殿。あなたは陛下に……奇跡を起こされた」

「奇跡ではございません。陛下がご自身でお決めになっただけでございます」

「あなたが伴走されたからである」

 千鶴は壁から手を離した。

「これからが本番でございます。庭師への声かけが今日の決定。明日は別の小さな決定。一つずつ積み重ねます。半年後にはもう少し大きな決定もしていただけるようになるでしょう」

「半年後」

「はい。意思決定機能の回復は時間がかかります。脳の機能訓練と同じです。私はそのプログラムを設計いたします」

 ヴェルナーは静かに頷いた。

 彼は千鶴の方へ向き直った。

「賢人殿。一つお願いがある」

「はい」

「陛下の伴走者を……あなたに引き受けていただきたい」

 千鶴は頷いた。

「すでに引き受けておるつもりでございます」

 ヴェルナーは深く頭を下げた。

 宰相が異界の助言官に頭を下げる場面を近衛兵が黙って見ていた。


 その日の昼ヴェルナーから正式な辞令が出た。

 〈賢人篠原千鶴殿を陛下付き相談官として任命する〉。

 千鶴の身分が一段階上がった。

 助言官から陛下付き相談官へ。

 肩書きが増えると仕事も増える。

 千鶴は淡々と受け取って机の引き出しに辞令をしまった。

 肩書きで仕事の質が変わるわけではないことを彼女は知っていた。

 仕事の質を変えるのは相手と向き合う時間の長さだった。

 その日の夕刻リフィの王宮医務室への移送が完了した。

 教会本部からは形ばかりの抗議文が届いたが強硬な動きはなかった。覚書の形式が機能していた。

 ライナスとアンナとジオを千鶴は王宮の会議室に呼びリフィの保護を伝えた。

 ライナスが立ち上がりかけたが千鶴に制された。

「面会は明日です。今日はリフィさんを休ませます。あなたが今夜会いに行くと彼女が興奮してしまいます」

「俺……」

「明日の朝会いに行きましょう。私も同行します」

 ライナスは唇を噛んで頷いた。

 アンナが彼の肩にそっと手を置いた。

 ジオが小さく頷いた。

 パーティの四人が同じ屋根の下に揃った夜だった。

 まだ顔を合わせていない四人だった。

 でも明日には会える。

 千鶴は議事録に〈勇者パーティ全員王宮内に集合(リフィのみ別棟療養中)〉と書いた。

 書いてバインダーを閉じた。

 明日からまた新しい仕事が始まる。

 千鶴は深く息を吐いた。


 深夜千鶴は自室の机に向かいその日の支援経過記録を書いていた。

 元の世界の介護保険書類のフォーマットそのままだった。日付。時刻。場所。対応者。経過。所感。

 〈陛下面会/私室/本人と同席ヴェルナー宰相/意思決定機能の回復に向けた小プログラム合意/本日の決定事項:庭師への声かけ/所感:半年単位での回復が見込める〉

 書きながら千鶴は奇妙な感慨を覚えた。

 元の世界では一日に十件以上の支援経過記録を書いた。今日はたった一件。一件の利用者に丸ごと一日を費やした。

 これがこの世界での仕事のリズムなのだろうか。

 それとも一時的なものか。

 いずれにせよ千鶴にはやることが山積みだった。

 書きかけの紙を丁寧に畳んでバインダーに収めた。

 彼女は窓辺に近寄った。

 夜の王都の灯りが点々と見えた。

 元の世界の夜景には及ばない暗さだった。

 でもその暗さの中で確実に誰かが生きていた。

 誰かが眠っていた。

 誰かが祈っていた。

 誰かが千鶴の作るケアプランを必要としていた。

 千鶴は静かに微笑んだ。

 仕事の終わりの微笑みだった。


 眠る前にもう一度バインダーを開いた。

 〈母に手紙を書く〉と書いた一行が目に留まった。

 千鶴はペンを取った。

 白紙を一枚開いた。

 〈お母さんへ〉と書いた。

 その先が書けなかった。

 書けなかったが書こうとしている自分を彼女は許した。

 それで今夜は十分だった。

 彼女は紙を伏せて燭台の火を吹き消した。

 窓の外で梟が鳴いた。

 元の世界では聞かなかった鳥の声がいつしか千鶴の耳に馴染んでいた。


 窓の外の街灯りが一つ二つと消えていった。

 夜が深くなっていた。

 千鶴は布団の中で目を閉じた。

 今夜は眠れそうな気がした。

 明日は四人がついに揃う日だった。


 四人が揃う日。

 ケアマネジャーの仕事はそこからが本番だった。

 眠る直前千鶴はそう思った。


 彼女は深い眠りに落ちていった。

 久しぶりに夢を見ない眠りだった。


 夢のない夜。

 明日への準備の夜だった。

 窓の外で梟が一度だけ短く鳴いた。彼女はそれを覚えていなかった。深い眠りはすべての音を吸い込んでいた。

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