第10章「王都への道」
大司教との面会が決裂した翌朝。
千鶴は宰相ヴェルナーに正式な面会を求めた。
差し出した書類は二枚。
一枚は〈面会記録〉。一枚は〈緊急要請書〉。
ヴェルナーは緊急要請書を黙って読んだ。
書面の主旨は単純だった。
〈アルディラ王国国王アルフレッド三世陛下との直接面会を希望する〉。
千鶴の名で署名されていた。
ヴェルナーは紙を机に置いて深く息を吐いた。
「賢人殿。お聞きいただきたい」
「はい」
「陛下は……ご病気である」
「存じ上げております」
「ご病気と申し上げたのは身体ではない。心である」
千鶴は頷いた。
彼女はそれを最初の夜から察していた。決断不能。意思決定機能不全。家族介護の現場で何度も見た状態だった。中年の息子が老父の年金管理を完全に放棄してしまい何の判断もできなくなる事例。あれと同じ匂いがした。
「閣下」
「は」
「ご病気の方とお会いするのは私の本業でございます」
ヴェルナーは少し笑った。苦笑と感嘆の中間のような笑みだった。
「あなたの本業を疑ってはおらん。だが宮廷には派閥がある。陛下にお目通り願う段取りは私一人では決められぬ」
「派閥のお話を伺ってもよろしいですか」
ヴェルナーは少し躊躇したがやがて頷いた。
彼は紙を一枚取り出して図を描き始めた。中央に〈王〉。その下に三つの派閥。
一つ目――〈親教会派〉。北方伯爵テオドール家を筆頭。約三割の貴族が属する。
二つ目――〈財務改革派〉。ヴェルナー自身を中心とする。約三割。
三つ目――〈軍事優先派〉。将軍ロランドを支持する一派。約二割。
残り二割は中立または日和見。
「親教会派は大司教と通じておる。あなたを王にお目通しすることに反対するであろう。財務改革派は私の責任において推し進められる。軍事優先派はロランド卿次第である」
「将軍卿は何と」
「あなたを支持されるはずだ。だが派閥としての動員力は限られておる」
千鶴はメモを取った。
元の世界の介護保険の運営協議会と似た構造だった。各派閥の利害を整理し合意点を見つけるのは交渉の基本だった。
「閣下。一案ご提示いたします。陛下への面会を公式行事として位置づけるのではなく非公式の私的会見として設定していただきたいのです」
「私的会見」
「政治色を最小化します。私は助言官という立場ですので私的に陛下のご様子を伺いに参るという形にいたします。これなら親教会派からの反発を抑えられます」
ヴェルナーは長く考えてから頷いた。
「やってみよう。三日後の夜陛下の私室にお招きする手配をする」
「ありがとうございます」
千鶴は深く頭を下げた。
その三日の間に千鶴は王都の中を細かく動き回った。
王宮の医務室の責任者と非公式に会いリフィの療養に協力できるか確認した。医務室の主任は穏やかな初老の男で「教会から正式な引き渡しがあれば全面的に協力する」と約束した。
次に冒険者ギルドの主任に会い勇者パーティを公式の登録チームとする手続きを始めた。三人だけのチームでも登録できる。リフィが加わったら正式に四人チームとして再登録する。これは教会を回避してチームの公的な存在を確立する手続きだった。
さらに千鶴は南区のマルタを訪ねた。レナさんの状態を確認した。レナさんは少しずつ落ち着いていた。マルタ自身も眠れる夜が増えたと泣きながら話した。千鶴はもう一つの提案をした。「お母様の昼間のお預かりを始めます。デイサービスに相当する場所を作る計画です。いずれご利用いただけるようにいたします」。マルタは何度もありがとうと繰り返した。
千鶴はマルタの家を出てから歩きながら考えた。
王国規模のサービスと個別のサービスを並行して立ち上げるしかない。
元の世界では地域包括ケアシステムの構築には十年以上かかった。
でも千鶴にはそんな時間はなかった。
六ヶ月の暫定契約。
その間に基盤を作らねばならない。
三日目の夕刻。
千鶴は宰相府で最後の準備をしていた。
その時カリス・ヴェレが青い顔で部屋に駆け込んできた。
「賢人様。大変でございます」
「どうされました」
「教会本部の療養室から……リフィ殿が消えました」
千鶴の手が止まった。
「消えた」
「本日午後の点呼で確認されたとのことでございます。脱走か拉致か判別できておりません」
千鶴は深く息を吐いた。
悪いほうへ転んだ可能性と良いほうへ転んだ可能性が同時に頭をよぎった。
悪いほう――リフィが教会の手で別の場所へ移送された。
良いほう――リフィが自力で脱走した。
どちらにせよ千鶴は動かねばならない。
「カリス様。冒険者ギルドにすぐに連絡してください。Fランクの依頼として『若い女性の所在確認』を出します。報酬は私が個人で負担します」
「了解いたしました」
カリスは即座に部屋を出た。
千鶴はバインダーを抱え自室に戻った。
その夜千鶴の部屋の窓を叩く音がした。
千鶴は窓を開けた。
外には誰もいなかった。
しかし足元の屋根の影に何かが動いた。
千鶴は息を呑んだ。
外套を被った小柄な人影が屋根の縁にうずくまっていた。
顔だけが千鶴を見上げていた。
黒髪。痩せた頬。死人のような目。
リフィだった。
「お入りください」
千鶴は手を差し伸べた。
リフィは細い指で千鶴の手を掴み窓を乗り越えて部屋に入った。彼女は寒さで震えていた。教会本部の薄い夜着のまま外套を一枚羽織っただけの格好だった。
千鶴はすぐに自分の毛布を彼女の肩にかけた。
「お一人で来られたのですか」
リフィは小さく頷いた。
「療養室の窓を……夜間の魔法の練習と称して開けさせて……それから飛んだ」
「飛んだ」
「私は風魔法が得意なんだ。少しなら浮かべる」
千鶴は顔色を変えなかったが内心では驚いていた。教会本部から千鶴の自室まで魔法で飛んだ十六歳の少女。普通の脱走ではなかった。
「お疲れでしょう。お湯を用意します。お茶を飲みましょう」
千鶴は壁の鈴を鳴らした。夜勤の侍女が現れた。千鶴は侍女に温かい湯と簡単な食事を頼んだ。侍女は何も訊かずに頷いて去った。
リフィは椅子に腰を下ろした。
彼女は両手で毛布の端を握りしめていた。
「篠原さん。あなたを頼って来た。間違ってないかな」
「間違っておりません」
千鶴は静かに答えた。
「あなたを保護します。これからの段取りは私が組みます。あなたは今夜は休んでください」
「眠れない」
「眠れなくても結構です。ただ横になってください。今夜の私の仕事はあなたが安全に過ごせるよう環境を整えることです」
リフィの目に涙が浮かんだ。
彼女は涙を拭わなかった。
千鶴は侍女が運んできた湯と食事を彼女の前に置いた。
リフィは手をつけなかった。
でも湯気を見つめていた。
その表情は子供のものに戻りつつあった。
千鶴は自分の机に戻り新しい紙を広げた。
〈リフィ・テラス/十六/魔法使い/本日深夜千鶴宅にて保護〉
書きながら千鶴は思った。
計画は崩れた。
崩れたが新しい計画を書けばいい。
新しい計画を書くのが千鶴の仕事だった。
彼女の手は震えていなかった。
深夜まで千鶴は計画を組み直した。
リフィの脱走は教会との関係を一気に緊張させる。明朝にも教会本部から〈逃亡者の引き渡し〉を求める使者が宰相府に来るだろう。それまでに王国側の対応方針を固めておかねばならない。
最良のシナリオはこうだった。
今夜のうちにリフィを王宮医務室の管理下に正式に移す。教会の主張する〈療養目的の保護〉を維持しつつ場所を王宮に変える。リフィの安全を担保しながら教会の顔も最低限立てる形を作る。
千鶴は一気に書類を仕上げた。
〈リフィ・テラス殿の身柄移送に関する覚書〉。
主旨。当該人物の療養環境を改善するため王宮医務室にて治療を継続する旨を教会本部に通告する。教会側の医師の同行を妨げない。当該人物の身分は教会所属のまま維持する。
書きながら千鶴は息を吐いた。
元の世界の介護施設の入所申込書とよく似た書式だった。形式は人を守る。形式があるからこそ感情の対立を和らげられる。
書き終えてから千鶴はリフィを見た。
彼女は椅子の上で半分眠りかけていた。
千鶴は侍女を呼びリフィを別の客室へ運ぶ手配をした。客室には武装した護衛を二人配置するよう指示した。これは宰相府の権限で出せる程度の命令だった。
リフィが客室に運ばれた後千鶴は宰相府へ走った。
深夜の宰相府には当直の文官が一人だけいた。カリスだった。
「賢人様」
カリスは千鶴を見て立ち上がった。
「リフィ殿が……」
「私の部屋にいらっしゃいました。今は別室で休んでおられます」
カリスの顔が緩んだ。
「ご無事で」
「ご無事です。ただし状況は緊急です。閣下に至急ご面会を」
「閣下は私邸でお休み中です」
「起こしてください」
カリスは即座に伝令を走らせた。
四半時の後ヴェルナーが私服のまま宰相府に到着した。彼は事情を聞いて顔色を変えた。
「賢人殿。あなたという方は」
「閣下。覚書をご覧ください」
千鶴は書類を差し出した。
ヴェルナーは読んだ。読み終えてから天井を見上げた。
「これでよい。これしかなかろう」
「明朝までに教会本部へ通告してください。先方の使者が来る前に我々から動く必要があります」
「了解した」
ヴェルナーは即座に書記を呼びつけた。
千鶴は宰相府の控えの間で夜が明けるのを待った。
窓の外で星が消えていった。
夜明けの空の色が広がっていった。
千鶴は椅子に座ったまま膝の上のバインダーを抱きしめていた。
眠っていなかった。
眠れる気もしなかった。
でも頭は冷たく澄んでいた。
仕事の朝だった。
翌朝陛下の私的会見が予定されていた。
千鶴はその予定を変更しなかった。
むしろ強行することにした。
リフィの保護と陛下の面会を同じ日に動かすことで宮廷内の動揺を一気に超える賭けだった。
ヴェルナーは反対しなかった。
彼は千鶴の判断を信じることにしたらしかった。
千鶴は自室に戻り少しだけ仮眠を取った。
仮眠の前にバインダーから一枚の紙を取り出した。
〈陛下面会のためのアセスメント想定問答集〉。
彼女は紙の余白に最後の一行を書き加えた。
〈相手は王ではない。一人の利用者として接する〉
書いて紙を畳んだ。
仕事の準備が整った。
仮眠から目覚めた時窓の外には朝の光が満ちていた。
千鶴は身支度を整え自室を出た。
廊下を歩く間に何人かの貴族とすれ違った。彼らは千鶴を見るとあからさまに視線を逸らした。
既に噂は広がっているのだろう。
異界の賢人が教会の療養者を私室に匿った――そんな噂が。
千鶴は気にしなかった。
気にしている時間がなかった。
彼女は王宮の中庭を横切り南棟へと向かった。陛下の私室は南棟の最上階にあった。階段を上る途中で千鶴はもう一度自分のバインダーを胸に押し当てた。
ペンと紙だけが武器だった。
ペンと紙だけで王の決断不能を解きほぐす。
それが今日の仕事だった。
陛下の私室の前には近衛兵が二人立っていた。
兵士の一人が千鶴を見て微かに眉を寄せた。
「お通しせよ」
扉の内側から低い男の声が応じた。
ヴェルナーの声だった。
彼が先回りして待っていてくれていた。
兵士は脇に下がり扉を開けた。
千鶴は深く一礼してから足を踏み入れた。
部屋は思ったより質素だった。
大きな窓から朝の光が差し込み机の上の銀のカップを輝かせていた。
窓辺に背を向けて一人の男が座っていた。
ガウンの上から薄い肩掛けを羽織っただけの姿だった。
彼が千鶴を振り返った。
四十八歳の王の顔だった。
千鶴はもう一度深く頭を下げた。
陛下が小さく頷いた。
次の章――王のアセスメントが始まろうとしていた。
千鶴の頭の中ではすでに最初の問いが組み上がっていた。陛下のお名前を改めて伺うところから。続けてご年齢を。次にお体の調子を。最後にお困りごとを。順序は仕事の順序だった。八年で身につけた順序だった。彼女は順序を握ったままお部屋の奥へ進んだ。




