第13話 封鎖壁下流調査開始
編集翌朝、私は日の出前に北の溢水路へ着いた。封鎖壁の前には、昨日レオと運び込んだ杭、麻縄、測り棒、それから水を入れた二つの木筒を並べてある。木筒は細い革管でつながれており、離れた場所の高低差を比べるための道具だ。城の測量器具ほど精密ではないが、今ある材料でも傾きは十分に読める。「ずいぶん本格的だな」レオが杭を肩に担ぎながら言った。彼の後ろには、畑の水番をしている和田さんと、その姪のみずきがいる。みずきは十二歳で、普段から水桶の数や畑へ流す時間を帳面につけているらしい。今日は数字を記録する役を買って出てくれた。さらに少し離れた場所には、ダレスを含む十人ほどの村人が集まっていた。地下水脈が見つかり、壊れていた調整板にも動く可能性があると分かってから、皆の顔つきが変わっている。期待のこもった視線を受け、私は少し身が引き締まった。「まず封鎖壁から下流へ、十歩ごとに杭を打ちます。レオは麻縄を張ってください。和田さんは水路幅、みずきは杭の番号と測った値を記録してもらえますか」「任せて」「一番から書けばいいんだね?」「そう。数字を聞き間違えたら、遠慮なく聞き返して」みずきが大きくうなずく。私は最初の杭のそばに木筒を置き、もう一つをレオに持たせた。革管の中の水面が落ち着くのを待ち、測り棒の目盛りを読む。「二番、三寸低い」「二番、三寸……」みずきが炭筆を走らせた。三番はさらに二寸、四番は一寸半。水路は緩やかだが、確実に北へ下っている。和田さんは測り棒を水路の左右へ当て、幅を読み上げた。「一番は四尺、二番は四尺三寸。三番から少し狭くなって、三尺八寸です」「石積みが内側へ崩れています。狭い場所は目印をつけておきましょう。水を流す前に補強が必要です」レオが崩れた石を持ち上げると、その下から、指の幅ほどの刻みが三本現れた。私は土を払い、鑑定を向ける。――水位標。平常水位、第一刻。増水警戒、第二刻。緊急排水、第三刻。「昔の人も、ここで水位を見ていたようです」みずきがしゃがみ込み、刻みを帳面に写した。「これも書いておく。水がどこまで来たか比べられるから」「助かります。今日の試験では第一刻を越えないようにします」作業の意味を理解したからか、見守っていた村人たちのざわめきが少し収まった。ところが六番の杭で、水面の差がほとんどなくなった。私はしゃがみ込み、乾いた土を指で崩した。表面の下から、細かな砂と黒い泥が層になって現れる。「ここだけ土が盛り上がっているな」レオが麻縄を見下ろした。「長い間に土砂が溜まって、水路の底が浅くなったんです。このまま調整板を開けても、ここで水が滞ります」「なら、ここを掘れば流れるのか?」村人の一人が身を乗り出した。「それだけでは足りません。先に封鎖壁の高さと、調整板がどれだけ開くかを確かめます」封鎖壁へ戻り、私は苔を払いながら石組みに触れた。意識を集中すると、表面の汚れとは別に、石の組み方と内部の役割が輪郭となって浮かぶ。――旧灰野水利網・北部越流堰。
――用途、水位超過時の排水および西耕地への流量調整。
――調整板、全四段。現在位置、閉鎖。案内溝に砂礫堆積。
――封鎖壁の上端まで、水位差二尺一寸。昨日は汚れに隠れて読み切れなかった情報だ。私は板の脇にある四つの切り欠きを指でなぞった。「この板は一気に引き上げるものではありません。四段階で水量を調整できます」「そんな都合のいい話があるか」ダレスが腕を組んだ。「板を上げた途端、溜まった水が押し寄せるかもしれん。北の畑が泥に沈んだら、誰が責任を取る」反対されるのは予想していた。だからこそ、感覚ではなく測った数字で答える必要がある。私はみずきの帳面を借り、地面に簡単な線を引いた。「封鎖壁から六番杭までの高低差は九寸半です。水路幅は平均四尺二寸。土砂を一尺掘り下げれば、板を一段だけ開けても水は壁際に溜まらず、北へ流れます。ただし、七番杭の先はまだ測っていません。今日試すのは六番までです」「一段なら安全だと、どうして言い切れる」「板の一段目は高さ二寸です。今の水位なら、流れ出す量は水路の半分にも届きません。さらに土嚢を二列置き、異常があれば板を戻します」私は封鎖壁の横に残る溝を示した。「この溝には板を固定する穴があります。水圧で勝手に上がる構造ではありません」ダレスはすぐには答えなかった。代わりに和田さんが帳面をのぞき込み、静かに言った。「北の畑へ水を引いていたころも、最初は少しずつ流したと祖父から聞いています。四段の切り欠きという話とも合います」「昔話だけで決めるな」「だから測ったんでしょう」和田さんの返しに、周囲から小さなうなずきが広がった。ダレスは渋い顔のまま、やがて顎を引いた。「六番までだ。越えそうならすぐ止めろ」「分かっています」作業はすぐに始まった。レオと三人の村人が堆積した土砂を掘り、ほかの者は籠で泥を運んだ。私は麻縄の高さを基準に、底が均一に下るよう測り直す。みずきは掘った深さを一か所ずつ記録し、和田さんは崩れやすい場所へ小石を敷いた。昼前には、六番杭まで細い溝が通った。掘り出した泥は籠で二十三杯。最初は見守るだけだった村人も、途中から自分で鍬や籠を持ち始めていた。「これで板を上げるの?」みずきが封鎖壁を見上げる。「その前に案内溝の砂を取る」私は細い鉄べらを差し込み、板の左右に詰まった砂礫を少しずつ掻き出した。レオが取っ手へ縄を掛け、三人でゆっくり引く。最初はびくともしなかった。もう一度、溝の奥へ水を流し込み、固まった泥を崩す。レオが足を踏ん張り、私も縄を握った。「せーの!」鈍い音とともに、板が指一本分だけ持ち上がった。隙間から濁った水が噴き出す。村人たちが一斉に後ずさったが、水は土嚢の間を抜け、掘り直した溝へ収まった。勢いは強いものの、壁を越えるほどではない。「一段目まで上げます!」縄を引くと、板が最初の切り欠きに掛かった。水の筋は太くなり、二番、三番の杭を越えていく。みずきが水と並んで走った。「四番、通った! 五番も!」六番杭の手前で水面が一度膨らんだが、掘り下げた底をなぞるように先へ進んだ。あふれない。土嚢も崩れていない。レオが息を吐いた。「本当に流れたな」歓声が上がるより先に、私は測り棒を差し込んだ。深さは三寸、中央の流速は、木片が十歩を進むのに二十数える程度。これなら水路を削る危険も小さい。「桶を入れて」和田さんが水を受け、満ちるまでの時間を数えた。「一桶、十八数えです」同じ大きさの桶で三度測っても、ほぼ同じだった。今の流量なら、一刻で畑二枚分の溝を満たせる。村全体の不足を解消する量には遠いが、乾ききった北畑を生き返らせるには十分だった。「これなら苗床を守れる」和田さんの声が震えた。北畑では、種をまいたばかりの苗床が乾き始めていると聞いている。今朝までは、残った井戸水をどの家へ回すかで揉めていた。それが一刻に桶十数杯でも増えるなら、少なくとも飲み水を畑へ運ばずに済む。「今日は一段のままにします」私は板の固定穴へ木栓を打ち込み、勝手に動かないことを確かめた。「日暮れまで水位を見張り、第一刻を越えたら閉じてください。レオと私で交代します。明日は石積みを補強してから、北畑までの続きを測ります」「俺も見張る」ダレスが水面から目を離さずに言った。「賛成したわけじゃない。だが、数字どおりに流れたことは認める。異変があれば俺が板を戻す」「お願いします」短い返事だったが、朝のような刺々しさはなかった。周囲の村人も、水の流れを黙って見つめている。昨日まで乾いた石しかなかった水路に、確かな音が戻っていた。だが、水は七番杭の手前で急に細くなった。「止まった?」みずきが首をかしげる。私は下流へ走り、濡れた土を確かめた。水が地面へ染み込んでいるのではない。左岸の石積みの下へ吸い込まれている。苔を剥がすと、土に埋もれた四角い石蓋が現れた。鑑定を向けた瞬間、これまで見えなかった水路の構造が頭の中でつながった。――北部越流堰・分岐口。
――接続先、旧貯水槽第二槽。
――状態、閉塞率七割。
――注意、第二槽上部に空洞あり。「湊、何があった」追いついたレオに、私は石蓋を示した。「この水路は北の畑だけにつながっているんじゃない。地下の第二貯水槽へも水を送っていたみたいです」「第二だと? 昨日見つけた貯水槽とは別なのか」「ええ。それに、上に空洞がある」私は視線を上げた。分岐口の先にあるのは、村外れの崩れた製粉小屋だった。その床下に、まだ誰も知らない貯水槽が眠っている。




