犬頭の王様は黄昏を越えた未来で何時でも明日を夢見ていられるか④
「おはよう、ベオくん」
「うん。おはよう、マナ」
通されたのは、昨夜に一度立ち寄った社内の秘密研究所であり、其処にはマナと、その隣でマナの膝を枕に寝息を立てているアリスの姿が在った。
マナは夜通し起きて待っていてくれたのだろうか、珍しく少し隈の残る顔には、俺の顔を見た安堵があって、そしてその視界に映る俺の犬頭の変わり様で、全てを察したかのような雰囲気があった。
「・・・三上から大体の話は聞かされていてたんだけど。うん、大変だったね」
「ああ。だけど、俺は俺のままだから、大丈夫だよ」
俺の、何時も通りに聞こえる声の調子に驚いた様子を見せたのは一瞬で、彼女もそんな俺に合わせてくれて、変わらない様子を装ってくれる。
「今は、とにかく少し休もう。時間は無いが、それでも休息は必要だから。特に君には、ね」
そう言ってマナはアリスを抱えると、奥へと連れていく。抱き上げて、運んでいる最中もアリスが全く目を覚まさないのは、三上の魔術効果が残っているというよりは、単純にここ数日の不眠不休の作業による影響らしい。
「さて、ただ待っているというのも手持無沙汰だったのでね。佐山君が気を使って、材料も用意してくれていたから、朝ごはんを用意してあるよ。ふふ、そういえば最近は君に頼りきりだから、私がこうして食事の支度をするのは、ちょっと久しぶりだね」
そういえば、マナに拾われて暫くは、自分の事が何も出来なかったので、彼女に何でも頼りきりだった。だからおよそ初めの一か月の間に、朝昼晩と月夜見探偵事務所の食卓を彩っていたのは、いつも同じメニューで、インスタントを除くとマナの最も得意とする、唯一のメニューだったのだ。
「いや、確かに懐かしいけどさ。師匠のじゃがいもパンケーキ」
「ああ、やっぱりアキトも好きだったか」
大皿いっぱいに積み上げられた、マナ特性のジャガイモのパンケーキの甘い匂いは、アキトの言うように何だか懐かしい気分にさせてくれる。
バターをたっぷりと塗り付けて、一口ほおばると。その口いっぱいに広がっていく、じんわりとした優しい味で、贔屓目でなく本当においしい。ちょっと安心してしまって、それに伴い疲れが消えていくようだ。
「お代わりは、ありますの?」
「ふふふ、君が居る事は分かっていたからね。どんどん焼いていくから、遠慮なく食べてくれればいいよ」
これだけの人数が揃えば何時もは少し賑やかすぎるくらいの食卓は、もくもくと、言葉数少なく進んでいく。それはきっと、俺の事を気遣ってくれての事なんだろう。
まだこれまでの経緯についてをアキトやマグノリア、そしてマナには説明していないが、俺の変わってしまったこの頭や、三上さんや佐山さんを含めたバルドルの人間から向けられる態度の変化などで、ある程度の察しは付いている筈だ。
敢えて触れずにいてくれている事は、食事をしつつも色々な気持ちの整理を付けている今の俺にとって、純粋にありがたかった。
そうして、小山のようなパンケーキの山を、二度のお代わりも含めて片付けて、食後のコーヒーまで済ませてしまって。
皆に、これまでの事と。これからの事について話をしようと思って、眠っているアリスはともかく、三上の言うとおりであれば、この場に居るはずの一人の姿が見えない事が気になった。
「そういえば、アヤナの姿が見えないな。此処にいるんじゃなかったんだっけ?」
「ああ、うん。そうなんだけど、ね」
俺にそう尋ねられて、何故かばつが悪そうにもごもごしたマナは。諦めたように一つため息をついて歩き出して、彼女にしては珍しく、遠慮がちにその、部屋の隅に小さな個室として造られたアリスが通された部屋とは違う、多分仮眠室の扉をノックした。
「という事だよ、鷹野くん。いじけていないで、いい加減に出ておいで。何時までも君が姿を見せないんじゃあ、ベオくんが心配するじゃないか」
数秒の沈黙の後、がちゃりと仮眠室の扉が開く。その向こうで、明るいこちら側とは対照的に、暗がりの中で佇んでいるのは、どう見てもアヤナであったのだが。
「どうも、ベオさん」
実際に世界が終わるかもしれない状況ではあるのだが。何故なのか、彼女は比喩的な表現で世界の終わりの様な顔をしていて。
「・・・ごめんなさい。わたし、もうだめかもしれません」
アヤナは俺の顔をまともに見れない様子で、何時もの凛々しい様子は何処に行ってしまったのか、肩を落としてがっくりとうなだれている。
彼女の今の匂いには覚えが有る。それは少し懐かしい、あのニザヴェリルでの、あの朝に感じたソレで。だからこそアヤナが何かに迷い、悩んでいるのだと直ぐに分かった。
こんな事をしている場合かとは自分でも思うのだが、理性と感情は別の生き物で。どちらも私という内側に在るモノなのに、どうにもコントロールを出来ないままでいる。
理性では、これからの事を考えれば、こんな事をしている場合ではないと理解している。
世界が滅ぶか生き延びるかの瀬戸際で、自分は大きな役割を期待されていて、何より、自分自身がそれを担うべきであると、そう自覚していた。ならば猶更、こんな風にまごまごとしている場合ではない。
何より、今一番大変なのはベオさんなのだ。三上から聞かされて、マナからも説明を受けてようやく受け入れる事が出来たが。ベオさんは自身の出自を知って、その重責を負う立場となって。その上で、会長を失って混乱するバルドルの人々をまとめて、僅かな時間でこれから世界の終焉たる黄昏に対しての備えをしなければならない。
その世界の命運をかけた戦いの場で。地位としては各階層の総督と同格である上級執行官は、現場指揮官として、特に身を粉にして働かねばならない筈だ。それも、以前から彼の事を良く知っている自分などは、率先してその役割を果たすべきなのだ。それこそ以前の、そう。以前の会長と、三上の様に。
さて、理性ではそう分かっている。理解も、している。ならばどうして今、動き出せずに天岩戸の引きこもりを気取っていたのか。
それはその理性の反対、感情とやらが思う存分に足を引っ張っているからだ。それも随分と子供じみた様子で、主に二つ。もしかすると、『自分は彼の役に立てないのでは無いのか?』という、そんな疑問と、自身の戦績に対する自己嫌悪からだった。
さて、その疑問。その一つ目の、自分は彼の、ベオの役に立てないのでは、という点について。
鷹野アヤナという人間を振り返った時に、その根本というか。その人格や、能力の目標として、目指すべき完成形であると、そう模倣した対象は義姉であるトウコである。
あの大異変の折。まだ幼い子供の頃に鷹野の家に引き取られ、寡黙な義理の父と比べてより親身に接してくれた彼女はまるで母の様で。明確な、そして立派な大人であり、子供の自分がそれを目指す事は必然であった。
そんな訳で、そう在ろうとして成長した姿が今の鷹野アヤナである訳なのだが。さて、目標としていた偉大な義姉に近しい存在に成れたのかと言えば、自身の評価では悲しい事に全くそうでない。
事務処理能力や統率力はどう甘く考えても中の中、良く言ってどうにか中の上程度。
つまり目標とする上の上、バルドルの人間としては最上級である総督と上級執行官を兼任し、個人としては良好な家庭関係まで維持しているトウコは、今だって遥か彼方の手が届きそうにない届かない理想である。まあ、初めから目標設定が高すぎた、という感は否めないが、そんな事は今更どうにもならない。
つまり、自信が無くて、特に悪い所。言ってしまえば社会人としての自分の事務処理能力やコミュニケーション能力には難がある。それは、ある意味ではある意味では解決された問題であった筈であった。
何せ、自分が目指すところの目標、つまりゴールは、ベオの隣に在る事であり、それ以上でもそれ以下でもない。ならばその、義姉に比べればみっともなくても。言い方が悪いが、街の探偵で、何でも屋の彼の隣に在る為には、それくらいで充分であったのだ。
その前提があっけなく崩れ去る事になるなんて事は。アヤナにとっては、それが世界の終わる事よりもずっと、とてつもなく大きな問題だったのである。
あれよあれよという間に、現在はバルドルの新会長に就任したベオ。その、ずっと隣に在りたいと想っていた彼は、今やあの、九界の王にして世界有数の権力者、ベル・バルドルの後継である。
つまり、その隣に在る者に求められる資質や能力も、今の自分と比べるとどう考えても足りていない。悪い言い方をすれば、今の自分と彼とでは立場がまるっきり逆転してしまって、そうなる事で自分の能力の低さを自覚してしまった、という訳だ。
偉大な義姉であるトウコでもまだ足りず、今のベオの隣に在る為に必要な能力の最低値、その目標とすべき相手は、この世界においては只一人。
上の上どころか頂点たる一。つまり、前会長の右腕であった三上という事なのだが。その三上に、更に自分の小ささを思い知らされた、自分勝手な自己嫌悪。その、自身の戦績に対する自己嫌悪と直結しているのだから質が悪い。
自分が生物として強靭である、という自覚は、周囲からの畏怖や、忌避の現れから自認する所であった。それは他の戦乙女たちにとっても当たり前の事で、強いからこそ孤独である、という勘違いを是正してもらってなお、認識自体は変わらないままでこれまでを生きていた。
ああ、そうなのだ。自分が最も頼りにしていた自身の価値とは、皮肉な事にその武力に拠っていた。
他の能力は足らなくても、それだけあれば。それさえあれば、彼の、ベオの隣に居ても良いのだと、そう免罪符じみて。言い訳の様に、そう言って自分に言い聞かせていたのに。
まあ、それがあっさりと、それも現在の目標とすべき三上との戦いで露見してしまったのだから、もう笑い話にもならない。
そして二つ目。これについてはこれまでも、少し不安に考える事は有った。自分は、小さな事件や戦いではともかく、ベオにとっての大きな戦いである、あの巨人たちとの戦いでは、あまり役に立っていないのではないかと。
始めとなったアリスの騒動の際は、群れる有象無象を振り払いはしたが、最大の脅威であったオルターやスリヴァルディとの戦いには間に合わず、次のニザヴェリルでは独断が過ぎて迷惑をかけた。
その次では老獪なヴォルコフに情報戦で押されて、折り悪く機動甲冑も改修中で前線に立てないままで。
月夜見に彼が誘拐された時などは、本当に何も出来なくて、だからこそ今回の、ヴァルハラでの戦いでは一番に活躍して、誰に言われずとも、自分が自分自身で、その在り方を納得できるようにと。
つまり。自分が最も、彼の役に立つ剣で在りたいと、そう密かに考えていたというのに。そんな結末は、あんまりにもお粗末なソレであったから、本当に救いようがない。
「・・・ごめんなさい。自分でも、こんな事をしている場合じゃあ無いって、分かっているんです」
ドアを開けてくれたが、また一歩後ろに下がって、ぺたりと座り込んでしまったアヤナは。やはりうなだれて、視線を合わせてはくれない。こんな弱気に、明らかに落ち込んでしまった彼女の姿を目にするのは、思えば初めてかもしれない。
「だけど、立てないんです。顔を上げる事が、出来ないんです」
長い付き合いだから、もう匂いで確認しなくても分かる。アヤナは今、自身が無いのだ。何よりも、自分の事を信じる事が出来ないでいるのだ。
本当はそんな事は無いのだけど、彼女は自分の価値が、自分の強さに在ると考えているのだろう。自分が強い事、戦いで勝利する事。何より、敗北しない事。其処に大きく価値が有るのだと、そう考えてしまっているのだ。
それは、ある側面では間違いでない。何時か彼女自身が、自分の事を人とは別の強さを持つ、怪物であると評した事があった。そして自分はそれに、どう答えたのだったか。
ああ、そうだ。俺はそれを否定しなかった。その上で、強い君の隣に、弱い自分が在る事を許してほしいと、そんな事を言った。それは彼女にとってはそのまま、強い彼女をそのまま俺が肯定した様に映ったはずだ。本当は、それだけじゃあないのだけれど。
「私、三上に負けちゃいました。今度は言い訳も出来ないくらいに、誰がどう見ても分かり切った、ハッキリとした敗北です」
大小の違いは有っても、勝ち負けは他の誰にも当たり前の事で、過程はともかく、言ってみればその結果。多くの者たちが四苦八苦して、どうにかして振り向かせたい勝利の女神は気まぐれで残酷だ。
だというのに、アヤナにとってソレは当たり前であった。絶対的な強者である彼女が他者に勝つという事は、当然の事であったのだ。
「私、負けちゃったんです。私、自分が思っていたより、強くは無かったのです」
その当然は、脆く崩れ去った。アヤナは少なくとも同格と考えていた三上に良いようにあしらわれ、情けを掛けられて見逃され、こうして敗北を思い知らされている。
そんな誰にとっても当たり前で、もっと早くに経験するべきであった、勝負に負けるという経験を、単純に強かったからという理由でこれまで知る事は無く、今になって実感するだなんて事は、当のアヤナ自身も予想はしていなかっただろう。
「・・・だから怖くて仕方ないんです。足が、動いてくれないんです」
そして今、彼女の頭の中を占めている事は、敗北の後の事だ。
つまり負けた後。敗者は、勝者に全てを奪われても仕方ないのだという事。
「三上がそのつもりなら、私はあの場で死んでしまっていました。けど、そうじゃないんです。私が怖いのはそんな事じゃないんですよ、ベオさん」
うん、分かっているよ。その結末は何よりも、俺自身が恐れている事なのだから。
「・・・負けたら、何も守れない。私が倒れたら、私が貴方を護れない。そんな当たり前のことを今になって自覚して、私はそれが、たまらなく、こわいのです」
強いから、勝つことが当たり前で。その当たり前に自分の価値を見出していた。
アヤナは今、それが当たり前じゃなくなって、負ける事で明確に失ってしまう事を意識して。初めて感じたその恐怖に直面している。そしてその恐ろしさは、俺には良く分かる。
何時だってそうで、これからもずっとそうだ。そうしない為に必死にあがいても、上手くいかない事の方がずっと多い。
勝負に負けてしまって、大切な誰かを守れないという事はとても怖い。敗北の後、その後に起こるかもしれないもしも。何かを失うという事はもっと、ずっと恐ろしい。
「・・・だけど、それでも。俺たちは立ち上がらなければいけない。何もせずに諦める事だけは、それだけは駄目なんだよ、アヤナ」
俺のそんな言葉に、顔を上げたアヤナの瞳は濡れていた。その流れる涙の意味は、彼女の考える最悪の未来への恐れからであって、だから俺は何よりもそれを否定する。
「何時か俺は、君にこう言ったね。『強い君を、弱い俺に護らせてくれないか。役に立たなくても、君の側に居る事を、許してくれないか』ってさ」
言葉は足りなかったかもしれないが、それは決して、自分の弱さを肯定する意味ではない。弱くとも、それを理由にして何もかもを諦めてしまわないように、誰かでなく、自分に言い聞かせてきた言葉だ。
「強いとか弱いとか。そんな事よりも俺たちが一番大切にしなきゃならない事は、自分を諦めない事だ。だって、自分を諦めてしまって、座り込んで立ち上がらないのは、すごくもったいないじゃないか」
ああ、そうなのだ。死んで動かなくなる事と、諦めて動き出せない事は似ているけれど、明らかに違う。
だってまだ生きている。生きている限りまた立ち上がって、其処から歩き出せることが出来るのだから。そんな当たり前を知っているから、今のアヤナの諦めはもったいなくて仕方ない。
「だから、だからさ。俺が何度でも伝えるよ。君の弱気を否定して、怖くても一緒に立ち上がって、また歩き出せるように」
そうさ、何時でも。アヤナ自身がそう信じる事が出来ないだけで、君は今でも変わらない。強くて頼りになる、もちろんそれだけじゃない、俺の大切な鷹野アヤナだ。
「俺には君が必要だよ、アヤナ。君が、君の強さを疑う時は。代わりに俺が、君の事を信じる。君がまた、何時もみたいに自分の翼を誇れるように、君自身を信じる事が出来るように」
だからこそ勇気をもらって、弱くても、その背中を護りたいと。何時でもそう想いたいと願うくらいに、やっぱり君は、俺にとって憧れる様な、そんな素敵な女の子なんだから。
「一緒に行こう、アヤナ。俺の弱さも、君が勘違いした強さも。立ち上がって生きている限り、何度でも変えていく事が出来るんだ」
果たして、それが正解かどうかは分からない。これからこの世界の終わりに抗う事が、その為にたくさんの命を危険にさらして、必死に足掻いた結果に、全てが徒労に終わる可能性だってあるのに。
それでも自分が勝手に正しいと信じる事をやろうとすることが、ちゃんと正しいのかどうかだなんて事は、何も始まっていない今は、誰にも分かりはしないのだから。
「結局それが間違いだったとしても、誰かに、自分自身に正しさを証明する事が出来なくても、それでいいんだ。だってそれを抱えたままでも、俺たちは自分がそう在りたいと願うだけで、前を向いて歩いて行けるんだから」
そういって彼の差し出した手を、私は暫く見つめた後。ゆっくりと、少し怖がりながらでも。だけど確かに、自分の手で取った。
それでベオさんは、また応えるように力を込めてくれたから。私も嬉しくなって、遠慮なく握り返して、その手を、強く引き寄せる。
お互いの支えで立ち上がって目と目が合った私とベオさんは、お互いに以前のカタチとは少し違う。
自分は敗北を知って、その失う恐怖にまだ泣いているし。ベオさんは自慢だった犬頭が無くなって、本来の人としての顔を取り戻した後だったから。
「はい。私、もう諦めません。立ち上がる事を、生きる事を、前に進むことを」
そういう意味では、これが彼を私の初めての出会いであるのだ。そんな事を考えながら、諦めを振り切って、また立ち上がり、歩き出そうとする私のその瞳を、彼は見つめ続けて、その言葉通りに見守ってくれている。
「何より、貴方の隣に在る事を。その傍に在り続ける事を、私は諦めない」
それはまるで。大きく飛び立とうとする、青い鳥がその翼を広げる様に。
「・・・これから、覚悟してくださいね、ベオさん。だって私は」
自らの誇りと、その願いを取り戻した戦乙女は、そう言って、改めて己の伴侶に向かって微笑みながら宣言するのだ。
「私は、貴方の事が大好きなのですから」
ああ、すっきりした。ずっと伝えたかった言葉を口にして、何も状況は変わっていないけれど。
それだけで暗雲で占められていた胸の内は。その心だけはあの日の、あの朝の青空の様に。
高く澄み切って、何処までも晴れやかな気持ちで。それだけでこれからもずっと、この願いを手放さずに生きていけると想うから。




