商人はその永き旅の果てに求めていた安心を得る事ができるか⑲
俺の犬頭の正体、魔狼フェンリル。それはこの九界にて再現されている神話において、最も恐れられ、忌避されるべき獣である。
神と巨人との間に生まれ、貪欲に獲物を貪り食う魔狼は、何時か人も、その踏みしめる大地も、大いなる神々ですら己が咢で砕き、果ては太陽と月を、そして世界の全てを呑み込むだろうと予見された。それを恐れた神々は、魔狼を謀る事により魔法の紐で拘束し、その自由を奪う。
「けれど、その封印も結局は解かれる事になる。世界の終焉、神々の黄昏。『ラグナロク』と呼ばれる終わりの始まりに、軛から解き放たれた魔狼は、神々を呑み込んで、最後は期待に添わず、雷神の兄弟でもある戦神に討ち取られて果てた。しかし問題は、彼の獣には世界を呑み込む可能性が有ったという記述、その一点に在る」
そんな存在が自分の一部だと知らされたのは、やはりベルとの対策を検討していた時の事だ。
この計画の始まり。九界が創造されて、血の琥珀から解放された俺が目覚める直前、ベルは俺にフェンリルの頭を被せて、一つにしたのだという。
「君の初めての目覚めの瞬間。不測の事態によって開放されたフェンリルはベルと私によって鎮圧されて、グレイプニルによる再封印を受けた。そして、六つの封印は開放の度に一つずつ結び目が解かれ、最後の開放の際に、遂にフェンリルは解放されるという仕組みになっている」
「なるほど、そういう感じなんだな」
思ったより驚きも、己の辿るかもしれない末路にも恐怖は無い。申し訳なさそうにしているマナには悪いが、この犬頭、フェンリルとはきっと、そんな風にろくでもないモノであると、予感というか、感覚として何となく分かっていた。
「ごめん、ごめんねベオ君。本当に、私はどうかしていた。それで君が守られて、最悪でも星の彼方へ遠く攫ってしまえばどうとでもなると、楽観的ですらあった。君の気持も考えず、挙句に失敗した私に、弁解できるようなところは無いよ」
「いや、それで実際助けられてきたんだしさ。そんな事はもういいんだよ、マナ。問題は、どうしてフェンリルを、ベルが俺に押し付けたのか、ってとこだ」
世界を呑み込むという魔狼フェンリル。ベルの目的がフェンリルを利用した九界の終焉に有るというのなら、そのトリガーを手元で管理するならともかく、目の届く範囲だとしても、バルドルの本拠地から離れたニヴルヘイムに放置していたのはどういう訳なのだろう。
まあ九界はバルドルの庭と言って遜色ないが、それにしたって俺が考えなくフェンリルを開放する恐れなどについては考えなかったのか。現に、グレイプニルは俺の意志で解放でき、既にその内の五つは失われている。
「それは君の出自にも関係がある。君は、黄昏がベルの世界の収穫を延期して、彼が一万年を生きる事になった原因だ。しかし逆に言えば、君が生きて在る限りベルの生存を担保する存在でもある。本来はね、あの血の琥珀の内側で生まれていないから手が出せないという不安定な理由で難を逃れていた、そんな君が実際に生まれてしまったら、その瞬間に現実に干渉する黄昏によって君は何らかの形で命を奪われていたのだろう。そうなれば後はベルは不老不死の加護を失い、只の一人の人になる。そうなってしまえば、どういった形で黄昏が世界に影響を及ぼすのかコントロールが不能になる恐れがあった」
それを避けるための方法が、フェンリルであったのだという。
「他に代役が立てられる存在とは違って、黄昏にとってはその器の候補。物語にとってフェンリルとは滅びの原因と成り得る、替えの利かない重要な存在だ。故に君がそれと一体になれば、終焉たるラグナロクが始まるまで確実にその存在は保証される。そしてそれはそのまま、ベルという存在の保障にも繋がるんだよ」
成程、そういう事なら今までのあれこれにも説明が付く。
ベルという世界一の大富豪が、どういう訳で俺の様な場末の探偵に関わって来るのか。それが自分の生命の継続に直結しているというのなら、他に少しだけ疑問は有っても、その理由には十分に納得出来た。
「・・・だからね、ベオくん。君はその、最後に残ったグレイプニルを絶対に解いてはいけない」
その瞬間に、完全に解放されるというフェンリルは、今度こそ世界の全てを呑み込んで、滅ぼす終焉と成り得るだろう。それこそがベルの計画の一つであり、そのくせどうでも良いと言いやがる結末の選択肢である。
ベルという絶対者が強制してないからこそ、今は実現していないだけで、自分がそれを選択してしまえばすぐにでも現実となる終焉の引き金。それがどういう訳か、俺の目覚めの瞬間より、その意思に委ねられているという事が、この九界の現在なのだ。
「確かに、それを用いれば可能性は有るだろう。その身と引き換えに、君は僕に勝利する事が出来る。ああ、一つ良い事を教えてあげよう。最後のグレイプニルの消費と共にフェンリルは解放され、君は何でもない只の人へと戻る。そうなると真っ先に魔狼の餌食になってしまうだろうけど、けれどそれには、グレイプニルが完全に解けるまでの時間、僅かに猶予が残されているんだ。だからその間に君が自害なりなんなりしてしまえば、道連れにフェンリルは消滅するだろう」
それは、マナから聞かされていなかった事だ。
「そりゃあ月夜見君はベオに対しては過保護だから、どれだけやめろと言っても止めない馬鹿には黙っておくさ。さて、今までも君は、随分自分を傷つけて生きてきたよね。フェンリルの開放で傷は癒えたとしても、普通の人間であれば不可逆な四肢の欠損や、致命の重傷を何度も経験してきている。それは何時も、誰かの為であったよね」
うん、そんな事も、あったかもしれない。
「なら今回もそうしてみるかい?この神殿の内側であれば、外への影響も無いだろう。フェンリルを開放して、僕を殺して。そして君も自分の始末をつける。フェンリルを失う事は黄昏にとっても大きな痛手だ。もしかするとそうすれば、君の大事が大切に想う人たちは、ささやかなその生活を続ける事ができるかもしれないね」
うん、それはほんとうに、そうなのかもしれない。
「・・・さあ、ならば君はどうする?君は、何時ものように、他の誰かや、何かの為に自分を犠牲にする選択を、選ぶのかな」
それはある意味では最適化された、もっとも手軽で、目的地へと至る為に、最も近い道のりなのかもしれない。
生き死にという選択は、重く辛いものである。けれど其処に意味が在るのなら、その後に俺が居なくても、皆が生きていられる様な、そんな世界が在るのなら。ならばその選択にも、意味が在るのではないかと。
「そんな事するわけねーだろ、ばか」
そんな訳はない。だから俺は笑って、そう言ってみせた。何時ものように。何も、変わらない俺のままで。
「さっきから聞いていたらさ、お前は勘違いしているにも程があるよ、ベル。俺は確かに、今まで何度も自分で選んで、時には死ぬような目にあってきたさ。だけどそれは、何時だって誰かの為じゃなくて、自分の為にしてきた事だった」
大切な事が在って、大切な人たちが其処に居る。
それは最早俺の一部であって、別つ事のできない俺自身だ。だからそれを守りたいと願う事、想う事は、自分の為であるという他に何があるだろうか。
そうしたいと思えたからこそ、何時だって走る事が出来た。それは誰かの為じゃなく、自分の為に。俺がそうしたいって願いが始まりで、傷ついたり、失敗する事は有ったけれど。それは自分の未熟から生じた結果であって、絶対に何かや、誰かのせい何かじゃじゃない。
「うん。俺は何時だって、今でさえ。俺自身の願いの為に生きてきた。俺の為に、俺がそうしたいからという祈りを守る為に、どんなに痛くても、辛くても、前だけを向いて走り続けてこれたんだ」
だから、そうだ。何時も同じ、何時だってそうさ。
始めはともかく、この短い人生で得た学び。生きる為に必要で、それだけあれば、これからも前を向いて、今日から明日へと進んでいきたいと、そう心から想える理由。
それを自覚した今の俺は絶対に、自分から命を捨てる事を選ばない。自分を犠牲にして、他を助けるだなんて、そんな簡単で楽なだけの選択を選びはしない。
「だって俺はまだ、この世界に生まれたばかりだからさ。この先に待っているかもしれない何かや、誰かとの出会いが楽しみで仕方ない。大切な皆と、大好きな皆と一緒に、その先へと進んでいける事が、たまらなく嬉しくて仕方ないんだ!」
結局は自分の事しか考えていないという極論で、自分勝手で子供の様なわがままだ。
けれど仕方ないだろう?実際に俺はまだ一歳、何の根拠が無くても、未来にユメ見るお年頃なのだから。
「だから俺は何も諦めない。何より、自分が生きていく未来を、絶対に手放しはしない!」
その第一歩として、目の前に立ちはだかる黄金の王を何とかする。そしてその先に待ち受けるという、世界を収穫するという黄昏さえも。
俺はきっと越えて見せる。
「・・・うん、君は。そういうやつ、だったね」
俺のそんな、曖昧な返答に満足してくれたのかどうかは分からない。
けれどベルは、一万年を生きた黄金の王は。一つ頷いて、今も俺の前に立ちはだかる、最大の壁として宣言する。
「ならば証明して見せろ。我が背を越えて、その先に待つ、黄昏さえ越えて!」
今までのそれよりも強く、激しく輝く黄金は、これまでより最大の光を放つ。
「そして僕に示しておくれ。僕がこの一万年の永き間、決して得る事の出来なかった安心を」
「上等だ!」
大きく吠えて、拳を掲げ、その声に応える様に俺は笑ってみせる。きっとその、求める安心が得られるようにと。
「・・・それにな、俺も全くの無策って訳じゃあ、無いんだぜ!」
そうだ。今の間にあった戦いも、全てが無駄であった訳ではない。
俺とベル。その二人に有って、この身に在って他の誰にも無いモノが。まだ一つ残っているのだから。




