商人はその永き旅の果てに求めていた安心を得る事ができるか⑮
バルドル会長隷下特別事案対策室、つまり特務。エインヘリヤルと呼ばれる者たちについての伝説じみた逸話は多く存在する。
要するに一騎当千の人外集団と、社内においては特務というだけで尊敬、又は畏怖の対象であり、外部にあってもその脅威については実例を伴う噂などにより広く喧伝されていた。
しかし実際、その正確な実態について知られている事は少ない。それは各階層には彼らよりももっと明確に強大な武力の象徴である戦乙女の存在があり、加えて特務の人員が合計十一名と、バルドルの巨大さに比べれば極めて少数であるいう事も重なって、単純に遭遇する機会が無い、という事実により、その秘匿性は保たれていた。
それが事実であるのなら、自分は一体何なのか。少なくともその半数以上と遭遇し、共闘、そして敵対の後は戦闘まで経験し、彼らがどれ程に強大な存在であるのかという事を身を以て知っている。だというのに。
「ぐ、が」
こうしてそのNo2、特務室長補佐と対峙して。あっさりとその足元に組み伏せられてしまっているのだから、やはり認識が甘かったというか、ドウケンの言葉が正しかったという事なのだろう。
「君に恨みは無い。それどころか、ニザヴェリルの件を考えれば恩すら有る」
組み伏せられている、という言い方ももしかすると正しくはないのかもしれない。俺がこのフロアに立ち入った瞬間、何か不可視の力場の様なものに全身を抑え込まれて、抵抗の間も無く床へと張り付けにされてしまった。
不用意であったとは思わない。此処はバルドルの庭であり、特務が待ち受けているという事は重々承知していたのだから、先を急いではいたが、直前に戦って思い知らされたドウケンの強さと彼からの忠告も有って、出来る限りの警戒を行いつつ進んでいた筈だ。という事は単純に、目の前の男が一枚上手であった、という事なのだろう。
こう考えると、真正面から向かい合ってくれた上で手を抜いていたドウケンとの戦いは、相当に温情であったという事なのだ。
「・・・やけど、そんな事も、この九界が滅ぶという事実の前には意味が無い。裏切り者の自分には自業自得で、君には何も、負う所は無いんやろうね。それどころかきっと、あの時の様に、必死にあがこうとしとるんやろう」
彼とはニザヴェリルで出会って、共に戦い、朝、久しぶりに再会した時などには、俺の無礼を笑顔で笑って、言葉を交わしたものだ。その際にも疲れた様子ではあったが、確かに出会った時と同じく、穏やかで真っ直ぐな匂いがしていたというのに。
たった数時間で、それが幽鬼の如く険の入った様相に変わり果てていた。思いつめた果てに、分かっていてもそれが正しいのだと自分に言い聞かせて、白波たつ岸壁に立ち、その崖下へと飛び込む直前の悲壮感とでも言えば良いのか。油断は全く無いくせに最早俺に成す術が無いのだと理解してか、備え付けのソファーに腰掛けて、壁面の禁煙の表示を無視しつつ、実にマズそうに紫煙を吐いている。
「俺にはもう、何も残ってない。ならせめて、滅んだ後に残る僅かな席を、あの人に用意する為に。君をこのまま、会長の元へは行かせられん」
つまり、石動シズマは覚悟を決めてしまっている。
自分を犠牲にする事を織り込み済みで、こうして俺の足止めを行っているのだ。そう思えば今すぐこの息の根を止めてしまわないのは、彼のいう所の僅かな負い目から生じた情けの現れなのかもしれない。
「・・・ふざ、けんじゃね、え」
無理やりに体を引き起こし、軋む全身の骨格から伝えられる痛みを全て無視した。
その理屈は分かる、理解もできる。例えば明日、世界が滅ぶとして。もしも意地の悪い奇跡が起きて、何かを残す事が出来るのなら、それが大切な誰かであるのなら。シズマと同じ選択を選んだとして、誰に批判する権利があるというのか。
しかし、それはやはり違う。
「諦めんのが、早すぎじゃねえ、か!アンタ、ニザヴェリルではもっと、往生際が悪くて、良い顔してたぜ。少なくとも今みたいに、死んだ目で腐っては、いなかったぞ!」
その先が無いからと、諦めて立ち止まる事と、その先に手を伸ばそうともがく事は明確に違う。実際、俺は前のめりに倒れ込むために為に此処に居るのだ。
「ぐ、おお・・・!」
「展開済みの多重封印に其処まで抗うか。やっぱり君は、そんくらいでは止まらんのやね」
膝立ちまで起き上がれたが、その鈍重な動きの俺を、シズマは容易に捉えて起き上がりつつある頭部へと手を当てた。
「事が終わるまで眠っててもらうわ。すまんね、せめて、俺の事は卑怯者て恨んでくれたらええ」
「・・・シズ、ま!」
顔を上げられないが多分、朝にドウケンを捉えた力場の様な揺らぎがシズマの手には展開されている。
このまま、相手を睨みつけるくらいしか出来ないというのか。悔しさで歯が砕けそうなほどに食いしばり、更に顔を引き上げた瞬間、このへたりこんだ三角の耳に、その声は涼やかに届いた。
「全く。何時も無茶と無理ばかりだな、貴公は」
超高度の高層建築用ガラスに、豆腐に包丁を入れるが如く、真っ直ぐに刻まれた一閃は四度。
他と切り離されたそれが外側から内側へと、扉でも開けるような気やすさで押し込まれ、切り出されて床に落ちたそれは、自重から細かく砕けた。
此処が地上から何階分離れているだとか、今のそれはどうやったのだとか。そういった疑問は、その開いた即席の窓から優雅に入ってくる男にとっては全て無意味だ。
後ろにまとめられている色褪せた金髪に、相変わらずのスーツ姿はやはり、切れ者の高級サラリーマン然というべきか。その手に握られた揺らぐ風を纏う短剣の瞳は、今も青く輝き、引き金に指を掛けたまま、何時でも今の再現を行えるのだと明確に示している。
俺は、彼が何処の誰なのか良く分かっている。異邦の地で有っても、目標とする獲物を狩る為の手段を択ばぬ大胆さと、的確に追い込む智謀。
そして何より、一度戦っているからこそ知る恐ろしい程の魔術の冴えは、それこそフェンリルという切り札を切るほか術が無い程であったし、背を預けて共に戦ったあの荒野では、何よりも彼を頼もしく思ったものだ。
そして確かに、彼はこう言っていた。難事あれば必ず、俺が何処に在っても手を貸してくれると。
「しかしどうにか、間に合いはしたようだ」
そんな口約束を律儀に守って、彼はこの滅ぶ定めを受けた世界へと渡り、その上で幾千の敵が待ち構える死地へと、友を救うために飛び込んだ。
「直接の再会は随分と久しいな、ベオ。友というだけでなく、将来の義息が窮地とあらば」
何だかおかしな事を言っているが、この場にあって、これ程頼りになる援軍は他に居まい。
「遠慮なく、この槍を振るわせてもらおう」
魔術の騎士、フィアナ騎士団団長。オルター・フィン・フォルグは、宣言と共に、かつての英雄の愛槍を再現して、やはりあの荒野で見せたそれと同じく、無様を晒す俺を少しも気にした様子はなく、不敵に笑ってみせた。
自分は何を間違ってしまったのか。何時から、こんなにも取り返しがつかなくなってしまったのか。
それがはっきりと明確になったのは、数か月前。ニザヴェリルにて、ベル・バルドルに鹿島との繋がりを指摘され、その走狗に成り果てたあの時だ。以降、鹿島へと流される情報はその全てに検閲が入り、正確であるが、明らかな方向性を加えられたそれとなっている。
それからも時折、定期報告の名目で鹿島の本部へと戻る事は有ったが、以前とは違って、其処は心休まる場所ではない。
単純に長期の潜入による心労と察してか、休養や潜入の中止を促す代表の心配の顔を見て、無理やりに張り付けた笑顔はきっと、酷く滑稽なモノだったろう。
あれ程に頼りとして、頼りにしてくれていた仲間たち。彼らから向けられる視線はその全てが、今では疑惑の眼差しと感じられて、事実ではないと分かってはいても、それこそが醜い己の猜疑心の発露であると自覚し、思い知らされてからは、もうあそこへは戻れなくなった。
自分は会長の、それも手軽に使い捨てのきく手駒の一つであると思い込むようにしてからは、少し楽になった。その振る舞いに何か感じ取ってか、他の特務の幾人かは何かを察していたようでもあったが、誰もそれを口にする事は無い。
当たり前だ。誰も彼も、何らかの理由が有って此処に居る。そして少なくない数の特務は、自分と同じか、もしかするともっと深くを会長にからめとられて、この身と同じく走狗とされているのだ。それが強制か自発的にかという違いくらいで、要するに最早、皆が皆、バルドルを裏切るという選択肢を絶たれている。
九界への潜入前、何度も告げられていた忠告、『ベル・バルドルは怪物である』。それが事実であると知ったのは、つい数時間前の事である。まさか、一万年の時を生きた人間が存在するとは。
数は少ないが、数千年の長きに渡って存在している神格は確かに存在する。鹿島の伝承保持者の中には、伝承核による記憶の転写という形で、継続した疑似人格を保持している者も居る。
しかしそれが、一人の個人としてとは。前例も無ければ、きっと後にも存在しまい。鹿島の長老衆どころか、万魔殿たる魔術協会も、神域解放戦線の半神どもすらベル・バルドルと比べれば赤子同然である。
そして、ある意味ではその後に知らされた事実こそが、自分を一番に打ちのめした。
九界の創造と存在意義。その深淵に存在する、『黄昏』と呼ばれる存在。
そして、九界の殆どと、数百万の人間を犠牲にする事を前提とした計画、『ラグナロク計画』は既に、最終局面たるフェーズ3へと移行しつつあるという。
最早、日ノ本の守護者たる鹿島にとって、その民草を生贄とし、虐殺しようとするバルドルに屈した自分は、裏切り者どころか優先抹殺対象であるだろう。
本気となった代表には絶対に勝てない。いや、そもそも勝負にすらならないし、今あの人を前にすると、自ら首を差し出す前に、羞恥心と慙愧の念から自害してしまう気すらしている。
だから、自分は此処で死ぬ。その始まりのまま、最期まで誰かに利用される事しか使い道のない、愚かな使い捨ての道具として、道具の役割すら満足に果たせなかった出来損ないとして。
「それでも、譲れへんもんが。まだ、此処に残っとる・・・!」
ああ、本当に愚かで救いようがない。
だけど、それだけは譲る事が出来ないのだ。あの人を、不幸なまま終わらせてしまう。それだけは、どうしても、許す事が出来ないのだから。
「例えあの人がそれを望まんくても、喜ばんくても。俺は嫌なんや、あの人を、あの場所を維持できる担保を会長から引き出すまでは、俺は死なれへんのや・・・!」
初めて出会った時の事を、今でも覚えている。
特務に与えられた本社フロアの一室。其処から生涯出る事が出来ないだろうとされていた女は、何時も痛みに耐えていた。
だというのに、彼女は良く笑う女だった。声帯に接続されたスピーカーから機械で再現された音声で、僅かに動かす事が出来る頬の表情筋を緩めて。白く濁った瞳に反射する、他の仲間たちの様子を僅かに感じ取って、それが楽しいのだと、そう、笑う彼女の事を。
俺は勝手に、護りたいと想ったのだ。
「あの人は、もうバルドルの中でしか生きられん。今回の事で九界が、バルドルの殆どが滅ぶんなら、そん残りカスに無理やり席を作って、あの人が存在できる場所を、俺が護ったる。勿論、其処に薄汚い俺が居られん事は、百も承知やわ」
地獄が存在するというのなら、間も無く其処へとこの身は堕ちる。
「だからなんや、それでええやろ・・・!」
それでも良いと、そう想える人と出逢えた事。それだけが、この薄汚い裏切り者に許された幸いであり、それこそが、喜んで悪鬼羅刹と転じる事を選んだ呪いであったのに、それでもよかった。それで、よかった。
そう想える事、その想いに準じる事こそが、自分にとっての最期の願いなのだから。




