二つの月は自らを照らす太陽に共に在りたいと求める事ができるか⑭
私はね、出会ったあの時からずっと、君の事しか考えられなくなっていたんだ。
何故だろう。理由は、あの場では分からなかった。だけどずっと、君と話したかった。君に、触れてみたかったんだよ。
その気持ちはどんどん大きくなって、計画が本格的に始まって、ようやくその願いは叶った。
君はバルドルから放り出されたあの路地裏で、訳も分からず震えながら心細く思っていただろうね。けれど私は、君を見つけたあの瞬間を。今でも鮮明に思い出せるくらいに、本当に心から、とても嬉しかったんだ。
君の声は想像していたより低くて、大人の男の人みたいだった。当たり前だよね、あの状態から戦える体になるまで、君はずっとガラスの筒の中だったんだ。自分たちがそうしたんだから、在りもしない子供のころの声なんて聞けるはずはないのに、そんな事を期待して、本当に酷いと思うよ。
けれど、すぐにその声は私にとっての一番好きな音になって、君の声がが聞こえていないと私の方が不安になって。君が寂しくないようにだなんて言い訳をして、君の眠るベッドへ何度も潜り込んだ。私の方がずっと、子供みたいだったよね。
分かっていた。君は、この宿命を負っていなくとも、その本質はきっと、理不尽に抗う人だ。誰かの為に傷付く事を厭わない、優しい人だ。
だけどね。私は、それがどうしても嫌だったんだよ。
君が優しいから、周りの人間は頼ってしまう。君はそれを嬉しく思っていたかもしれないけれど、見ている事しか出来ない私は、その周りの何も考えていない人間たちを憎いとすら思っていた。
どうしてお前たちは、彼に痛みを押し付けるんだと。助けてくれた?守ってくれた?ふざけるんじゃない。結局はその目的を遂げるために利用しているだけじゃないかと。それでどんな舌触りのいい言葉を彼に掛けたって、その傷が癒える訳じゃない。むしろ失う事で、背負わせるモノを増やしていく始末だとも。
戦いの中で一つ、また一つとグレイプニルが解ける度に、確実に終焉へと近づいていく君を見ていて、平静を保つのも精一杯で、どうにかなりそうだった。
ベル・バルドルとの契約の内容は、グレイプニルを本人の意志で使い切るまでその身柄を預かり保護するという事だが、その終わりはフェンリルの開放を意味する。
終わりを告げる獣、全てを喰らいつくすという狼。あんなモノを、開放してしまえばどんなことになるか。少なくとも、その震源地となる彼がまともでいられる訳がない。
どうしても、失いたくなかった。失いたくはなかったんだ。
朝、優しく肩に触れて、穏やかに起こしてくれる声を。おやすみという音に、一日の終わりを寂しく想って、けれど明日も君と過ごす事ができるという事実を嬉しく想って、眠る夜を。
だから、裏切った。全てをかなぐり捨てて、一度散々に打ちのめされた相手に反逆した。
結果はこうだ。成功したはずなのに、彼から拒絶され、弟子には手を噛まれ。
そして、最期はこの始末。本体である天骸、天機トリフネは巨人の因子に完全に掌握された。
巨人が顕現する際の条件と特性は分かっていた。場所はそれを招く神樹の存在する九界の内部であり、そして器となる容と理。
第一の巨人、スリヴァルディは死肉と妄執。
第二の巨人、スリュムは群体と発展。
第三の巨人、ボルソルンは病と不安。
目の前でフルングニルと名乗った第四の巨人は、異邦と孤独、といったところか。
『黄昏』の介入を甘く見ていた。九界で既に私が巨人の因子に感染していたとすれば、その結実が何処であるかは関係ない。ならばこの状況も、結局は掌の上という事だろう。
なら、失敗してしまった私が君に出来る事なんて、もう一つしかないよね。
「ごめんね、ごめんね、ベオくん」
額に赤く暖かなモノが流れる。これは俺のモノではない。俺を抱えてくれている、所長が流しているそれが、触れている肌を伝って俺を濡らしているのだ。
声が出ない。こんな傷を、何故こんな無茶をと、そう言いたかったのに。
「管理下にある全個体はその場を死守。オオミツヌ、トリフネの足止めを。スクナはベオくんを、アキトの所まで運んでくれ」
視界の端に映る、激しく衝突し、削りあう白い二つの竜巻。俺を潰そうとしていた巨人には、一回り小さい人型が組み付いている。
「ベオくん。もう、この空間の支配権はその大半をフルングニルに奪われつつある。だからその前に、君はアキトと一緒にここから脱出してニヴルヘイムに帰るんだ。いいね?」
戻れるのか。あんなに帰りたかった九界に、ニヴルヘイムに。けれど、それなら君はどうするんだ。
「大丈夫、私に任せて。と自信をもって言えないのが情けないけれど、だけど、責任は果たさないとね」
責任ってなんだ。俺の言葉を聞いてくれなかったのは嫌だったけど、でも、だけど君はただ、俺の為に。
「ううん、どんな言い訳を言ってみても、結局は自分の為だったんだ。君が欲しくて、君を傷つけると分かっていたのにこんな事をして、それなのに結局、みっともなく失敗しちゃった。あはは、私も人の事は言えないよ。これが恋は盲目、ってやつなのかな」
頬に白い指が触れる。何時かのように、今は随分と熱を失った死人のような冷たさで。
「そう、今更だけど。この感情は、恋だった」
ずっと一緒にいて、一度も見たことのなかったそれが、俺の頬に落ちる。
「私はね、あの瞬間に、初めて一目見た時からずっと。君に恋をしていたんだよ、ベオ君」
血で固まった毛並みは透明な雫が混じりその部分だけ溶けて、凍るような今だって、俺はそれだけで暖かいと感じていた。
「ああ、そうさ。自分の事ばかりで、君を傷つけるばかりだった、酷い独りよがりな恋。だからせめて、最期まで自分勝手でいないと」
両脇を別の鳥に抱えられて浮遊感を感じる。まるで犬か猫でも拾い上げるように、力なくなすがままに成るしか出来ない。
「幸せになってね、ベオくん。こんな自分勝手な宇宙人の事は早く忘れて、君は、君の思うように生きてほしい。それが私の、最期のわがままだよ」
白い鳥に抱えられて遠ざかる。その光景に手を伸ばす事しか出来ない事を、何より最期まで、彼女の言葉に何も応えられなかった自分の馬鹿さ加減を、俺は悲しく思っていた。
「・・・ああ、恋かぁ」
自分で言って、ようやくこの短絡的な行動の原因であった感情について納得出来たことが可笑しくて笑ってしまった。
現状、此方の側に付いた子機は既に七割が損失。足止めのオオミツヌも押されつつあり、この均衡が破れるのはもう間もなくだろう。
けれど、その時間は稼げた。今頃ベオくんは洞木と合流し、その後は最後に保っている解放された接続領域から離脱できるだろう。そうすれば、自分のやり残したことも終わる。
「ふふふ、おおよそ数百光年、遠く、永い距離と時間をかけて。上手くやり遂げた事がたった一つだなんて、なんてポンコツな侵略兵器なんだろうね、私って」
けれど、恋をした。遠く離れた異邦の地にて、辿り着いた果てのそんな結果は、顔も知らない創造主だって予想出来なかっただろう。それにそいつは多分私のオリジナルなのだから、この結果を知れば、ほんの少しくらいは感心してくれるかもしれない。
そんな自己弁護をしてみたからか、やるべき事を終えたからなのか、砕けていく子機の白い破片が降る雪のようにきらめいて見えて、何だかとてもいい気分だ。
こんな風に終われるのなら、今までの永遠に意味があったのかもしれない。そう結論を出して、静かに前を見る。
オオミツヌが膝を折り、最後のこちら側の子機の群れが相手側の群れに飲み込まれようとしている。合流したスクナも加勢しているが、それも僅かなあがきにしかならないだろう。
「・・・ああ、だけど」
確定された終わりを前にして、少しだけ、後悔が残ってしまう。
人間でもないくせに、人間らしい欲と言えば良いのか。やっぱり、この胸の内を今も占めるこれは、自分勝手な恋としか言えない。最期の最期まで、彼はきっと傷付いてしまうのに、それでも自分の事しか考えられない、そんな勝手を押し付けて遠ざけたのに、まだ彼を求めてしまっている。
我ながら笑ってしまう。オオミツヌを振り切ったトリフネが、この体を轢きつぶす為に迫る拳を見ながらでも、こんなことを考えているのだから、我ながら救いがない。
「うん、こんな事なら。せめてベオくんが寝てる間にちゅーくらい、しておけば良かったかなぁ」
機会は何度もあったけど。いつか彼の方からだなんて、そんな理由で後回しにしたのは、やっぱりちょっと、失敗だったかなぁ。
「そんな事は、後悔でも何でもない!」
轟音。その瞬間に間に合うために、失った足を無理に再生し。その一撃の為に、残ったすべての力を使い切って。目の前の敵を倒せずとも、この女だけは護ってみせるという願いを叶えるために、消費する切り札。通常であれば数分は維持できる逃走の為に温存されたそれを、刹那の数秒に凝縮する事で前進する推進力へ変換し、結果、実現する事が出来た事実。
「言いつけを守らなかったって、怒ったって知らないからな!君が自分勝手をするのなら、俺だって勝手をさせてもらう!」
君の気持を無視して、あんなに酷い事をしたのに。本当に、本当に君は。
「馬鹿だよ、ばかだよべおくん・・・!」
「馬鹿で上等だ!」
本当に、何時だって変わらない、私の大好きなベオくんなんだから。
ちょっと考えると分かる事なんだ。
俺を助けてくれた所長、俺を支えてくれる所長。
そして俺を誘拐した所長、俺を洗脳しようとした所長。俺を、自分の都合のいいようにしようとした所長。
うん、やっぱり、どう考えても何も変わらない。根本が同じなら、俺が考える彼女への想いは、何も変わっていないんだよ。
「・・・悪いアキト、ちょっとやることが有るんだ」
そう結論が出ると、何も思い悩む必要も無くて、あっさりと残り二本となった命綱を切った。
それからアキトの返事も聞かずに走り出す。駆ける速さは間を置かず最高速度に達し、目的地まで数秒、その瞬きのような間に、これまでの事を思い出す。
月夜見マナ。俺を拾って、生き方を教えてくれた人。俺の願いを聞いて、俺が信じることを出来るように守ってくれた人。その姿が、嘘をついたなんてそんなことだけで、なかった事になってしまう訳じゃないんだ。
だから、此処に連れてこられても気が付かなかった。あんな風に、あの街での生き方を捨てるように迫った時でさえ、彼女の事を敵だとは思えなかった理由だ。
それがずっと気になっていて、たった今、気が付く事が出来たのだから。もう何も、迷う事なんて無い。
だって所長は、マナは、何も変わっていない。
満足に言葉を話すことも、飯を食う事すら上手く出来ない自分に寄り添ってくれたあの出会いの日。
目が覚めると決まって。開く瞳に映る視界で待ってくれていて、本当に嬉しそうにおはようと言ってくれた朝と、自分が何者か分からなくて震えていた傍で、大丈夫だと見守り、寄り添ってくれた夜。
貰ってばかりが嫌で何かを返したくて、仕事を手伝いたいと無茶を言い出した俺を心配していても、最後はその意思を尊重してくれた。
どんな事が有っても無事に戻ってこられるように、生き方と、戦うための力を与えてくれた。死にそうなくらいにボロボロになっても、あのおかえりを聞くために、俺は何度も立ち上がることが出来た。
それは、何時も変わらないマナの匂い。
たった今までこの鼻に届いていた、俺を一番、大切に想ってくれているという、その匂い。
「ああ、俺はとんでもない間抜けで、大馬鹿野郎だよ!」
そうして間に合った。無理な稼働で残り数秒、それでも十分すぎる。その対価は、たった今得たのだから。
「君がどんなモノで在ったとしても、それさえあればいい。それさえあれば君がどんなに変わってしまっても、俺が変わる事は無い!」
「だからてめぇは、邪魔すんじゃねぇ!」
『理解不能、理解不能』
不意打ちに態勢を崩したフルングニルを更に蹴りつけて、ガス欠のフェンリルが勝手に解除されつつある状況で、私の手を取った彼は誤魔化すように笑っていた。
初めから逃走が目的なのだから、追撃は考えていないという様子で。さっさと私を抱えたベオくんは、何時ものように、それが当たり前なのだと告げる。
「肉体労働は、何時もみたいに俺に任せといてくれよ。だから情けないけど、ここからどうするかは任せていいかな?マナ」
ああ、本当に。恋というやつは、どうしようもない。今の今まで、あんな風に諦めで言い訳をしていたというのに。
「しかたないなぁ、ベオくんは・・・!」
情けない泣き顔を誤魔化すようにその首に腕を回し、胸に顔を埋めて思い切りその匂いを吸い込んだ。
うん、汗臭い。それに血とかいっぱい出てるし。なのにすごく安心できる、本当に、いい匂い。
ベオくん、私は君が好きだ。
あんな事をしておいて、あんな事を言っておいて。やっぱり、君を諦める事なんてできないよ。
この気持ちはずっと消えない。それどころかもっと大きく、この胸を満たしても、尽きることなど無いと想える。つまり君とおんなじで、何も変わらないってことだよね。
なら私も、何時ものようにしていなくては。
どんな時だって、彼の求めてくれる自分で居られるように。




