二つの月は自らを照らす太陽に共に在りたいと求める事ができるか①
「これが、例の器なのかい?」
その日の事は、良く覚えている。
語弊なく、星を滅ぼしかねない大罪を為すと宣言をした男が、私がその行いに与する事の引き換えに、と言うべきか。
彼が晒したその深奥。片腕たる黄金の戦乙女も、遠見の賢者も、今は亡き星の司書すら例外でなく。他の誰も足を踏み入れたことの無いという、その工房を訪れた時の事だ。
表向きの装いとは異なり、暗く狭い、他人が訪れる事を想定していない為か機能性のみを追求した造り。その空間を更に狭く感じさせていた理由。棚や床に捨てられるように、粗雑に置かれた品々は特に気にならない。その一つ一つが表と裏の歴史を塗り替える秘匿であり、城どころか国さえ買える宝であったとしても、異邦人たる自分にとっては別の知生体が刻んだ過去の羅列に過ぎない。人の紡ぐモノは全て、この個体にとっては意味もなく、何の価値もない。
その筈であったのに。だというのに、何故だろう。小さな、円柱の容器に眼が惹かれる。注視すればそれは、埃を被った他の宝とは異なり、その周囲だけは良く清掃され、整えられて、だから彼にとってのソレが、この工房内において唯一特別な存在なのだと理解する。
のぞき込むように屈んで見つめる、小さな二重の容器に安置されたそれは、中心に固定された円柱、内を満たす琥珀色の液体に浮かぶ紅い結晶体。これがどういったモノか初めは良くわからなくて、しばらく見つめていると、何となく正体が分かったものだから、一応確認するために彼にそう尋ねた。
「あまり気安く近づかないでほしいね。計画への協力には感謝しているが、僅かにでもソレに何かしようと考えた瞬間に確実にその肉体を消滅させてもらうし、君の本体も再構成不可能なレベルにまで砕く。それが僕に可能な事は、過去に身に染みて分かっているだろう」
「へえ、意外だな。何かにこだわるだなんて、随分と貴方らしくない反応だね」
不快感、を通り越した拒絶。彼と出会ってもう長くなるが、初めて見せた人間的なそれに素直に驚く。という言葉が正確かは分からない。
今でこそ肉体という器に収まり、見様見真似でそれらしい振る舞いをしてはいるが、生憎こればかりは経験不足だ。ただ、その、今まで見たことの無い男の執着とも呼べる感情に、ほんの少しだけ興味を抱いて、それ以上刺激しない様に、それでもその容器の内側を観察してみる。
そうして、識る。それがどういったモノであるのか。
あらゆる意味で、それは完全であり、完成していた。
満たされている。その円柱を満たす琥珀の海の中で、紅い殻に守られたソレは、外界という穢れを知る事も無く、きっと、まどろむ様に夢を見ている。
外の世界を知らず、己の内側だけを知覚し、他を必要としないのならば。
殻の内側は、一つのソレだけが知覚し得る閉じた完璧な世界である。だから其処に唯一在る存在とは、その小さな世界を統べる王であり、そして神であると言っても良いだろう。
「ああ」
ああ、だというのに。その完璧な世界に在る筈のソレは、外の、不完全な世界を求めて瞳を開く。
その、日に一度、いや、年に一度有るか無いかという稀な行為に、自分の小さな好奇心の芽生えという偶然が重なって、陳腐な言い方になるが、その奇跡が起こったのだと、後になって思う。
眼と眼が合う刹那とも言える瞬間、それを、永遠とすら感じられたのは何故だろう。
ソレ、いや彼が当たり前の様に瞳を閉じた後でも、私が彼から視線を離す事が出来なかったのは、何故なのだったのか。正直今でも、その時の自分の行動に上手く説明する事ができないだろう。
「興味を持つとは思っていた。しかし君が、其処まで劇的な反応を示すとは思わなかったよ」
「え?」
不快そうな表情は消えて、何時もと同じ無表情を取り戻した彼は指し示しながら言った。
「顔だよ、顔。其処の鏡を見てみると良い。ほら、その隣の壁に取り付けてある」
指摘されても、言葉の意味が良く分からない。私は、今どんな顔をしているのだろう。
言われるままに壁の鏡に眼をやって、ようやく己の今を占める彩を識る。
「他の者の仕草や、言葉では知っているだろう。君の、その行為。人はそれを、泣くというのだよ」
頬を伝う熱と、両の眼から零れ落ちる液体。知っている。眼球の乾燥を抑えるための体液の分泌。またはある種の情報伝達の方法。人間であれば誰であっても自然な、生理的な反応。
しかし。それ以上に、この器を満たすモノ。在処を知らぬ何処かを揺さぶられている、眩暈すら伴う、人間であれば、誰もがそうであると錯覚している、■と呼ぶ反応。
肉の身体とは解らないものだ。そんなモノが、自分に発生するだなんて。本当に、思いもしなかった。
「決めたよ。例の件、私が引き受ける」
「そうか。では、そのように取り計ろう」
「うん、もう私は必要ないと思うけど、後の事は佐山君と鷹野君に引き継いでおくよ。ああ、それから。一つ頼みが有る」
自分のその返答を知っていたかのように答える男に、付け加える事が一つ。今思いついたのだけど、これだけは、これからの為に事前に準備しておかなければならない。
「適当でいいから身分証明書を用意してくれるかい?レンタルビデオの会員証を作りたいんだ」
「・・・うぉ、なんでだ、寒い」
肌を刺すような痛みで眼を覚ます。意識の覚醒により交感神経が優位となって、失った体温を取り戻すためのシバリングに、無意識に摩擦による熱を求めて肌を擦る。
どういった訳なのか、寝入る前に感じていた夏の夜の蒸せるような暑さから比べると明確な異変、異様な程に低い室温に長時間晒されていたかのように、薄いブランケット一枚で眠っていた体はすっかり冷え切っていた。
「うう、どうなってるんだよ、これは」
あの行政中央ビルでの戦いの翌日。夜明けからなし崩し的に丸一日続いた後始末兼宴会をカラ元気だけで乗り切って、へとへとに疲れ果てて事務所のねぐらに帰り着いたのが日付が変わる前くらいだったか。
「・・・エアコンが壊れた、いやそもそもそんな気の利いたもんは無いんだった」
そういった高級品は、今の懐事情では事務所に取り付けるので精一杯。ガレージ兼従業員の自室なんぞに買う金は無い。だから仕方なく、扇風機のみで今年も夏を乗り切ったのだ。
とすれば、この異常な寒さはの理由は何だというのか?まさか秋を飛ばしてせっかちに冬がやってきたというワケでもあるまい。
時計を確認すると、時刻は六時を回った所だ。夏の今頃ではとっくに日が昇っている時間帯、だというのに周囲はまだ夜の様に暗いままで、もしかすると天気が良くないのか、それとも季節外れの異常気象と言うやつが起こっているのかも知れない。
実際に見た事はないが、条件によっては真夏でも雪や雹が降る事も有るとか無いとか聞いた事が有る。それに今でこそ四季が安定しているが、九界成立直後ではこういった極端な気候変動も多かったそうだ。加えて先日の戦いの影響という事も、可能性としては考えられる。
「にしても、これはちょっと寒すぎないか」
良く見ると、寝汗が凍ったのか犬頭の毛並みが固くとがっている。薄い寝巻ではこれ以上は耐えられないと、急いで冬用のダウンをクローゼットから引っ張り出して、袖を通すと外の様子を確認してみる事にした。
去年の、初めての冬もこれ程寒くは無かったのではなかろうか。時間的には、そろそろアキトが朝刊の配達にやって来るかもしれない。
他の知り合いも難儀しているのではないか。アリスやマグノリアはともかく、アヤナはこの変化に対する対処などで頭を抱えているのではないだろうか。
その様に色々と考えながら、冷え切ったガレージのシャッターを掴む。やはり凍り付いて、つめたい鉄が指に張り付く痛みに似た感覚に顔を顰めながら、一気に引き上げる。
「へ」
言葉が出ない。その光景に、視界いっぱいに広がる色彩と同じく、頭が真っ白になる。
それは天の黒。そして、地を埋める白。黒く、暗い色は空の全てを占めていて、残りは彼方まで、黒の境界線から続く大地は、何処までも白く輝いていた。
呆然と、土間用のサンダルでその白に一歩踏み出すと、自分の踝の半ばまで、さしたる抵抗なく白に埋まる。
そうやって知覚する、酷く冷たい白の正体は積もる雪である。ならば、やはりこれは異常気象の類と言うのか。
勿論、そんなはずは無い。その疑問は初めから、この光景によって明確に否定されている。
「・・・街は、何処に行ったんだ?」
そう、やはり彼方まで、この銀世界は続いている。何処までも平坦に、その果てまで。視界には、其処に昨日まで確かに景観の一部として見知った街並みは、どう見ても存在してはいないのだ。
急ぎ振り返れば、其処には唯一、確かに見慣れた月夜見探偵事務所が存在していた。それだけが不確かなこの異常事態の中で、唯一記憶に在る、これが夢ではないと伝える現実的な存在である事は間違いないだろう。
「は、はは。嘘だろ、オイ」
一年と半分という短い期間ではあるがこれまで本当に色々あって、その分散々に異常な事に直面してきて、最近の俺はもう大概の事には動じないであろうという自信があった。
先日などは、神様が造り出した異空間に殴り込みをかけ、どうにか生還したばかりなのだ。今更、ちょっとしたことでは驚きはしないと、そう思って昨日は眠りについたのだ。
それが、驚きを通り越して、目の前の光景を理解できない理由。それは、この空にある。
其処はあまりにも暗い。ニヴルヘイムでは夜ですら、都市から放たれる人工の明かりに照らされて、もう少し黒も白けて見える。それが今は、太陽など見当たらず、星すらも見えぬ深淵。何処までも黒が続き、大地の白と合わせて、この世界には二色の色彩しか存在しないのではないかと錯覚した。
そしてその錯覚は、黒に浮かぶその別の彩のおかげで直ぐに誤りである事に気付くことが出来た。だからこそ、黒でもなく白でもない彩。それを理解したくは無くて、大急ぎで数少ない現実のよすがである事務所の二階へと駆けあがり、凍り付いたドアを乱暴に開き、頼むから其処に、彼女が何時もと違うことなく居てくれる事を、心から祈った。
「は、はは」
幸運な事に、その祈りは直ぐに叶えられた。
広くない事務所の入り口に入って、応接室の奥に位置する書斎の更に奥。PCデスクの横、小さな角のスペースに備えられたベッドで、こんな異常事態の中でも、くうくうと呑気に寝息を立てているその人。
彼女、月夜見マナの姿を見つけることが出来て、こんな状況だというのに俺は心底安心してしまった。
「なあ、起きてくれよ所長」
触れるカタチと、僅かなぬくもりにすがるように揺すりながら声を掛ける。
普段であれば、俺は彼女を無理に起こす事は無い。来客が有る時でさえ、寝起きの悪い彼女が出来るだけ不快に感じないように、何度か小さく声を掛けて起床を促す。しかし、そんな余裕はこの状況で何処にも無かった。
まるで、ふいに迷子になった子供が、その保護者を探す様に必死に。そんな様子で、こんな異常事態の中でも。自分にとっての日常の象徴ともいえる、目の前の所長が当たり前に眼を覚ましてくれることを祈って。
「・・・う~ん。まだ眠いよ、ベオくん」
なさけない甘ったれは俺の筈なのに、変わらない、逆に此方に甘える様な声が聞けて更に安堵する。思えばこの人に拾われて暫くは、眠る前と眼が覚める度に隣でこの声を聞いていたのだから、条件反射みたいな安心の反応はこの際仕方ないだろう。
「って、そんな場合じゃないんだ、起きてくれ所長!緊急事態、非常事態なんだよ!」
「う、ん?どうしたのさ、ベオくん。溜まっていた家賃は払ったし、仕事も急ぎはないだろう?ああ、アリスちゃんか、鷹野くんでも怒らせて、殴りこんできたのかい?」
ああ、くそ。その変わらないとぼけた返事でようやくこっちも調子が戻って来た。
そうさ。彼女が居てくれれば、こんな馬鹿みたいな状況でも何も問題は無い。
「それならどれだけ良かったか!とにかく、外を見てくれ!」
薄いピンク色のパジャマに俺の上着を着せて、抱えるように外が見える窓際へと連れていく。
窓の外には丁度、俺が一番理解したくなくて、逃げ出した三つ目の色彩。其処に在っても、それを見る事はその外へと飛び出さなければ不可能な、蒼く、球形のソレが地平線の彼方に、発見の折と変わらず浮かんでいた。
「見えるか所長。アレってさ、間違いなく、アレだよな!?」
知識として名称は知っていても、それを口に出せずにアレという呼び方をしているのは、俺自身が正気を保つための最後のブレーキだ。
今だってそれを信じたくは無い。だけど、それでも彼女が、所長がそう言い切ってしまうのなら。正直言って嫌だけど、俺だって現実を受け入れる覚悟が出来ると思うから。
「・・・んん、んんん?」
寝ぼけ眼を擦り、何時もの眼鏡を掛けて、ようやく焦点のあった眼で。目の前のソレを見て、少し考えた後に彼女は俺ほどに動揺していないのか、それともまだ夢うつつだからなのか。ためらいも無く、当たり前に、ソレの正体を断言した。
「あれ、地球じゃないかな?」
「やっぱりそうですよね!?」




