騎士はその問いの果てに自らの進むべき道を見つける事ができるか⑲
体感として数十分にも満たない障害物走は終わった。
目の前には目的地、天を突く黒い茨の塔。アストライアの灯は相変わらず一定の方向を示していないが、振れ幅はかなり小さい。あの心臓に似た匂いも間違いなく、この場所から強く感じている。
「マグノリア、経過時間は!?」
「前回の滞在時間から計算すると、通常空間では既に三時間が経過しています。進行速度を考えれば、これ以上は前線が持ちませんわ・・・!」
「なら、速攻で決めるぜ」
手にする斧槍の柄を強く握ると、それに応えるように青い灯が灯る。
これがマグノリアから託された、『焔の呼び声』と対となる異なる記憶を刻む流星の片割れである。
立ち込める深いオゾンの匂い。それから周囲の大気が揺らぎ、歪む程の気圧の変化に、軽いめまいを覚える程だ。
「解せぬな」
勿論、此処まで近付いたら相手も黙っている訳が無い。この聞き間違えようのない空間に直接響く、幼い子供の様な、反して冷徹な威厳を備える王の声。
その響きの次の瞬間には、茨の塔から這い寄る蔓が身体を編むようにボルソルンの形を造っていく。だがその形は最早パズズの外面は不要であると、貌の無い茨の塊がどうにか人型を保っているだけだ。
「随分と余裕だな、自称腐れの王様さんよ。お前の軍勢とやらは役立たずばかりで、仲間が未だにその侵攻を阻んでいる。そして俺達は今、お前の喉元に届いた。見えてるか、その位置は崖っぷちだぜ?」
俺の少し馬鹿みたいな時間稼ぎの挑発も、全く意に介さぬといった様子で嗤うように茨の王は続ける。
「何を馬鹿な。今際の際は、お前たちだというのに」
「あ?」
後方へと手をかざすと、黒い茨の塔の中腹が、咲く様にゆっくりと開く。其処から現れたのは、更に密度を増して編み込まれ、僅かな隙間さえも血膿で固めた黒い尖塔であった。
「最早、手遅れだと言っているのだ七番目。この背の塔を見よ。此れは神樹を模した、所謂紛い物であるが、幾つか同じ機能は備えている。当然、黄昏とも。僅かではあるが繋がりつつあるのだ。この意味が今のお前に分かるか?」
神樹に黄昏、とは何だ?何処かで聞いた覚えが有ったのかもしれないが、良く思い出せない。こいつ等の親玉か何かだろうか。
「そこまで忘れてしまっているとは情けない。まあ良い、これであの裏切り者、ジウスドラの思惑がどうあれ、全て無に帰したという事だ」
また誰かの名前か。しかしその名を口にした際に、僅かに隠し切れない不快が滲む。それだけはこの理解不能な会話の中で、少しだけ愉快に思う。ああ、それと。相手と同じように、此方も準備が出来ている。
「意味分からねえ事を言ってんじゃないぜ。手前の寝言は聞き飽きた、これ以上は時間が勿体ねぇ。さっさと、くたばりやがれ!」
「ははは!初めての、そして最後の意見の合致というやつだな!貴様の出る幕など無いのだよ。死ね、腐れ果てよ!『黄昏の器』となるのは、このボルソルンである!」
塔から別れた茨が迫る。大小様々だが、最小でも俺の背丈を遥かに超える質量、単純な物量で、押しつぶし、磨り潰す。又は先端に滴る血膿に触れてしまえば、マグノリアが受けたソレとは比較にならぬ程に醜悪な呪いを受けて腐り落ちるだろう。
どちらの末路も、所要時間としては数秒も掛かるまい。成程、その宣言通りに相手側も問答の必要が無いという事だ。
前回と何も変わらない。この世界は、ボルソルンの腹の中。その内側では相手の思うがままで、そもそも戦いの土俵にすら上がれていない。
ハッキリ言って反則だ。それが分かっていたから、三番目の巨人は此処まで獲物がやって来ることを許した。むしろ確実に、彼の怨敵が息の根を止まる様を見届けるために。
それが分かっていたから、俺達は此処まで辿り着いた。相手の完全を逆手に取り、このボルソルンの胃の底から、今度は逆に、此方の土俵へと引きずり込むために。
反則には、反則でゲームの盤上を塗りつぶす!
「この手に、剣は有り」
その静かな、マグノリアの言葉に世界が静止する。
「この胸に、消えぬ灯が在る」
本当は、知らない異国の言葉なのだろう。けれど、その言葉の意味が解る。込められた、想いがこの胸に、魂に伝わるんだ。
「この剣は、幾千もの父の手によって鍛えられ、この灯は、幾万もの母の祈りによって紡がれた」
ボルソルンはその指先すら動かせずに、言葉も発せず、理解出来ぬと視線を巡らせる。そして、俺達を押し潰そうとしていた世界の全ても同じように静止したままだった。
「求めるモノはその子らの、明日へと続く路を拓く剣。その足元を、照らす灯の光」
光が溢れていく。これこそが連盟の十の騎士隊、その長が任される切り札、『天使』。その開放の瞬間である。
天使の開放は、実は初めてで。本当に自分にその資格があって、その上で天使が応えてくれるのか、正直自信が無かった。
それも、昨日までの自分。
「我らは、その担い手である。呼ぶ声に応え、力なき同胞を護るべく。暗き夜へと先立ち、その闇を照らし、進む騎士である」
今は解る。かつてこの天使を用いる事で、自らと引き換えに強大な伝承体を道連れに、後に続く者達を護った祖父の気持ちが。
そして今は自分も、隣にいる彼の事だって。
「何時か、遠く旅発つ子らの、その頼もしき背を見送る為に。今は、我ら此処に在り。剣を携え、灯で道を照らす。全ては、その時を迎える為に。世界の最果てにて、この使命を遂げるまで戦い続ける事を誓う」
まだ、一緒に行きたい場所がある。見たい景色がある。紹介したい人が居る。沢山伝えたい事が有る。だから、此処で自分は死なないし、絶対に、彼も死なせはしない。
「故に、我が声に応えよ」
記録に残る初期の天使とは、光る翼であった。神の威光を乗せ、届ける翼。人の伝承は、其処に最も純粋な輝きを見つけ、祈りを捧げたのだという。
『我が勝利を掲げよ、ハニエル!』
古ぼけた十字が割れ、光が溢れる。
伝承体が、通常空間を侵食して形成する己が空間、神殿。その内側を超えて、削り取る様に、光の翼が両翼を広げ、二人と、空間そのものと言える程に巨大なボルソルンを内側へと、更に包み込んだ。
連盟の保持する十の決戦伝承兵装、通称天使。
その一つ、『勝利のハニエル』。之が秘めたる権能は、どの様な場所であっても光翼の内側に展開する更なる別空間へ使用者と任意の対象、そして敵対者を引きずり込む絶対の隔離結界。言葉にすればそれだけである。
そしてその内側では、どの様な暴挙に及んでも外界には影響を及ぼす事は無い。つまり場合によっては我が身を顧みない大量破壊兵器を使用した自爆、又は使用者が死亡したとしても敵対者が活動を停止するまで絶対に開かれることの無い、相手にとっては取り込まれれば最後の、必殺の檻。
故に、勝利のハニエル。それは例え自分が死するとも、悪と定めた敵を必滅するという、覚悟の勝利。
「けれど、私は独りではありませんもの」
背に光翼を纏い、まるで今に語られる天使の様に。マグノリアは想う男の手を取って高らかに告げる。
「この勝利は、側に在る人と共に掲げるモノであるのだから!」
「馬鹿な!何だ、何なのだこの空間は!黄昏との接続が断たれるだと!?」
悲鳴のような絶叫に、先程までの余裕は無い。まるでその声のまま、急に迷子になってしまった子供の様に困惑するボルソルンを、俺は微塵も哀れだとは思わない。
「完璧だぜ、マグノリア。アイツの核を完全に捉えた。この空間に切り取った茨の全てを焼き尽くせば、俺達の勝ちだ」
ハニエルの隔離空間に取り込んだとはいえ、ボルソルンの核を含めた黒い腐れの茨は質量として膨大。
これが一片でも残れば意味はない。通常であればどれ程の兵器を用いればこの全てを焼却出来ると言うのか。
しかしそれは、それらを焼き尽くす事は、今の俺達なら全く不可能な事では無い。
「出番だぜ、『嵐の抱擁』。燃えるお前を抱え、砕けぬようにと受け止めた嵐を吹かせろ!」
二人が生還するために必要な最後の条件、フェンリルによって発動に必要な魔素を蓄えた、嵐の抱擁と呼ばれた斧槍の青い輝きが更に増し、頂点に達する。
それこそが、遠い旅路の果てに辿り着いたほしを受け止めた嵐。その終わりに、永遠に記憶にとどめた古い記憶の再現である。
自分を呼ぶ声を信じて、遂にほしはたどり着きました。自分を呼んでくれた青いほしに。
嬉しくて、本当に嬉しくて。ほしは、一つお返しをしようと思います。
自分が地に墜ちれば、古い記憶は失われてしまいます。だからその空白に、その短い間で青いほしの空で見聞きした記憶を留ようと思いました。
それが何時か、遠い未来の、このほしの沢山の命に伝わって。ほしの優しさが何時までも残るように。
一つ目は、長い旅路ですっかり冷えた体を温めた焔。このほしの新しい欠片となる為の流星の熱。
そしてもう一つ。それは流れる流星となったこの身を受け止めた嵐。小さなほしがくだけぬ様に、優しく受け止めた嵐の抱擁だったのです。
そうしてほしは、今は青いほしの欠片となって、約束通りに何時までもその記憶を覚えているのです。
その思い出が、この星の命を温めて、優しく受け止める様な。そんな記憶になることを信じて。
「焔よ、星の熱よ!嵐に乗って猛り舞いなさい!」
「吹き荒べ嵐!炎を育て、腐れをまき散らす茨を塵も残さず焼き尽くせ!」
流星の熱が嵐によって育まれ、現実では起こり得ない巨大な焔の壁となってボルソルンを包む。
ともすれば使用者を焼く焔は、嵐と共にある今ならば敵を違えない。二人を傷つける事無く、聳え立つ茨の塔のみを覆う様に波打ち、押し迫る。
「が、あああああああああああ!」
互いに出し惜しみの無い必殺の応酬の結果。後出しの分、ボルソルンの完璧な勝利は今や覆され、勝敗は明白であった。
その行為にどれ程の意味があったのか。炎を押し戻そうと足掻く茨が、その先端から灼けて、見かけはともかく本質的に実体を伴わない為なのか、後に灰すら残さずに消滅していく。
「こんな馬鹿な、伝えなければ、黄昏よ!伝えなければ!」
最早その殆どを焼き尽くされ、内部に炎を吸い込み、また焼かれながらも絶叫するボルソルン。王の風貌はとうに失せ、燃え残った塊は時間の経過と共に減少していく。
「おのれ、ななばんめ!うらぎりもの、うらぎ、り?」
そして、その言葉が止まる。今更になって何かに気が付いたようで。それは初めて、俺の事を七番目と呼んだ時と同じ、疑惑と驚嘆を含んだ声色だ。
「ああ、ああああああ!?なんという事だ!」
その声は、自分の決定的な誤りを知ってしまった故に。そしてそれは、今、自分が滅びようとしている事すら、些末事であると言わんばかりに。燃える喉を振るわせて、三番目の巨人は求める相手に決して届かない叫びを上げた。
「ななばんめが、うすれている?こんなばかな、こ、んな、まさか、じうすどら、きさまが!」
その驚嘆の足掻きで、意味も無く炭化した体は崩れていく。
相変わらず意味が分からない。まあ、死んでいく奴が何を言おうと、心からどうでもいい。
「さようなら熱砂の魔神、パズズの姿をした影法師。この世界を蝕むために何度現れようと、私が、その後に連なる誰かが、おまえを必ず阻みますわ」
「とっとと燃え尽きな、クソッタレの茨野郎が。手前の言葉は、やっぱり何一つ響かねぇよ」
そう言って掛ける言葉は、別に相手に届いていなくても良い。マグノリアには己に向けた宣言であって、俺にとっては只の嫌味くらいの意味しかないからだ。
「こんな、ばかな、黄昏の、うつわたる、われ、が」
何か言おうとして、最後の茨の一塊が燃え尽きた。その中心に、紅い岩の心臓の様なモノが見えたが、逆巻く余燼に紛れて燃え尽きていく。
「お、っと」
その敵対者の終焉を、きっと天使が見届けたのだろう。光の天蓋が解けて始め、まだ暗い空が見えた。ハニエルの空間が解除され、またパズズの神殿も消滅していく。
風を頬に感じている理由は嵐の抱擁の残ったそれでなく、物理的にビルの最上階エリアが吹き飛んで、とんでもなく風通しが良くなっていたからだ。
「状況、終了ですわね」
輝きを弱めていく十字を抑え、少し息の荒いマグノリアが宣言した。互いにどっかりと腰を下ろして一息ついて、今回の事件がようやく終わったのだと分かる。
「ああ。嫌な臭いも全部消えたよ。後始末を考えると頭が痛いが、取り敢えずは一件落着だな」
「本当に。それにしてもこの事態を、どう連盟に報告したら良いものか。此処まで壊してしまったら、立て直した方が早いかもしれませんわ」
言いながら彼女は笑い、俺もつられて笑顔にしまう。
見下ろす地上の詳細は分からないが、普段通りに見える街並みは、きっと後を護ってくれていた皆の働きを証明するもので。誰も欠ける事無く、この大きな戦いを乗り越える事ができたのだと、そう信じる事ができたから。
「かっこよかったぜ、マグノリア。あの十字を使った時なんかさ、君が本当の天使か、女神に見えたくらいだ」
そう言って、約束したからではないが、約束したように彼女に告げる。
夜が明けようとしているのか、星の瞬きはまだ残り。けれど朝日の前触れの様に、夜の帳が明ける薄明の中。
それでもはっきりと、この目にはその光景が映し出されている。マグノリアは一瞬惚けた後に顔を真っ赤にして、それからきっと、今回一番の笑顔を、俺への返事にと応えるように。
「ありがとうございます、ベオさま。ええ、私はきっと、その言葉を聞くために。どんな敵にも怯む事無く、どんな戦いの後でも、貴方の元へと帰ってくるのです」
きっとこれからも、何度もそう伝える事になると思うし、そう在ってほしいと俺自身が望んでいるのだから。
だから、俺自身が彼女に応えられる自分で在りたいと想う。この後に続く未来、この約束が何時までも続いていくように。
戦いは終わった。彼女は暫く連絡を絶っていた連盟へと状況の説明を行わなければならず、少しその場を離れる。
そうして暫し一人きり。いや、少し違う。後に残ったのは丸ごと吹き飛んで屋上になってしまった最上階と、燃え尽きた筈の、黒く残った燃え残りだった。
「は、はは。いい気味だ、パズズめ、ボルソルンめ」
「驚いたな、クソ野郎はクソになってもしぶといのかよ」
それが、ボルソルンに取り込まれ、脅威足り得ないとハニエルに判断されたヴォルコフの燃え残りであった事に気が付くまでさして時間を必要としなかった。そういえばパズズは異郷の神なのにえらく流暢な日本語を話していた。その理由がこいつを取り込んでいたという事ならしっくりくる。
「悪いが、アンタ死ぬぜ。で、別に俺はそれを哀れとも思わないさ」
目の前のこの男は最早風前の灯、というよりは風が吹けば解けるように飛び去ってしまう燃え残り。
言葉にしてみたが、実際には悪いとすら思ってはいない。こいつは自分の野望の為に他人を犠牲にして、失敗しただけのクズだ。さっさと止めを刺さないのは俺自身死ぬほど疲れていて、単に煩わしいだけである。
「どいつもこいつも馬鹿ばかりだ。何故、おかしいと思わない。何か裏があると考えない?そもそも何もかも異常なのだ。バルドルは、この九界は」
「あ?」
自分の最期を察しているだろうに。残る者への嫌味のつもりか、燃えカスは話す事を止めようとはしない。
「そもそもの、十年前の、この九界を構築するに至った大異変。その発生直後に、国家が、土着の魔術結社すら介入できずにいた状況に、何故バルドルがあれ程まで完璧に対処できた?」
聞いてもいないのに、知るか馬鹿野郎。そもそもかつての日本にもバルドルの支社は在ったらしいじゃないか。ならば、其処の職員が何らかの対処を行ったのではないか。
「今回の様な通常空間を侵食する形である神殿ではない、完全に存在する位相が異なる異界だぞ?数年、下手をすると数十年は掛かるだろう内部との通信確立、更にはその出入り口であるセントラルゲートの建造。これを、バルドルは三ヵ月で行った」
それは、自分でも知っている知識だ。
「ならばこれはどうだ?私は、当時から最高幹部の一人としてバルドルに属していた。その、私を含めて他の幹部たちも、誰一人として九界への対処には関わっていない。これ程の大惨事に、会長は当時まだ十代の三上と、日本支部。そして現バルドル開発局のみで完璧に対応したのだ。そしてその開発局には、貴様も良く知る人物が含まれている」
それは、一体誰だ。
「月夜見マナ。ユグドラシルを貫く越界鉄道ビフレストと、それを管理するラタトスクを創り上げた、戦乙女の研究にも深く関わっていたという、かつての開発局局長。あの女は九界のバルドル支配確立と共に会社を去り、丁度一年と少し前、貴様の出現と共にニヴルヘイムへと再度現れた。私がどれ程精査しても、その出自も含め何もかも正体不明であった魔女がだ」
「所長が?」
一応、所長が元バルドルの人間であったという事は何となく分かっていた。アヤナの態度や、ベルとのやり取りでそれなりの地位に居たのだろうという事も。それが、まさか九界を構築する折の、ベルの右腕の様な存在であったとは。
「そして、災害発生時から復興までに費やした数年、その際に浪費した資材に資金は大国の国家予算数年分に当たる。試算だが、これ程の投資は未だに回収しきれてはいまいよ。つまり金が目的ではなく、単なる慈善である筈がない。ならば、何が目的だ?」
金が目的なら、既に収支は火の車。支配が目的、である筈は無い。天性の王であるベルは、そんな意味のない形式にはこだわらないだろう。
「そうだ。だからこそ、意味が分からない。理解できないのだ。バルドルは、ベル・バルドルという男は。一体どういった目的で、これ程の事を成したというのだ?もしかすると奴は、今もなお得体の知れぬ計画を着々と進めているのではないか?」
分からないという事は、恐ろしい事だ。如何に素晴らしく、如何に優れた行いであっても、其処に理由を見出すことが出来なければ、人は恐怖を覚える。
「はは、は。そもそもお前には、分かるまい。ベル・バルドル。あの男が支配者として、永遠に君臨する恐ろしさが、その、完璧な男が行う矛盾が。どれ程愛でられようとも、絶対者が存在しているという事実。それ故に何時、肉にされるかも知れぬ家畜の恐ろしさが」
その恐怖が、ヴォルコフをこれ程の強行に走らせた原点なのだろうか。
「ああ、そうだ。あの男の支配は、心地いいのだ。私が幼い頃に感じた、陶酔する表情を浮かべた父に促され、あの男の前で跪いた瞬間に胸を満たした充足感は今でも覚えている。確かに全能の王が支配する民は誰も彼もが幸せと感じるのだろう。その民は王が命を差し出せと命じれば、疑いも無く、自ら喜んでそうする程に」
ひび割れた唇が砕け、枯れ木が折れるように白い歯が砕ける。それ程の激情を込めて、命の浪費を加速させながら、ヴォルコフは呻く。
「ふざけるな。認められるものか!私はその様な、思考を放棄し、判断を他人に委ねる豚になるつもりは無い。祖父や父の様な、飼われるだけの家畜に成り下がるつもりは無い!私は、私の尊厳を守る為にこの反逆を実行したのだ・・・!」
確かに、今の話を聞いて益々ベルが何を考えているのか理解できない。
感情の匂いが何故か分からないという事も有るが、飄々としたふざけた調子で、気が変れば九界の人間を皆殺しにも出来る実力と権力がある。そしてそれが必要なのだと判断すれば、躊躇いも無く実行するだろうという予感がある。だが。
「関係ないね。俺は何も、変わらない。お前みたいに恐怖に走らされもしない」
それだけは違いない。意味もなく、恐怖に靡くのは趣味じゃない。
「俺がアイツを殴る時は、俺の大事な人達に手を出そうとした時だ。その時は、容赦しないさ」
俺の答えに、驚いた様に、そして純粋に。本当に最期だからなのか、威厳も、虚飾も無い乾いた笑いが彼の口から零れた。
「・・・は、は。これ程まで考えがないとは、救いようのない、馬鹿め。盲目に、当たり前に明日が来るなどと、なんと、愚か、な」
そういって、男は自分の言葉に初めて気が付いたかのように、その理由を見つける。
「そうだ。私は、恐ろしかったのだ。明日が、その先に待つモノが」
その言葉が、やはりその男の最期の生命活動になった。
ヴォルコフは本当に燃えカスとなり、見届けた俺はその辺に転がっていた適当なぼろ布を掛けてやる。
それが、一度はニヴルヘイム総督とまでなった男の無残な末路に対して少しだけ湧いた憐憫からか。間違っていても、自分の信念に殉じて逝った姿勢に同情したからなのか、本当にその姿が見苦しいと思ったからなのかは、正直今でも分からない。




