犬頭の王様は黄昏を越えた未来で何時でも明日を夢見ていられるか⑭
予定は正確に、日付が変わる午前零時。その瞬間に、世界の柱、九界全てを貫くユグドラシルに異変が生じた。
白い外殻は、一瞬で黒に転じ。徐々に上層へと変化は連鎖する。避難と稼働を終えて、既に封鎖されていた内部区画の障壁が次々に破壊、突破される通知が続き、ニヴルヘイムから最上層のアースガルズまで、その全てが白から黒に塗りつぶされた時。ニヴルヘイム、サードに広がる荒野、その空に巨大な亀裂が発生する。
「空間断裂現象発生、ムスペルヘイムにて観測されたパターン、『ヘイムダル・サイン』と完全に一致!」
観測班から告げられる事実は、隔たれていた世界が、切り裂かれ、一つになる現象を意味している。
今まで誰も耳にした事の無い、形容しがたい破砕音。それは、世界が割れる音。まるで笛の音の様に、高く、終わり無く何処までも伸びるように響いたその音に合わせて、亀裂は大きく、天と地を繋ぐかの様に。そうして、その中心から、染み出す様に、這い出す色は夜の色とは異なる黒。
その黒い炎が、世界の亀裂を、門を開いていく。
ゆっくりと、時間にしては数十分程。空の大半を呑み込む黒の炎は、日輪を象り。完全に異界を繋ぐ門を開ききって固定した。足元には黒の炎が染み出して、端から世界を灼いている。そしてその先端から、世界を滅ぼすべく、収穫すべくその軍勢が、行進を始める。
「ユグドラシルを橋頭保として各階層、並びにセントラルゲートにまで敵巨人勢力が到達!間も無く障壁を突破し、先行した軍勢によって、各階層でも侵攻が開始されると思われます!」
そうして。黒き日輪、その中心に。更に強く、渦巻く炎が見えた。
アレこそが、此度における、終焉の顕現。彼の物語においては、神々、人々どころか。敵味方の区別なく、世界の悉くを焼き尽くし、灰燼に帰したという炎の巨人。
「最大目標。最後の巨人、『スルト』を確認しました!」
戦いが始まる。本来であれば、どれ程に備えたとしても、抗えぬ終わりを告げる戦いが。
結局、どう足掻いた所で九界全ては黄昏に飲み込まれる運命に在る。何か抗う術が有ったなら、あの黄金の王、ベル・バルドルは九界と引き換えに息子を救うなどという選択をしなかった。
それしか無いから、それ以外の全てを犠牲にする。他に比類なき、人類最高の王ですら、そうするしかなかったという現実が、この絶望的な戦いの結果が明らかである事を、辿る結末の全てを物語っている。
だが、一つだけ。ベルの想定を超えた可能性が、此処に在る。
「さあ、俺たちの出番だ」
それは、ベルがスルトに比肩すると選んだ終焉の一方、魔狼としてのフェンリルでは決してない。
ただ喰らう、というだけの、そんな魔狼ではまるで足りていない。これは、単純な数の問題で。絶望の極みたる終焉が、互いに争った時。先に述べた様に、如何に世界を喰らう能が与えられているとはいえど、たった一匹の魔狼では、どうあがいた所で結末は目に見えている。
「皆で、一緒に頑張ろう」
ベオが、その父から受け継いだ王の権能、その極みたる黄金。バァルの鎧を身に纏っている。
その他に類のない、星の様に眩く輝く黄金も、迫りつつある黒にはまだ届かない。その差はベルも、黄昏ですら想定済みで、これだけではどう足掻いたとしても、まだ結末は変わらない。
「皆で一緒に、戦おう」
その声は、この九界で鳴り響く、破滅の笛の音よりも小さく。だというのに、誰の耳にも確かに響いていた。この世界に在る、戦う事を選んだ全ての者に。『バルドルに連なる』と、そう示した全ての者に、遍く響き渡り、その胸に確かに届く。
ベオが、何かを掲げた。ソレは酷く、汚れて見ずぼらしいぼろきれの様で。近くで見ると、どうにかソレが、何かの毛皮の様であると知る事が出来る。
これこそが、ベル・バルドルが辿り着けなかった、それでもきっと、その息子。ベオになら届くと、そう信じて託した可能性の結実。ベオの頭に在って魔狼として幾度か彼を救い、人として生きる為に、最後まで用いる事が無かった力とは、異なる可能性。
鎧の内側から、光り輝く紐が現れる。最後の封印、これは彼が人である事を担保する、最後の護り。それを失う事はかつて、ベオが人として生きる事を手放す事を意味していた。
だが、今は違う。
「皆で一緒に、明日へ行こう。命は何時か、消えてしまうモノだとしても。生きている全てにとって死は、免れない運命なのだとしても!今は、今だけは。この夜だけは一人も欠ける事無く、誰もが揃って。皆で、この終焉を越えていこう・・・!」
黄金の光を放つグレイプニルが、鈍い灰色のフェンリルの毛皮と一つとなる。
光はより強く。極限に至ったその輝きはまるで、掲げられた王冠の様で。バァルの鎧を纏うベオはその端に触れて、そのまま己に戴いて、そしてこの輝きと遂に一つとなる。
その輝きは、あまりにも強く、そして暖かなモノだったから。この暗く、黒き炎が天に在る世界において、もう一つの太陽として存在している。
だから他の者たちには、少なくともニヴルヘイムの戦場で、これから戦おうとしていた誰にでも、ハッキリとしたカタチを以て目にすることが出来たのだ。
それは、黄金の犬頭。バァルの頭に、まるで始めからそういったカタチであったかの様に。
雄々しく吠える意匠で存在する、フェンリルであって、フェンリルではない、ベオが選択した王のカタチである。
即ち、魔狼ではなく、狼の王というカタチ。そのカタチを以て、ベオは、黄金の犬頭は九界の全て、其処で戦う全ての人々に届く声で吼える。
「『俺たちは皆、この黄昏を越えて。明日を生きる、バルドルである』!!」
その声に呼応する様に、黄金の輝きは全てのバルドルたちに波及していく。そして声を受けたその全てが、同じく黄金の輝きを纏い、世界を焼き尽くさんとする黒き炎に対して、決して引けを取らぬ光として、其処に在り続ける。
「なあ、聞こえてるんだろ。意地なんて張らずに、そろそろ教えてくれたって良いじゃないか」
耳元で煩く、子犬がキャンキャンと騒いでいる。それがあまりにも煩くて仕方なかったから、最後まで無視しているつもりが、少し言い返してやることにした。
「煩いぞ、子犬め」
「あ、やっぱり聞こえてたんじゃないか」
「黙れ。我は、人と言葉を交わすつもりは無い」
用件は分かっている。こんな事にいちいち返事をする事も無いと考えていたが、やはり人間とは矮小で、どうしようもない生き物だ。
「心配しなくとも、あの黄金の王との契約は履行するさ。その時は精々、世界を喰らう魔狼としての我を利用するが良い」
あの黄金の王、ベル・バルドルとの契約。それはもし、ベオが第五の巨人を斃すまでの間に、己の封印たるグレイプニルを維持できていれば、一度だけベオの望む様に魔狼としての役割を果たすと。
それはこの後に控える戦いにおいてはバルドルの想定にて必須の要因であり、きっとこの子犬も、その契約の履行を求める為に、己に話しかけ続けているのだと、そう理解していた。
「え、全然違うよ」
「は?」
だというのにこの子犬は、心底不思議そうな間抜け面でそんなことを言う。
「俺が確認したいことは別の事だ。だけど、その前に、お前に聞いておきたいことが有るんだ」
「確認に、聞きたい事、だと?」
やはり、人間とは理解できない生き物である。本来であれば最優先であるべき事契約の履行を求めず、確認だとか、他に聞きたい事があるだなんて。
「そうだよ。なのに何時までも無視してさ、時間の無駄も良いとこだよ」
ぷんぷんと怒る様子の子犬。ベオはそうして、先ずは己が聞きたかったという事を尋ねる。
「・・・は?」
自分にとてソレは、やはりあまりにも想定外の問いであったから、思わずこっちも間抜けな声が出た。
「訳が分からぬ。それを知って、一体どうするというのだ。そんな事に何の意味が在る?」
「意味は有るさ。少なくともそれを知って、その後に続く話も続けられるだろ。だからさ、教えてくれよ。お前の本当の名前」
ベオはそう言って。変わらず意味の無い、お前の名前を教えて欲しいと、そんな言葉を此方に尋ねた。
「別に、今のままフェンリルで良いではないか」
「そういう訳には行かないだろ。そりゃあお前はフェンリルに違いないんだろうけどさ、それはこの九界での役割であって、元々の名前って訳じゃないだろ。そいつが知らないうちはどうにも気になって、話し合いもまともに出来ないよ」
己はベオとは違い、相手の想いが匂いで分かるだなんて芸当は無い。だが、古くから人を見て、只の狼として生きていた間はずっと人と争ってきた自分には、その言葉が事実かどうかくらいは見分ける事が出来るのだ。
そして、その経験がどういう訳かこう告げている。この目の前の子犬は。心から他の意図なく、純粋に己の名前を訪ねているのだと。
「それを知って、何とするのだ」
「別に、それだけで何かある訳じゃないさ。ああ、けどさ。生まれてからずっと一緒だった相手の名前を、ちゃんと知っておきたいって事は。そんなにおかしなことなのかな?」
「・・・は」
ああ、そういえば。この子犬は、そういう人間だった。
言葉こそ交わさぬが、その眼を通して、己も同じ光景を見てきたのだ。そのどれもがちぐはぐで、生き物とは、特に人間とは利己的で、どう取り繕っても己の保身を優先する、そういう愚かな存在である筈なのに。
ベオは何時も、想定とは違う選択をしてきたという事を、己は事実として知っている。だから、始めは早々にあの黄金の王との契約を終える為に、色々と唆す事もあったが。それがまるで意味のない事だと理解してから、ただ眺める事にしたのだ。
そうして過ごす、何でもない日々。そのどれもが人間としての当たり前の生き方とは違っていて、だからこそ、それは人間らしい生き方であったのだと。
「は、はは」
ああ、そうか。我が、あのベル・バルドルの今際の際で、ああして黙っているつもりが余計な事を言ったのも当然だ。
「は、ははははは!」
そうだ。今、ようやく自覚した。我は、ついうっかりコイツに同情してしまったのだ。
そうせねば後悔するぞと、まるで同族の、年長者の様に。声をかけてやらねばならないと、この子犬の事を、そう心配してしまったのだ。
「ははははははは!馬鹿だ馬鹿だと分かっていたが、やはりお前は、底抜けの馬鹿だ!」
「なんだよ。うるさいぞ、ベルみたいな言い方しやがって」
そういって少し拗ねた様子のベオに、どこか意固地となっている事が全く意味が無い事であったと知る。
「良いだろう、教えてやるさ。我が、フェンリルの名と、その役割を充てられる前。遥かな過去、大地をこの四つ足で駆け、己の群れを率いて生きていた時代」
ああ、自分でも、その名で自分を表す事は随分と久しぶりだ。
元より、人間は好きになれない。暗き安らぎの住処であった森を拓き、肉や毛皮を求めて同族を狩った姿を、憎悪していると言っても良い。
だがこれだけが唯一、そう人から呼ばれて、その響きだけは良いと。そう想ったから、そのまま自分でも己を示す名として名乗った名を。
「鈍足で愚かな人間どもが、今ではくすんで鈍い灰色となった、元は太陽の如く、黄金に光り輝く毛並みを畏れ、そして憧れて呼んだ、その名を!」
そう名乗った後、ベオは何度か繰り返す様に呟いて、その意味が分からないくせに、良い響きの名だと、そう言った。
それからようやく、此方の了見を得ないまま、本題としての話をベオは続けた。その求める所は、やはりあのベル・バルドルが想定していた己の利用方法とは違っていた、自分の安全や存在の担保を全く顧みないそれであったから。
やはりベオは、コイツはどうしようもなく、馬鹿な人間であると今でも思っている。
「・・・ああ、そうだ。お前はどうしようもない大馬鹿だよ」
再び、バアルの鎧越しではあるが、同一となる事で良く分かる。この男は、ベオの本質は初めから今まで何も変わってはいない。
これまでの日々で、あんなにも色々な出来事が有ったというのに、改める事無く、こうして今も存在している。
「良いだろう。お前が、何処までも全てを飲み干す、唯一独りであの炎の巨人と拮抗する魔狼としての生き方を受け入れぬというのなら。それでいて、王としての生き方を望んだにも関わらず。あの王の極地たる、黄金の王の在り方を選ばぬというのならば」
我が、真なる名を以て。もう一つの終焉たる魔狼でもなく、人の極地たる黄金の王でもなく。
「お前が、我と同じく『狼の王』たる、その極みを目指すというのなら!ああ、そうだ。頼りなく微かで、僅かでも。それは間違いなく、お前が求める結末に通じているとも!」
ああ、そうだ。だから、我が真なる名を。今は遠き過去、その黄金の毛並みを、太陽の如くと畏れ、称えてそう呼んだ名を。
「今こそ我らは、その願いを遂げる為に一つとなった。さあ、呼ぶが良い!太陽の毛並み、その名、『ソォル』を!そして、お前が狼の王としての在り方を選ぶというのなら。その力は滅ぼす為に喰らうモノでも無ければ、絶対の存在として数多の上に君臨するモノでも決してない!」
ああ、本当に馬鹿だ。我が身可愛さでは決して選ぶ事は無く、敵を倒す事だけが目的であれば、想定すらしていない。
ああ、だからこそ。お前はその答えに辿り着いたのだな。
これからもずっと、誰かと共に。その傍らに、在り続ける為に。
「即ち狼の王の力とは、『己の群れを率い、己の群れを護り、なにより己の群れと共に在る為の力』であると識れ!」
フェンリルを否定したくせに、バルドルだけでは足りないと、そんなベオの選んだ可能性。
それは、『ソォル・バルドル』。
その己の群れを率い、護り、共に在る為の力とは、狼の王の権能とは。この九界に存在する、『バルドルに連なる全て』に、単純に己の力を分け与えるというモノであった。
その対象が多すぎる故に本来であれば数分どころか、数秒も維持できまいその馬鹿げた権能を支えているのは、奇しくも一万年もの長き間己の内にため込み続け、使う術をまるで知らなかったが故に少しもその目方を減らすことなく、この日まで貯蔵され続けてきた存在の力、膨大な魔素である。
そうして、その意図のままに黄金は九界で戦いを始めた漏れなく全てのバルドルに連なる者たちに伝播して、完全に行き渡った。
それはさながら、世界を呑み込むべく迫る黒き炎にすら拮抗する、遍く世界の全てを照らす、黄金の陽光であったのだ。




