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イズ ミー

 指先に僅かな刺激が走る。何かが起きているらしい。

 蓮は己の手を見た。異常なほど白くなった肌は、不健康そのもの。かつての肌色は失われ、青い血管か浮き出ている。

 傷口らしきものはない。体のどこにも異常は来していないらしい。であれば自分発信ではなく、他者からの刺激を感じたのだろう。

 かつて人が行き交った広場は、今では荒み雑草さえも嫌う場所になってしまった。使用人たちが磨き上げていた柱は朽ちて折れている。水路は枯れ、黒い汚れがこびりついていた。


 『変わらぬものはない。例え神であっても、その流れには逆らえないのである。』

 蓮は知った。


 栄えていた都でも、生物がいなくなれば廃墟と化す。あれほど人々が信じて疑わなかった永遠の都は滅んでしまった。

 大理石の足場を歩き、空を見上げる。曇天の空は国の行く末を案じているように見える。先の見えない不安から来る反乱は、あっという間に国を滅ぼしてしまった。始まりは石でさえも動かせない小さな波紋だったというのに。

 かつて共にこの道を歩いた使用人は、処刑された。彼は忠誠を誓う相手を間違えたのである。彼の主は生物の皮を被った化け物。自身のために他者を滅ぼすことを躊躇わなかった。

 幼い頃から共に歩んだ好敵手は、自身を捨てた。高貴なる身分を捨て、俗世に紛れた彼は目も当てられない姿をしていた。かつての強さはなく、人間と共に生きることで弱くなり果てた。

 自分のことを生んだ女は、愛することを諦めなかった。自身の子供が化け物だと知っても尚、共にいることを選択した。その結果、子供に殺された。

 全ての生物は、蓮共に歩みその生涯を終えた。悲しみはなく、躊躇いもない。共にいることは今も変わらないのだから。

 蓮は不意に口許を拭った。思い出したのである。

 今にも死にそうな体でも、蓮を睨み付けたその姿。かつての優しさは失せ、己の運命を知りつつも気高い。美しく、唯一無二の強さを宿した神の化身の姿は、今も尚目に焼き付いている。

 その肉を口にしたとき、痺れるような快感を覚えた。生暖かい血肉は蓮の想像以上に、食欲を掻き立てる。流れ出る液体から旨味が溢れているように感じた。噛みきれず、食いちぎろうとしたときの繊維が切れる音。そして呻く声はまるで、艶やかで喘いでいるようにも聞こえる。

 それら記憶を何度も思い出し、記憶が風化しないようにつとめる。それは今の蓮にしかできないことである。誰も知らない、覚えられないそれらを記憶する。神はもはや死んだ。生きているのは、踠くことしか知らない生物のみ。

 再び、指先に微弱な電流が走った。

 侵入者がいることは分かっていたが、ただの弱者ではないらしい。同士たちが何体も殺されている。深水により侵入者は分断されているものの、個々にそれなりの能力があるようだ。

 蓮は静寂に耳を傾ける。

 静かな空間では過去の囁きが聞こえるのである。世界に住んでいた誰かによる、独り言や会話が未だ世界に木霊する。繰り返し誰かに忘れられていたとしても、声は消えることなく微弱に記憶されている。

 蓮は流れに身を委ねるだけだった。神に捧げるための詩は完成間近である。




 田中は己の人生を醜いとは思っていない。家族は死に、できた新たな家族は身内によって破壊され。更に、人間界に溶け込んだと思いきや、元家族が人間を殺し回っている。

 本当に散々な人生で、下らない。それが自己評価だった。

 深水に巻き込まれ辿り着いた場所は、かつての家に似た建物。装飾品の傷痕まで酷似しているが、温かみが感じられない。何を触っても固く、表面はざらついている。力を込めると、あっさりと砕けた。

 手に付いた粉を嗅ぐと、木屑のようなカオリがする。欠片の断片は穴が空いており、通気性は抜群だろう。炭に近い物質だと推測される。炭であれば、生物の体重を支えられるほど丈夫であるはずがない。

 長い廊下を歩いた。どこもかしこも灰色一色。空の色さえ。あの青空を恋しく思ってしまう。

 見慣れた風景を流し目に、田中は突き当たりの扉を開けた。その扉は外に繋がるもの。この先にあるものを田中は嫌になるほど見ていた。


 広々とした庭に、ポツンと円柱状の建物が建っている。建物にしては低いそれは、田中を引き取った人物が自作した運動場である。

 広い空間且つ、自由にできる場所を確保するために建てたそれは、田中もよく利用していた。否、させられていたという方が正しいだろう。

 一本道は整備されており、執事たちが掃除をこまめにしていた。田中も手伝いをすることはあったが、大概疲労困憊で手伝いどころの話ではなかった。

 その原因が、今から戦う相手になるのだろう。

 訓練場の前に辿り着くと、咆哮が聞こえた。どこまでも響いていきそうな声は、田中の鼓膜を刺激する。


「相変わらず煩いな」


 下手をすれば鼓膜が破れてしまうだろう。同僚たちからも言われていた小言は、死しても尚、本人には届かなかったようだ。

 通路の壁にかけられていた武器を手に取った。田中の手に恐ろしく馴染み、自然と田中は武器の傷痕をなぞった。この痕は幼い田中が刻んだものの一つである。

 曇天の下。田中は敵と対峙した。

 自身の身長よりも頭ひとつ大きく、獰猛な牙と長い尻尾が生えた人形の化け物。白銀の髪と金色の瞳が怪しく光っている。その声が脳に焼き付いていて忘れられないのは、過去の恨みの所為かもしれない。

 久しぶりの再会は、田中の静かな一言から始まった。


「…()()、急いでるから。さっさと死んでくれ」


落華の四神。その一柱であり、田中の師匠でもある白君。彼は手加減など知らない、捕食者の頂点に立つ存在である。

 田中は掌を空に向け、招く。非常事態で早急に対処せねばならないことは理解している。だが、死者に再び合間見える機会など今後ないに違いない。

 田中の胸の中には焦燥ともう一つ相反する感情が込み上げていた。その感情に突き動かされた田中は、雄叫びに凄むことなく、煽るように笑みを浮かべていた。

 田中にとって白君は師匠である。だが、それ以上でも以下でもない。敵と認識すれば、殺し合うことに何の躊躇いもない。

 何故ならば、それが白君であるからである。

 国の軍事権を掌握しており、顎先で国の戦力全てを導入できる。いわば国の強さの象徴である。白君の座は世襲制ではない。次の代に血縁関係を求めず、求められるものは強さのみ。先代を倒した者が、白君になる。性格は二の次だった。

 血にまみれた白君の座には、覚悟をもって座らなければならない。国は滅びた今その座に座る者は、白宵_すなわち田中である。

 それはもう形だけのものである。だが、色濃く性質は受け継がれている。


「…先代でも手加減はしない。永遠永久様が待ってる。そばにいなければ」


 田中は口下手である。本人も自覚しており、話題を絞り出せば出すほど黙るように言われてしまう。ただ話を盛り上げたいだけだというのに。皮肉なことに本人はフラグを立てている自覚はない。

 白君の正式な継承者ではない田中は、今その座に座ろうとしていた。身の毛もよだつ獣に届かない狗から、ついに。

 始まりの合図は、田中の息だった。重圧からの緊張感から逃れるべく、わずかに口を開けたその隙間風。一瞬の空気を吸う音だった。

 自身の隙を狙われたと手、田中は目の前に迫る白君を迎え撃つ。自身よりも大柄な白君が攻撃をするには大きな動作が必要になる。僅かな体の傾きを利用して、田中は眉間に刃先を突きつけようとした。白君の目と鼻の先に刃が迫った瞬間、白君の姿が消えた。

 田中は即座に後退る。すると田中がいた地点に白君が現れた。鋭い爪を振りかざす。

 田中にとってその一撃は久しいものだった。土埃が舞い上がり、辺りは茶色一色に包まれた。視界が塞がれたことに田中は気付き、横に凪払うことで視界を晴らす。

 武器を構え直す前に、白君が爪で引っ掻いた。防具を着ているとしても、切れ味のよい神の攻撃を耐えられるはずもない。肌に到達した爪は田中に傷を負わせた。

 田中は後退するわけでもなく、敢えてその距離を利用した。白君の爪は距離を縮めなければ、敵にダメージを与えられない。そのため、遠距離戦闘を避け近距離に持ち込んでくるそう推測していた。遠距離攻撃を警戒して、スピードと威力のパラメーターは神の中でも指折り。田中が勝てるフィールドではない。

 であれば、田中が勝つには攻撃してくるタイミングを狙うしかない。この作戦では必ず後手に回るが、攻撃が当たった瞬間を狙って反撃する。倍以上にやり返してダメージを加え続けるしかない。

 心臓を狙い田中は突いた。だが読まれていたように、あっさりと受け止められる。そして刃を握りつぶされた。それも読み通り。田中は慌てることなく、次の段階に移る。

 武器から手を離し、持ち変える。次の瞬間に白君は蹴りを加えてくる。そっちも田中は予想していた。白君の予動作よりも速く、田中は持ち手のみになった薙刀を振り下ろした。

 人間のような姿をしているものの、田中とて半分は妖人。更には白君の位についているほどの強者である。その力強さは人智を越えている。

 白君の頭に打ち付けられた持ち手はひび割れ砕けたが、白君は地面に頭を埋めるほどの威力を出した。田中は距離を取り、膝をつく。

 滲み出る血液と汗が地面を濡らしていた。


「傷は浅い…が、体力が持たないかもしれないな」


体力を失い、田中の武器は破損した。もはや使い物にならない。次に使えなくなるのは身体だろう。

 一方の白君はまだ本気を出していない。何故ならば、彼の神は人形を取っているからである。本気の彼は恐ろしい姿を現すことを田中は知っていた。彼にとってはまだ初戦が始まったところ、負傷するには早すぎた。

 田中が瞬きをした、次の瞬間に白君は姿を消していた。驚き、周囲を見渡したが姿はどこにもない。頭上の影が大きくなっていることに気付き、顔を上げるが遅かった。

 眼前に拳が迫っており、田中はまともに食らった。受け身を取れず、体が地面に転がる。首に負荷がかかり、嫌な音が鳴った気がする。

 白君にとっては軽い仕返しのつもりだっただろう。意識が飛び、田中は目を開いたまま気絶をした。

 敵は意識を手放したとて、手加減をしてはくれない。田中の頭を足蹴にして、そのまま踏み潰そうとした。田中が僅か数秒で目を覚ましたのは奇跡だった。

 田中が目を覚ましたときには、頭は地面にめり込んでいた。体に無茶を言い、田中は白君の足に手を伸ばす。太い足に手を掛けると、そのまま爪を立て肉を抉った。そして押し返す。

 頭と首の負傷。いくら体が丈夫とはいえ、急所である。少しでも遅れていれば砕かれていてもおかしくなかった。完全に遊ばれていると思って間違いない。

 回復に体力を削り動けない田中に白君は拳を落としてくる。それはまた田中の予想通りであった。だが、今回はそれだけではない。

 誰だって、姿勢が低い敵に攻撃するのであれば、体を屈める必要がある。もしくは武器を縦に構えるなど、高さを調節しなければ掠りもしない。

 田中は白君の足からかかる圧力を使って、横に反らした。そして距離を離すと、口に入った()()を吐き出す。


「同族の血肉は不味い。これは勉強になった」


白君は自身の腹に手を当てる。そこには歯形と血が滲む肉片があった。

 そこで初めて白君は()()()。目を細め、口角を上げる。口の端から覗く犬歯が顔を出した。田中は冷や汗を流す。これは己の師匠のスイッチを押してしまったらしい。


 空気の流れが変わったのを感じた。白君から空気の塊が放たれ田中の髪を撫でる。圧倒的な強者の圧と、空気の揺らぎ。今までに感じたことのないものだった。

 田中は同時に歓喜していた。今までに味わったこともない、師の本気。それに触れることができているのだから。いつの間にか痛みは忘れ、第二ラウンドを待っている。

 空気が吹き荒れ、田中の汗が地面に滴り落ちた。その瞬間、二人の姿は消えた。

 風にも負けぬ速さで動き、拳を交えた。蹴りや肘当てなど何でもアリ。目眩ましだろうと投擲だろうと、関係なしだった。

 

「先生、アンタはこんなにも強かったんだな!」


いつも田中が負けて終わっていた。骨を砕かれ苦痛に苛まれている。身体中包帯だらけになり、動けない田中は何よりも、永遠永久に姿を見せることを恥じていた。彼女にはできる完璧な後継者()がいたから。

 完璧な後継者と欠陥だらけの自分。どちらを好ましく思うかは明白で、田中にとって分かりきったことだった。

 それでも見かける度に、田中は心から喜びを感じていた。いつか永遠永久の隣に並ぶことだけを目標に、ズタボロになり続けた。だが結局、田中は白君に勝つことはなかった。

 その頃の自分が、残した記憶が今の自分を助けている。記憶から白君の動きが手に取るようにわかった。だが、それだけでは白君の力強さに打ち勝てない。


「今ならアンタとも対等になれている気がする。白君…先代。俺たちの永遠を取り戻すため、俺はお前を今日ぶち破る」


 生い立ち上、後ろ指を刺されるだけだった自分に、白君は道を教えてくれた。勝つこと。それが、田中にできることだと。

 田中の拳が白君の頬に当たった。白君は訓練場の壁に吹き飛ばされる。


「まだまだやろう、先生。俺は今、今までにないぐらい楽しんでいる」


自分のことを恥じる度、田中は口を閉ざした。やがて言い訳もできなくなり、無口となった。今の田中が語るには拳が一番。拳を交えることができる相手が、今欲しいと心から望んでいる。

 吹っ切れれば何もかも簡単だった。

 田中は息を整え、汗を拭う。土煙が収まった壁には誰もいない。そのとき、地面を揺らすほどの怒号がした。

 田中の声に白君()応えてくれる気になったらしい。いよいよお出ましである。白君の本気第二ラウンドのゴングが鳴った。

 身体中に生えた毛は白と黒が入り交じり、纏う静謐なオーラは青く染まっていた。月明かりに照らされたように毛は輝き、金色の瞳の合わせて神々しさを放っている。

 その姿は虎であったが、田中が知る虎ではない。何か別の生物としか考えられないほどの存在感があった。

 田中は喉を鳴らす。田中の目の前で白君が変化したことはない。つまり、これからは先程のようにはいかない_本気の戦闘ということ。

 手を伸ばしても力では敵わない。であれば小回りの速さである程度カバーするしかないだろう。実直にスピードでは勝っても、スタミナでは不利である。虎の腕力を完璧に防ぐことは同等の地位にいても難しい。

 飛びかかってくる敵に押し倒される未来は見えている。田中は真っ正面から対峙することだけは避けなければならなかった。

 力強さと力は違うものだと誰かが言った。前者はその人が纏うもので、実態はない。だが力を彷彿とさせ、恐れさせる。後者は物理的なもの。文字通りパワーであるが、力任せに使うと自身をも殺す。

 攻撃がくる度に田中は最小限の動きで避けた。体力の温存のため、小回りをきかせながら回避し続ける。もう一度掠りでもしたら、最悪そのまま死ぬかもしれない。そんな緊張感に襲われる。

 落華の歴史上、田中の先代である白君は大きな逸話を残してはいない。ただ一つ_その座に君臨した経緯を除いて。

 彼の出自は貴族…ではなく、とある貴族家から駆け落ちした夫婦の間に産まれた。妖怪の間に産まれた妖人、確率としては稀にあるかどうかという低いケースだった。

 そんな特殊な出生の彼は自由奔放に育てられた。辺りの妖怪・妖人に挑んでは負けを繰り返し、実力を身につけると、道場破りをするようになったのである。その最中に出会った実力者だと思われる老人を彼は倒した。

 そして何の縁か、偶々倒した老人が先先代白君で、出自が特殊なだけだった彼は、白君の座に座ることになってしまったのである。当時の世は荒れに荒れ、それを収めたのは、玄君の永遠永久だった。

 その話を聞いたとき、幼かった田中は何の感情を持つことはできなかった。

 今思えば、ぽっと出の青年に白君が倒せるはずもない。つまりその時点で先代白君は相当な強さを誇っていたのである。

 武術で応戦するも、手の上で転がされる。純粋な力では負け、スピードで実力差を埋めている現状において、スピードが野生の瞬発力に押されている。持久戦に持ち込んでも田中の体力が尽きた瞬間、あっという間に殺されてしまうだろう。

 田中は一か八かの賭けに出た。乱戦に持ち込み、力任せに足に力をいれ勢い乗せた蹴りを白君の腹にぶちこんだ。瞬発的な力で、長時間の維持は難しい。相手の一瞬の隙をつく攻撃。一度で決めなければ、警戒されてしまう奥の手だった。

 幸い、一度で決めることができた。白君は空へ飛び上がり厚い雲を突き破る勢いで姿を消した。田中は天を見上げ、足に力を込めて飛び上がる。

 人型の生物が空を飛ぶ夢。それは到底叶わないものである。鳥類のような羽はないし、浮き上がるうな浮き袋が備わっている訳ではない。

 だが、空中にいるという文字通りにいるという状況を作り出すことは可能である。要するに、地面に足がつかない状況であれば叶うのだから。

 田中の力に合わせて()()が付き従った。田中を支えるように地面がうねり、白君のもとまで届けていた。摩訶不思議な状況であるが、これは白君の能力である。言霊を使わずとも、非力であろうとも、重力に完全に逆らえる生物は未だ存在しない。

 そうして田中は白君の横を通り抜ける。そして高所に至ると、足を離した。地面に向けて体を傾けて、急転直下。地面に向けて重力に従った。

 一人の力で及ばないのであれば、自然の摂理から力をかりるしかあるまい。田中は未熟な神なのだから。


「先生、きっとアンタならこんな戦い方はしない。…だが、生憎と立っているのは俺だから、すまない」


そこに白君の本質がなかったとしても、田中にとってその姿は、生前のそのままで。戦っていても、甦る記憶は自分が負けた瞬間のことばかりだった。

 あれから成長したとは言えない自分を恨んで欲しい。憎んで全てに復讐をするつもりで、怒りに任せて全てを壊してほしい。狂ってしまった悪友も、戻れない過去も、輝かしい未来も。白君の力ならできないことではなく、むしろ白君の専売特許である。

 だれにも負けない怪力と、全てを壊す力。人に想像と崩壊をもたらす願いを根元にするからこそ、なせないことはない。そう思っていた。


(弱者)(弱者)でしかいられないんだ」


強さがあれば、きっと守ることもできた。輝かしい未来を得ることができただろう。だが、今の田中_白宵にはこれしかできない。

 田中は白君に手を伸ばす。白君は宙で体を翻し、田中を鋭い目付きで睨んでいた。やがて獣の姿では不利だと悟ったのか、人型へと姿を戻す。

 一方田中は怯むことはなかった。手を伸ばし続け、人型になった瞬間両腕を掴んだ。二人とも不利な状況であれば、力強い拳もある程度軽減される。それは田中も同様に。

 振り払われないように手に力を込める。それだけの抵抗で抑えきれる白君ではなく、手が動かなければ足を使った。田中は避けようとするも、足場が不自由な状況で完全に避けきることは難しい。

 腹の痛みを堪え、途切れそうな意識を繋げる。もう少し我慢するだけで、田中の目的は達成することができた。

 最後の悪あがきに、白君は腕ごと田中を引き寄せた。そして頭を振りかぶり、何の躊躇いもなく打ち付ける。

 骨の砕ける音とは正しくこの瞬間の音だろう。何かが砕ける音がして、田中は目の前が白んだ。鼻に鋭い痛みがある。鼻に当たったらしく、田中は脳震盪らしきものを起こしていた。

 強制的に途切れようとする記憶が、田中の限界を物語っていた。目を閉じろと体が訴えてくる。

 その衝撃で田中が密かに作っていた足場が崩壊した。そしてゆっくりと田中の力が抜けていき、手が白君から離れていく。

 拘束と厄介な粘着者から解放され、白君は自由になる。このまま地面に着地すればいいだけ。勝利は目前だった。

 力がなくなった田中の体は地面に向かって落ちていく。だが、そのままではなかった。

 獣の唸り声がした。不明瞭な視界と嗅覚。からだの感覚は全て断たれていた。自分はどうやら負けたらしい。田中は事実を確かめた。

 元々叶うはずもなかった。先代は歴代白君の中でも上位の実力者とまで言われていた。その実力者に、ぽっと出の半人前が勝てるわけではない。

 実力差は明白。だから、現実を受け入れるしかない。そう田中自身は理解していた。

 だが、悔しい。唇を噛み締める。

 田中は二度の死を体験した。一つ目はつい最近のように感じること。殿として永遠永久を逃すため、一人戦った。もう一つは今回、永遠永久を助けるために同志たちと戦った。

 正気を失った妖怪たちを倒せていたから、田中は勘違いをしてしまっていたらしい。自分の実力は昔から変わっていない。むしろ、勝利への渇望を失い弱っているのではないだろうか。二の轍を踏まないようにしてきたつもりだった。


 _また負けてしまうのか。


体が全く動かない。だが、意志が訴える。


_守りたいものを守れず、こんなところで。


田中は勝利を渇望している。仲間とのハッピーエンドを心から望んでいるのである。だから、田中は捨てることにした。

 田中は仲間との幸せと同様に望んでいるものがあった。それは人間の仲間と同じ土俵でいること_すなわち、人としていることである。

 勝つためならば、何も気にしていられない。その状況まで追い詰められたにもかかわらず、田中は人としての尊厳を守ろうとしていた。神と名乗りながら_

 遠くから、また"叫び声"が聞こえる。




 田中の指先がピクリと動いた。

 視界はまだ真っ暗である。耳も同じく。それでも田中は無我夢中で、動かした。

 己の中で暴れるものを感じる。揺らぐ波が高くなり、荒波へ。体という器を壊して、外へ溢れる。

 田中の体は人型から変化した。溢れる神力に任せ、体が作り替えられていく。

 力が問うてきた。力を得て、どうなりたいのか。何を望むか、と。田中の答えは簡単だった。


_ただそばにいたい。不滅の不変の力として、神々に並ぶ覚悟と忠誠を。


 田中の体はやがて獣の形をとった。鋭い歯に獰猛な目付き。白君のソレと大差がない程の巨体だった。

 白君は目を見開き、己の前に現れた獣を見る。自身以外の七変化を、その瞳は捉えていた。

 田中が唸ると、白君は口角を上げる。ただし微笑みではない。好敵手と退治したときの胸の高鳴りに、胸を躍らせる喜びによるものだった。

 田中は宙を蹴り、白君に飛びかかる。腕へと深く噛みつき、地肉を抉った。

 今の田中に自我はない。変化した衝撃で我を失っており、今存在するものは強者を打倒するという本能。それに突き動かされ、田中は白君の腕を食いちぎった。

 そして白君の足にも食らいつこうとするが、白君は抵抗を見せた。片腕を犠牲に、近づいてきた田中の鼻先に拳を向ける。

 神であろうと、獣の姿をとっている以上弱点は補えない。怯んだ隙を突いて、白君は田中を蹴り遠くへ飛ばした。

 自身は華麗に地面に着地して見せる。田中がいると推測される方向を伺うが、気配は感じられない。一撃を決めるため、足を向けた。その時、どこからともなく獣が襲ってきた。

 田中は飛ばされた後、地面に衝突した。そしてその瞬時に立て直し、白君の背後に大きく回り忍び寄ったのである。そして足を片方食いちぎった。

 満身創痍の体は田中の意識を無視して動き続ける。人としての田中は終わりを迎えようとしていた。

 腕と足を失くし、バランスを崩したことで白君は地面に伏した。回復するはずの傷は、残ったまま。損傷が増えていく一方である。トドメを刺す一撃が今まさに襲いかかろうとしていた。

 白君は逃げることはせず、正々堂々と正面から立ち向かう。拳を握り、目の前の敵を打倒しようとした。

 田中は拳を土塊で反らし、剥き出した歯を収めた。

 そして人型へと姿を戻して、言う。


「死ぬか死なないかの戦場ではあるが…俺は半人前だし半妖。だから、最低限の人としての仁義は通そう」


神が神を殺す。それは神話にありきたりな話である。同等の存在なのだから、どちらかが死んだとしてもそれは不思議ではない。

 では、神とそれ以下の生物ではどうだろうか。新たな変数が入り交じり、結果的に本来弱いはずの人間側が神に勝つ。そんな奇跡のようなストーリーがあったのであれば。それはこのようなセリフから始まったのだろう。


「アンタが言った通り…歴代と同じように下剋上成し遂げたぞ。一人前でもない、ごみ溜めから成り上がった半人前が」


_半人前は完璧でないからこそ、埋められる(成長の余地)がある。


「だから…先生、ごめん。俺はやっぱりアンタには勝てない」


本気の白君であれば、勝てる瞬間がいくらでもあった。空中に追い詰められた時もそう、白君はいくらでも自分に有利な状況を作り出すことはできた。人型に戻る必要はなかったし、頭を踏まれたときも瞬時に頭蓋骨を砕くことはできた。だというのに、しなかった。

 手加減されていた。この状態で勝てたとて、田中は満足できない。勝ちは勝ちに変わりはないが、譲られた椅子に座った今となにも変わらない。


「俺にトドメはさせない。」


戦っているうちに思い出してしまった。辛くとも期待に応えるべく鍛えてくれた記憶を。美化されてしまっているが、田中に感謝の気持ちはある。

 私情を持ち込むな。そう説教されそうだと思いながら、田中は動かない。以前の田中であれば、その温情に甘んじたかもしれない。だがその優しさは、現在の田中に必要ではない。

 それは弱気人間たちに教わった。自分の半身に流れる血液と同様のものを持つ者たちから貰った強さだった。

 これは弱さではなく、強さ。圧倒的な力でも、自身を弱らせる弱さでもない。


「甘えるんじゃない」


 田中が示した道に対するリアクションはそれだけだった。田中は懐かしい声に反応して、顔を上げる。

 白君は目を閉じて息を繰り返していた。先程まで暴れていたというのに、ただ死の瞬間を待っている。

 田中はその場に立ち尽くした。虎の姿に変身してトドメを刺すことが正解だったのだろうが、田中には二度と変身出来そうもない。

 この空間を出るには、空間の主である白君を殺す必要がある。散々暴れていたにもかかわらず、一つも綻びが生じていない点を鑑みるに相当強固なものだと推測される。

 田中は息を一つ吐いた。

 田中に課せられた脱出条件は二つ。田中もしくは白君のどちらか片方が死ぬか、空間を打ち破ること。もしくはトドメを刺さず白君がここで朽ち果てるのを待つ。

 第3者の存在も考えられるが、二人が満身創痍のこの状況で手を出してこないあたり、いないと考えて問題ないだろう。

 田中は人で在りたかった。獣になったとしても、せめてその心は人で_

 無言で白君の上に馬乗りになった。そして首を掴む。偽物だと分かっていてもリアルな血管の感触に、田中は躊躇いを感じ始めていた。

 自分に言い聞かせながら、ゆっくりと力を込める。降参を口にしていると言えども、油断をしたところをグサリ…ということはあり得る。これは白君の性格上考えづらいことではあるが。

 苦しむ白君の姿に田中の力は緩む。だが、開いた白君の無言の眼差しを受けて、田中は思い直した。


「先生、ありがとうございました」


_このご恩は忘れない。

 田中の脳裏に今までの記憶が過る。後悔はしない選択肢を選んだつもりだったが、想像よりも感情的だったらしい。

 霧散する白君の表情は優しさを秘めていて、田中は漸く白君の座に深く座ることができた。

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