36話 レベリング
二〇四五年七月二二日、土曜日。
日本では多くの学生が、夏休みを迎えていた。夏休みが短いとされる北海道においても、今日から夏休みに入る中学校は多いらしい。
綾香の中学校は札幌市にある私立の女子中高一貫校で、二学期制という制度を取り入れているそうだが、それでも夏休みは普通に存在する。
今年も猛暑が予想されていたが、今は政治問題の方が熱く盛り上がっている。
政治家として最も注目されている広瀬議員は、与野党をアリとキリギリスに例えた。
与党である労働党は、キリギリスだとされた。
短絡的な思考でダンジョン問題を隠蔽し続け、冬が訪れればダンジョンから溢れ出したカマキリに喰われて死んでしまう。なお実際に喰われるのは、日本国民である。
野党である共和党は、アリを自称した。
政府が隠したカマキリを公開し、冬を乗り切る対策を訴えたのだ。実際に国会で総理を相手に立ち回り、カマキリ以降の魔物を早期に詳らかにして国民に警戒と対策を促した広瀬は、訴求力で際立っていた。
それらを主張したタイミングは、優先攻略対象に変更されていた大場総理の地元・宮城県が、ドームから多階層円柱に変わった直後であった。
労働党にとって最悪で、共和党にとって絶大なタイミングを直撃されて、支持率に影響しないわけがない。広瀬の呼びかけは、無党派層のみならず、普段は労働党に票を入れる有権者にも影響を及ぼした。
結局のところ野党の共和党は、次の二択を迫っているわけだ。
『沈黙を続ける労働党に任せ続けて、カマキリ以降の魔物に喰われる』
『情報を公開して対策を訴える共和党に交代させて、対策させてみる』
大型犬サイズで人を襲う巨大カマキリは、翌年一月四日に出現が予想される。
獲物に頭から齧り付く巨大肉食飛行昆虫に対する恐怖が拭い去れない大多数の人々は、労働党に恐怖と怒りの捌け口を向ける一方で、独自の情報網から詳細な知識を与えてくれる共和党に期待した。あるいは、期待したかった。
もう少しだけ冷静な国民は、労働党には出来ず共和党に出来る事が何かを考えた。
現政権は『情報は非公開』で、『自衛隊で巨大構造物を包囲し、周辺の国民を一時避難させ、魔物が出たら迎撃。自衛隊には、月一ヵ所ずつ攻略を継続させる』という対策を取っている。
それがどのような結果に至るのかは、広瀬議員が国会で『来年は国民が日本中で魔物に喰われる地獄が到来します』と指摘したとおりである。
では労働党から共和党に変われば、どうなるのか。
まずは、情報の差。
『労働党は、隠蔽という判断の誤りで膨大な犠牲が出たと批判されており、悪い情報ほど言い出せない』
『共和党は、野党として与党の失敗に責任を持つ立場になく、むしろ率先して悪い情報を暴き出せる』
この二つの差は、途方もなく大きい。
悪い情報こそ、言ってもらわなければ困るのだ。さもなくば自分たちが死ぬ。
生存を優先するのであれば、黙っているよりも機密を残らず公開して貰い、国民全体で対策を練った方が遙かにマシだ。その二択であれば、自分たちが生き残るために言える方を選択する以外に有り得ない。
次に、魔物対策の差。
労働党は、現状の対策通りである。
共和党は、政権交代しても自衛隊の対策が無くなるわけでは無い。
そして労働党の口封じから逃れて共和党に駆け込んだと思わしき、超高レベルな複数の特典を同時に所持する謎の集団を、広瀬議員らは情報提供者に抱えている。
自分たちを狙う労働党から身を守るため、あるいは打倒するために共和党に協力していると考えられる少年たちは、レベルを上げ易かったチュートリアルダンジョンで、数年分のアドバンテージを得て、史上初となる初級ダンジョン攻略も成功させた。
レベルが足りずに大人も行けない危険な場所を、少年達に見に行かせるのは倫理的に問題があるが、彼らは自発的意思に基づいて見に行き、そして労働党への意趣返しなのか魔物対策に有効な情報を次々と提供してくれた。
少年達を殺そうとした現政権では協力して貰うのは絶対に不可能で、危機的な現状において少年達の協力を失う事は出来ない。
まるで噴火中の活火山のように、日本中でどうすべきか激論が吹き上がる今日この頃。
件の広瀬議員の情報提供者である少年たちは、表舞台からは身を隠しつつ、山中県にある多階層円柱の地下一六階まで転移で跳んで来ていた。
ダンジョン内の気温は、四季や天候などの影響を受けず、概ね一七度から二二度で安定している。
夏でも涼しさを保つダンジョン内部に踏み入った直後、少年は通路の片側を土魔法の巨大防壁で塞ぎ、後方の安全を確保した。
次いで収納能力で取り出した椅子と机を通路に並べて、徐ろに呟いた。
「マンダムだねぇ」
普段であれば、同行している美也から何らかの反応がある。
あるいは連れて来た綾香から、謎の単語を問い掛けられたかもしれない。
だが二人の女子は、余所行きの態度を取り繕ったまま、互いの様子を窺いつつ無言のままだった。
そんな微妙な空気に拍車を掛けるのが、変装した次郎と美也の偽名だ。
山田太郎と、山田花子。
呼び合っていて白々しい事、この上ない。
それでも美也が参加してくれたことで、不足が懸念された分配金問題の解決と、綾香の安全の確保が叶った。
ダンジョン内での脅威は、魔物の牙や爪だけに留まらない。
中には麻酔銃を撃ってくる魔物や、機関銃を撃ってくる魔物、未知のボス部屋にも係わらず背後から銃口を向けてくる魔物すら存在する。
もっとも現状では、魔物の親玉がその指示を継続できるのかは疑わしいが。
「それじゃあ花子、俺が魔物を片付けてくるから、綾香の護衛を頼むな」
「分かったよ。太郎くん」
なんとなく続く沈黙に耐えられなくなった次郎は、さっさと仕事に取りかかるべく、一人でダンジョンの奥へと入り込んでいった。
次郎を見送った美也は、暫くしてから肩を上下させて溜息を吐き出した。
「それではよろしくお願いします。山田花子さん」
「…………こちらこそよろしく、井口綾香さん。まずは座って待ちましょう。紅茶でも出せたら良いんだけど、お手洗いに行く回数は少ない方が良いでしょうし」
「お気遣い有り難うございます」
「次にレベルを上げたら、土魔法と水魔法を一ずつ取った方が良いよ」
「何故ですか」
「お手洗い用。土を被せておけば、翌日にはスライムが消してくれているから」
「分かりました」
二人は並べられた椅子に腰掛けると、次郎が進んでいった奥の方に視線を向けつつ、ダンジョン内での簡単なレクチャーを始めた。
視線の先では片側四車線、高さ三階建てほどの巨大な通路が数百メートル先まで伸びており、その先は遙かに広い空間になっている。
空間内では、指先サイズまで小さくなった自称・山田太郎と、彼の何倍も大きな魔物の群れとが激しく争っており、衝撃音と喧騒が立て続けに轟いている。
「遠くに見える、大きな魔物は何でしょうか」
「あれはヒッポグリフ。頭部が鷲で胴体が馬の、架空だったはずの生物。多階層円柱の地下一六階にいるのは、紛れ込んだ人間を除くと、アレとスライムだけかな」
「架空だったはずの生物ですか?」
「うん。目の前に居るから、もう架空じゃないでしょ」
「確かにその通りですね」
なお次郎と美也が把握しているダンジョンの生き物は、次の通りだ。
・初級ダンジョン
地下 一階 レベル一 風 チスイコウモリ
地下 二階 レベル二 土 タマヤスデ
地下 三階 レベル三 火 トノサマバッタ
地下 四階 レベル四 水 イモリ
地下 五階 レベル五 風 ナナホシテントウ
地下 六階 レベル六 土 ヤモリ
地下 七階 レベル七 火 コオロギ
地下 八階 レベル八 水 オオサンショウウオ
地下 九階 レベル九 光 ゲンジボタル
地下一〇階 レベル一〇 闇 カマキリ
地下一一階 レベル一一 風 オニヤンマ
地下一二階 レベル一二 土 クロオオアリ
地下一三階 レベル一三 火 シオヤアブ
地下一四階 レベル一四 水 アマガエル
地下一五階 レベル一五 闇 ジョウロウグモ
・多階層円柱
地下 一階 レベル一六 風 インプ(小悪魔?)
地下 二階 レベル一七 土 ペルーダ(トカゲ?)
地下 三階 レベル一八 火 オヴィンニク(火猫?)
地下 四階 レベル一九 水 ヨーウィー(トカゲ?)
地下 五階 レベル二〇 風 アダンダラ(猫?)
地下 六階 レベル二一 土 イピリア(トカゲ?)
地下 七階 レベル二二 火 コカトリス(鳥?)
地下 八階 レベル二三 水 ウォーター・リーパー(飛蛙?)
地下 九階 レベル二四 光 カラドリオス(神鳥?)
地下一〇階 レベル二五 闇 ガーゴイル(石像?)
地下一一階 レベル二六 風 ペリュトン(翼鹿?)
地下一二階 レベル二七 土 グーロ(山猫?)
地下一三階 レベル二八 火 マフート(獅子?)
地下一四階 レベル二九 水 カトブレパス(豚・水牛?)
地下一五階 レベル三〇 闇 キマイラ(合成獣?)
地下一六階 レベル三一 風 ヒッポグリフ(大鷲馬?)
地下一七階 レベル三二 土 リュークロコッタ(ハイエナ獅子?)
地下一八階 レベル三三 火 グリフォン(大鷲獅子?)
地下一九階 レベル三四 水 アハ・イシュケ(水馬?)
地下二〇階 レベル三五 闇 アラクネ(人蜘蛛?)
魔物のレベルに関しては、計測器など存在しないため二人の体感だ。
だが体感における階層を一つ降りた魔物の強さは、人間がレベルを一つ上げてBPを割り振った差くらい強いように感じられる。
日本に詳しいダンジョンを生み出した存在がいる以上、階層の浅い方に強い魔物を出すとも思えず、階層通りのレベルなのではないかと予想された。
そんな序列において、今のところ五指に入る強さのヒッポグリフが一頭、通路の奥からズルズルと引き摺られて運ばれてきた。
「ただいま花子、綾香。今日の稼ぎだよ」
そう自信満々に告げる原始人の左手には、馬より二回りは大きそうな大鷲馬の左翼が、しっかりと握り締められていた。
綾香はヒッポグリフの群れと争って無傷で倒した上に、軽口で冗談まで飛ばす余裕がある次郎をマジマジと見つめ直した。
だが大鷲馬一頭を今日の稼ぎだと宣言された美也は、不満げに言い返した。
「ねぇ、太郎くん。ネット小説に『旦那様の稼ぎが少ない件について』というタイトルで投稿したら、どれくらいポイントが貰えると思う?」
仮に美也がナローに投稿する場合、一体どのような小説になるのだろうかと、次郎は想像を廻らせた。
まずは幼馴染としての出会いから始まり、山で暮らしていた背景が述べられるはずだ。その中で次郎の祖父が猟銃の免許を所持しており、次郎が関心を持って行った事などが説明されるだろう。
やがて小さな獲物などを狩って振る舞うような微笑ましいエピソードも交えられながら、二人の成長していく姿が描かれる。
そのうち恋愛小説的な、危機とそれを乗り越える姿が演出された後、男性が読めば口から砂糖を撒き散らして悶絶するような心理描写を経て、二人は結婚に至る。
そして妻は旦那の稼ぎが少ない事を憂いつつも、健気に頑張っていく形で物語は締め括られる。
なお次郎がそれを読んでしまった場合、砂糖を撒き散らした辺りで死に至る。それ以降も、美也と顔を合わせるたびに何度か死ぬ。
「ランキングに乗ったらうっかり読んでしまうから、お止め下さい」
白旗を揚げた次郎は、手招きで綾香を呼び寄せた。
そして立ち上がった綾香が近付く間に、石製のナイフで大鷲馬の胸部を切り開きつつ、自らの魔力を通していない普通のナイフを手渡して告げる。
「あっちの大広場には、二〇体くらい殴り付けて転がしてある。これを倒してレベルを上げたら、移動するぞ」
「……はい?」
ナイフを握らされた綾香は、オウム返しに聞き返した。
もちろん先程までの戦闘は見ており、次郎が魔物の群れを蹴散らしていた事も知っている。
だが多階層円柱の深部で、車輛並みに巨大な魔物の群れを相手に、北海道ドームで蝙蝠を捕まえた時の様な無茶を再現するとは思いも寄らなかったのだ。
カルチャーショックを受けた綾香は、現実を飲み込むためにワンテンポを要した。
そんな次郎の手法は、高レベル者による低レベル者への典型的なパワーレベリングだ。
ゲームなどでは有り触れた行為で、高レベル者が絶大な防御力で壁になりながら敵を押さえ込んで弱らせ、技術も経験も浅い低レベル者に敵を次々と倒させて一気に力を付けさせる。
だが綾香のような超が二つ付くお嬢様には、馴染みが無かったようである。
「俺が取り押さえて、綾香がレベルを上げる。それの繰り返しだ。花子は護衛。簡単だろう」
「手順だけ伺えば、その通りかもしれません。ですがこちらのヒッポグリフは、日本中で怖れられている巨大カマキリよりも強いのですよね」
まだ転移で辿り着いてから、殆ど時間が経っていない。
それが既に二〇体も殴り飛ばされて転がされているという話をされれば、大抵の人は荒唐無稽な与太話にしか聞こえない。
次郎たちが複数の特典を持っているダンジョン攻略者だという事は分かっていたものの、実際にヒッポグリフが次々と弾き飛ばされ、悲痛な嘶き声を上げているのを聞いていなければ、綾香も半信半疑だったに違いない。
しかし現実は、その遙か斜め上を行っていた。
「初級ダンジョンのボスになっている同サイズの女郎蜘蛛がレベル三〇程度だから、ヒッポグリフはそれより少し強いくらいかな」
整った造形の少女が、大理石のように固まった。
「ヒッポグリフは爆発的な瞬発力と飛行力、それに強靱な肉体と体力と蹴りが特徴で、超巨大女郎蜘蛛でも弾き飛ばされるか、蹴り飛ばされると思うぞ。しかも群れているから、殲滅前に近付くのは危険だな」
「でもヒッポグリフは遠距離攻撃が無いから、距離さえあれば事故は無いと思うよ。ここより深くなると、土弾を飛ばしたり、火を噴いたり、水の槍を投げ付けたり、毒と麻痺の糸で絡め取ってくる魔物がいるから」
二人の発言内容は、いずれも綾香を引き攣らせるに足りた。
それでも彼女は生来の気質なのか、あくまで冷静に事態の把握に勉めようと質した。
「お二人のレベルは、一体おいくつなのですか?」
「二人ともヒッポグリフの倍以上あるから安心しろ」
言外に信じられないと首を振る綾香の様子に、説明していた次郎も自分たちの非常識さを僅かに顧みた。
しかし美也の方は、何を今更と言った呆れ気味だった。
そもそも次郎は、自分の関心事にはのめり込むタイプだ。
それはネット小説を徹底的に読み漁るために、自分で探すだけでは飽き足らず、作者の恭也に記録媒体を渡してお勧め小説を入れてもらう事までやった事から明らかである。
自ら関心を持って取り組む事が、最も成長を促す。
次郎はネット小説を徹底的に読み漁るのと同様に、自宅の敷地内に発生したダンジョン探索にも一心不乱に取り組んだ。
活動の切っ掛けは偶然のレベル獲得であり、政府が地割れと称して隠蔽している事を思い起こした後は、禁じられる前になるべく上げておこうと潜り続けた。
凝り性で、レベル獲得に急ぎ、保護者に衣食住を丸投げでき、自宅の敷地内のダンジョン立地、占有による魔物独占、美也という完璧な連携パートナー、転移による直接往復、機動隊に追われた焦燥感からの自衛力向上などが組み合わさった結果、今に至った。
これは任務として専従し、接収と封鎖でダンジョンを確保し、友軍の火力支援を受けられる自衛隊や機動隊にも勝る条件だ。
二人での独占は、部隊単位で確実性を期しながら進む組織に対して、『頭割りした経験値配分』で遙かに勝る。
レベル上げだけを行う次郎たちと異なり、相手は任務として内部の調査や報告書作成、魔物の死骸回収、獲得した魔法の検証にも多くの時間を費やす。従って『レベル上げに費やせる時間』も、両者には大きな隔たりがある。
加えて『経験値一〇〇倍』である。レベル差が広がるたびに効率で差が広がり、やがて隔絶していく。
それらを全て計算すれば、次郎たちは同じ年数をダンジョンでの活動に費やした自衛隊員や機動隊員に比べて、経験値の獲得量で途方も無い優位性がある。
今や次郎たちがレベル六〇代後半に至ってヒッポグリフを軽々と殴り飛ばし、一方でダンジョン探索チームが未だに初級ダンジョンの最奥で四苦八苦しているのも、それらの事情に鑑みれば、至極当然であった。
そんな次郎に美也が付き合えたのは、骨髄移植に伴う自身の安全と、家族の選択とが乗算で動機付けされたからだ。
次郎がパートナーでなければ、決して今には至っていない。
特異性が大きくなり過ぎた次郎のパワーレベリングは、綾香の常識の遙か斜め上を突き進んでいた。
「今日のノルマは最低一〇〇体。レベルを三〇まで引き上げたら、北海道ダンジョンを攻略して攻略特典を取る事を目指したい」
「…………ちょっと待ってください。依頼は私のレベルを上げる事でしたよね?」
「いいや。依頼内容は『自衛力を付けさせたい』だ。そして期限は『夏休みの間』で、謝礼は『成功報酬』と約束した」
「確かにその通りですが、それでレベルを上げるお話だったのではありませんか?」
「レベルは、相手の方が強ければ守り切れない相対的なもの。転移は、相手が強かろうと逃げられる絶対的なもの。まあ、追加で交渉する予定だ」
追加交渉に関しては、綾香の安全を高めるためという名目ならば、そのために依頼を行った保護者達も反対しないだろうと次郎には思われた。
次郎は説明を省いたが、綾香が転移を獲得すれば、攻略特典を得ている次郎たちの希少性がその分だけ薄れる。
それは当初から望んでいたことで、実現すれば力を隠す必要がなくなるというものだ。
少なくともレベルや魔法は、大勢の人が獲得して特異性や希少価値が薄れた。今なら街で魔法を使っても、レベルを持っているんだなと思われる程度である。
攻略特典の希少価値を薄めるのは流石に難しそうだが、共和党代表の孫という特別な立場にある綾香が特典を持つ事には、いくつものメリットがある。
その中でも比重が大きいのは、特典獲得者に対する扱いと、検証作業の負担軽減だ。
特典獲得者に対する扱いについては、綾香が特典を持てば、井口家は特典所持者に対して人体実験的な扱いが出来なくなる制約が生まれる。あるいは、まず身内で試さなければならなくなる。
検証作業の負担軽減については、井口豊や広瀬秀久が日本の魔物対策のために検証したいと望んだとして、綾香がいればそちらが先に呼ばれる。
負担に思うのであれば依頼を断ってしまえば良いのだが、次郎自身は日本が滅びる事は望んでいない。
次郎と美也は思想の根幹に、お互いと祖母までを最優先枠あるいは最も親しい家族枠として、他の全てを切り捨てられるという考えを持っている。
それは幼い頃に家族関係の壊れた美也が、代替として渇望した箱庭世界であり、死守すべき最後の心の拠り所だったからだ。
美也の心が壊れるか否かの問題であったため、他の全てを捨ててでも守るべき最優先事項とされていた。
だが箱庭世界が守られるのであれば、他にも目を向けられる。
次郎の場合は自分の家族や恭也、中川や北村らの友人関係などで、自分との関係性で手を貸せる範囲が変わっていく。
なお日本が滅びて困るのは、次郎が英語を苦手とするからだ。
従って究極的には自分本位なのだが、だからこそ手を貸せる範囲は自ずと大きくなる。自分自身の為に、身元が発覚しない範囲で協力するに如くはない。
そして特典獲得者に対する扱いと、検証作業の負担軽減に鑑みて、綾香に転移能力を一つ持たせるという発想が生まれた。
美也としても、次郎が暮らし易くなる為であれば構わないと考えている。
彼女自身は箱庭をどの国に置こうと構わないのだが、箱庭世界の構築者として、住人の快適度は軽視できない問題であった。
先般、峰岸官房長官が記者会見で「攻略出来るチームが一隊で、その人員を使い回している」と弁明しており、攻略済みの人間でも何度もボス戦が出来ると確定している。そのため次郎たちがボス戦に加われない心配も無い。
北海道在住の綾香より一週間ほど早く夏休みに入った次郎たちは、既に北海道ダンジョンの攻略を進めていた。
だが実際にボスを攻略する前には、綾香のレベル底上げが必要だ。
ヒッポグリフの胸部を裂いた次郎は、そこへナイフを差し込むようにと綾香に促した。