3、身分
茶色がベースの落ち着いた部屋で、俺はある人物を待っていた。
高価なティーセットが並べられた机が部屋の中で存在感を放っている。フィリアの私室よりも格段に小さい、使用人専用の部屋である。
「おや、もう来ていたんじゃな」
爺臭い口調とともに質素な扉を開けて入ってきた人物に目を向ける。
精悍な顔つきに整えられた立派な口髭が特徴的な、やや年配の男だ。しかしながらその背筋はぴんと伸ばされていて、老いは全く感じられない。
中央にある机へと歩み寄ってきたその男に、なるだけ丁寧をお辞儀をする。待ち合わせをしていた人物だが、初対面の相手である。第一印象が良いに越したことはない。
「今日からよろしくお願いいたします。アルフォンと申します」
「うむ。ワシはローレンツじゃ。誰もお主の修業を見てやると名乗り出る者がいなかったからの、一番の年寄りに投げられたのじゃ」
簡単な自己紹介の後、俺の師匠と相成った経緯を可笑しそうに笑いながら話すローレンツ。
そういうのは本人には言わないだろ、普通……。
なんとなく居心地の悪さを感じて曖昧な苦笑でローレンツに返す。
「まあよい。ワシは暇じゃからな、お主の修業が完遂されるまで付き合ってやるわい」
「……ありがとうございます」
「ハッハッハッハ」
どこか納得していない顔で頷く俺に気が付いたのか、ローレンツは愉快そうに大きな笑い声を上げた。
フィリアに告げられた修業を、翌日から早速行うこととなったのだ。
とはいえ、俺一人では何を修業してよいのかもわからない。そこでフィリアが、この館の中にいる他の執事に声をかけ、俺に教授してくれるように頼んだのだった。
俺の嫌われ具合は予測していたため、今日の修業もぎすぎすした雰囲気で始まるのだろうと、緊張していたのだが、この男は何も気にしていないようだ。
何がおかしいのか笑うローレンツの姿は、俺にとって決して不快ではなかった。
しばらくして笑い声を収めると、一つ咳払いをしてローレンツは俺の頭を凝視した。
「とりあえず、その髪をどうにかせい。茶を入れるときに髪が入ってしまうじゃろう」
言われてはたと気づく。
俺の髪は2年もまともに切っていなかったせいで、今や肩を超す程度まである。この長さが当たり前になってしまっていて、すっかり切るのを忘れていた。
しかし、今から修業だというのに髪を切っている余裕はない。
俺には常に冷ややかな視線が向けられているのだ。さっさと執事らしさを身につけ、立場を確保しなくてはならない。
「これを使ったらどうじゃ」
髪をどうするかと考えている俺に、ローレンツは長年着込まれている執事服のポケットから、茶色の革紐を取り出した。
頷き礼を言いつつ、その手から革紐を受け取る。
慣れていない髪の毛を縛るという作業に苦戦するが、やがて頭の上の方で一つにくくることができた。髪が伸びたカローラもたまにしていたポニーテールである。
無造作におろされていた髪がなくなったことで、随分とすっきりとした。
「うむ、そのほうがいいじゃろう。中々似合っておるぞ」
「ありがとうございます」
どこか満足げに頷くローレンツに、ポニーテールが似合うってどうなんだろうか、と思いながらも平然と礼を返す。
ローレンツは「さて」としばらく考え込んだ後、低いバリトンの声を響かせる。
「そうじゃの、まずは紅茶を入れてみるのじゃ」
「わかりました」
ローレンツの言葉に何か重いものを感じながら、ゆっくりと頷く。
おそらく俺の現在の執事スキルを試すつもりなのだろう。これがこのレイリス家で本当の意味で働けるきっかけになるかもしれない。このままずっと一線を引かれているのは正直つらいものがある。
何も学んでいない状況で無理難題だと思うが、前世の記憶をフル活用すればなんとかなるかもしれないと一縷の望みをかけた。
一つ深呼吸をして机の上のティーセットを手に取る。
茶葉の入った金色の筒をそっと開けると、中から香ばしい香りが流れてきた。匂いだけでも高価だとわかる。思わずごくりと唾を飲み込んだ。
茶葉を銀のスプーンで適量取り出し、ティーポットの中へと入れていく。その中にあらかじめ沸かしておいたお湯を注ぎ、茶葉を蒸す。
前世ではティーパックを入れておくだけで良かったのだが、経験したことのない長い過程に少し気が滅入る。やはり前世は便利すぎたのだ、と改めて感じる。
やがて蒸された茶葉の匂いがほんのりと部屋に流れ始めたあたりで、丁寧に茶葉を取り出した。
冷めないうちに、と出来上がったばかりの紅茶をティーカップへと注いでいく。
全ての過程を真剣な表情で見つめていたローレンツへと、カップを渡した。
「ほう……」
カップを持ち上げて香りを楽しんだ後、ローレンツは紅茶を上品に啜った。
どのような評価なのかはその表情から読み取れなかった。一挙一動を凝視していると、ローレンツはカップから手を放して、「うむ」と一つ頷いた。
「い、いかがでしょうか……?」
自分なりにはなかなかよくできたと思ったのだが、不安がにわかに胸に寄せる。
顔を顰めるなどはしていないため大丈夫だと思いたい。
紅茶から目を離したローレンツが、愉快そうに笑った。
「そうじゃな、まずい」
「えっ……」
なんとも楽しそうに告げられた言葉に、少し耳を疑った。表情と言葉が一致していないのではないだろうか。複雑な顔をしていると、ローレンツは声をあげて豪快に笑いだす。
「ハッハッハッハ。まだまだまずいが、お主は筋がありそうじゃの。こりゃ修業が楽しみだわい」
貶されているような褒められているような、よくわからない言葉だったがなんとなく頬が緩むのを感じた。
あれから紅茶を入れまくり、日が暮れたころになってようやく今日の修業が終了した。
最後になってローレンツの入れた紅茶を味わわせてもらったが、何度もダメ出しをすることはある。俺の入れたものとは比べ物にならないほど、上品な味がした。
入れている様子を一つも逃さぬよう、じっと見つめていたのだが、どこに違いがあるのかわからない。やはり長年の経験か。
そんなことを考えながら人気の少ない廊下を歩いていると、不意に鈍い音と何かを耐えるような声が耳に入ってきた。
何かあったのかと周囲をぐるりと見回すと、20mほど前方に微かに開いている扉を見つけた。
恐らく音の発生源はあそこだろう。
足音を殺してその部屋へと歩み寄る。近づいて行くと、耳に入る音も次第に大きくなっていく。
やはりこの部屋で間違いないようだ。
扉のすぐそばまで行くと、音ははっきりと聞こえた。ゴスッゴスッと何かを叩きつけるような鈍い音。それにすぐに遅れるようにして、男の低いうめき声が聞こえる。
壁に背をつけて、そっと部屋の中を覗き見る。見つかってはいけないような気がして、息を止めていた。
「ぐ……う……」
低いうなり声を上げているのは俺とそう歳も変わらないであろう少年。
そしてその少年の腹を何度も何度も蹴り上げているのは、いかにも豪華な装飾のされた服を着込んだ男だった。
少年の顔や肌には、これまでにも幾度となく暴力が繰り返されてきたのか、痛々しい痣が残っている。
思わず息を呑んだ。
知識としてなかったわけじゃない。奴隷が主人から暴力を受けるという話も決して珍しくはない。
しかし、俺はまだこの世界における奴隷というものを理解していなかったのかもしれない。
収容所に入れられた時も、いつか奴隷から解放されるような根拠のない自信があった。
2年間身を粉にして働かされてきたが、現代でいうブラック企業の延長のような気持ちで見ていたのかもしれない。
だからこそ俺は、強い衝撃を受けざるを得なかった。
この少年が主人に暴力を振るわれているという光景は、奴隷には人権がないとまざまざと思い知らされたようなものだったのだ。
苦痛をどうにか耐える少年の姿に、俺は場違いだと思いつつも尊敬の念が沸き起こったのが分かった。
この少年は強い。
現実を受け入れきれていない俺なんかよりもずっとずっと。
すぐにでも行為を止めさせたかったが、俺にはそのような権限はない。
暴力男は着込んでいる服からして、この館で相当な権力を持っているものに違いなかった。
己の非力さに情けなくなり、唇を噛みしめた。
やがて鈍い衝撃音が消えると、男は部屋の中にあった扉から別室へと移ったようだった。
暴力が行われていたこの部屋は、広さや調度品から見て先刻まで俺がいた物とは別の使用人室だろう。使用人室はすぐ隣の主人の広い部屋へと扉で繋がっており、廊下へ出ずとも行き来ができる。
「おい、大丈夫か?」
隣へ行った男に気づかれないよう、小声で少年に駆け寄り話しかける。
近くまで行くと、より少年の傷だらけの痛々しい体に怒りがわいたが、この場でぐちぐち言っても何にもならない。
無言で起き上がろうとする少年を手を貸し、上体を起こしてやる。
少年の顔を覗き込むと、その目と視線がかちあった。意識が朦朧としているのか、どこか焦点の合っていない目だった。
しかしその目はすぐにふいと逸らされ、少年は嫌そうに顔を歪めた。
「……」
「あっ、おい!」
力が入らないのか、かくかくと震える足でどうにか立ち上がり、少年は歩き出した。
肩でも貸してやろうと少年に手を伸ばすが、すげなく片手で手を弾かれる。
弾かれた手を思わず呆然と見やり、それから歩き去っていく少年を背をぼんやりと見つめた。
天蓋の付いた豪華なベットに座り込み、フィリアが楽しそうに足を揺らす。
「どうでした? 修業の方は」
にこにこと笑いながら、ベッドのそばに立つ俺に話しかける。
ぼんやりと考え事をしていた頭を小さく振り、余計なものを振り払った。
「本日は紅茶の入れ方を教わりました。私の師匠はローレンツ様のようです」
「そっか、ローレンツお爺さんか……。お爺さんなら、安心して任せられそうです」
「はい。お心遣いありがとうございます」
師匠の名を聞き、フィリアは少しほっとしたように息をついた。やはりフィリアも、俺が忌み嫌われていることから剣呑な関係になることを危惧していたようだ。
俺はまだ執事として半人前もいいところなので、フィリアの傍にはいられない。
故に、今日フィリアとこうして話をするのは初めてなのだ。
だからこそ、フィリアの機嫌がいいのかもしれない。
「何か他にあった? 変わったこと」
何気なさそうに話題転換した彼女に対して、俺は少し押し黙る。
変わったことといえばあったが、それを彼女に話しても意味など無いだろう。彼女を無駄に悲しませてしまうだけだ。
「いえ、特には。……お嬢様はいかがでしたか?」
あの件に関しては、俺個人でどうにかしたい。
楽しそうに今日の出来事を語るフィリアの声を聴きながら、俺はそう思った。




