第8話 破滅への号令
「……もはや、手段を選んでいる場合ではありません」
男爵の館、地下の隠し部屋。ゼイドは青白い顔で、懐から一枚の紙を取り出した。
「三日後の監査までに、決定的な証人を消してしまえば、証拠の信憑性そのものを揺るがせます」
「証人……?」
「ユキとかいう小娘の父親です。牢の中で、男爵様の不正について、洗いざらい証言する構えだとか」
「そ、それは……」
「事故に見せかけて、始末しましょう。……牢が火事にでもなれば、誰も不審には思いません」
男爵の顔から、血の気が引いた。だが、破滅を目前にした恐怖が、最後の理性を押し流していく。
「……や、やれ。すべて、事故として処理しろ」
「賢明なご判断です」
その夜。牢獄のある建物の一角から、紅蓮の炎が立ち上った。
「火事だ! 牢が燃えているぞ!」
「水だ、水を持ってこい!」
近隣の兵士たちが叫ぶが、火の勢いは異常に早い。油を含んだ魔導火薬が使われているのは明らかだった。
燃え盛る牢の中、ユキの父は鉄格子に縋りつきながら咳き込んでいた。
「ゲホッ……ゲホッ……! こんな、ところで……」
脳裏に浮かぶのは、娘ユキの顔だ。
(……すまん、ユキ。父さんは、お前を……)
絶望が視界を覆い尽くそうとした、その瞬間。
「――遅いよ。逃げるならもっと早くしないと」
凛とした少年の声が響いた。同時に、世界が白く染まる。
「エリーゼ!」
「『絶対凍結』」
女の声が響く。パキパキパキィィィン!!
空気が悲鳴を上げるような音と共に、燃え盛る炎が一瞬にして「氷の彫刻」へと変わった。崩れ落ちそうだった鉄格子も、迫り来る熱波も、すべてが青白い氷の中に閉じ込められる。
「な……んだ……?」
ユキの父が呆然と見上げると、そこには漆黒の外套を羽織ったアルトと、杖を構えたエリーゼ、そして瓦礫をものともせず駆けつけたライナスの姿があった。
「け、怪我はありませんか!」
「……ぇ、あんたは、湯けむり亭の……」
ライナスに抱え出されたユキの父。その目の前に、松明を持った兵士たちの集団が現れる。先頭に立つのは、青ざめた顔のゼイドだ。
「チッ……火が消えただと。……まさか、消えるとは」
ゼイドはわざとらしく驚いて見せた。
「危ないですよ、若旦那様。ここは火事現場です。……それにしても、運のいい方だ。放火犯を目撃した証人にでもなってもらいましょうか」
「放火犯?」
アルトは氷漬けになった牢を背に、ゆっくりとゼイドへ歩み寄った。その足元の石畳に、蜘蛛の巣のような細い亀裂が、音もなく走っていく。
「それ、誰のこと? まさか、この人が自分の牢に火をつけた、なんて言うつもりじゃないよね」
「ハッハッハ! その通り! 絶望した末の自殺未遂でしょう!」
ゼイドの下卑た笑い声。それを聞いた瞬間——アルトの瞳から、感情という感情が、すっと消え失せた。
「……はぁ。もう、いいや」
周囲の温度が、一気に氷点下まで叩き落とされる。
「三日、待ってあげるつもりだったんだけどね。証拠が全部揃うまで、大人しく泳いでてほしかったんだけど」
アルトの声には、これまでの軽薄さの欠片もなかった。
「ライナス。エリーゼ。……もう、遠慮はいらないよ」
「御意」
アルトの指で、隠されていた銀色の指輪が、月明かりを受けて妖しく輝き始めた。
(つづく)




