第2話 温泉に隠された悪
湯けむり亭の一室。アルトは豪華なソファに深く腰掛け、高級な葡萄ジュースを口にしていた。
「ねえ、エリーゼ。例の件、調べてきてくれた?」
影のように控えていた魔導師エリーゼが、無表情のまま頷く。
「はい、アルト様。源泉の調査を完了しました。……事態は、想像以上に悪質です」
エリーゼは一枚の魔法陣の写しをテーブルに広げた。
「男爵は源泉の真上に巨大な術式を設置し、温泉から治癒魔力のみを凝縮して抽出しています。その結果、残った水には生命力を削る『劣化成分』が残留しています」
アルトはグラスを置いた。その瞳が、スッと細くなる。
「劣化成分……。それ、ただの熱湯よりたちが悪いじゃん」
若旦那らしい、どこか他人事のような口調。だが、ライナスとエリーゼは知っている。アルトが指先でテーブルを叩くリズムが、怒りを抑える時のそれであることを。
「さらに、その劣化成分を、闇の錬金術師ゼイドという男が加工し、依存性の高い偽薬に変えているようです。今夜も広場で『男爵からの施し』と称して配布が行われるとのこと」
「ふーん。最悪のビジネスモデルだね。……ちょっと見学に行こうか」
夜の広場。寒さに震え、痩せこけた村人たちが列をなしていた。中心では、派手なローブを纏った男——ゼイドが、大きな樽の前に立って声を張り上げている。
「さあ、ありがたく飲め! 男爵様からの慈悲だ! これを飲めば痛みも消え、たちまち元気になれるぞ!」
表向きは慈愛に満ちた声を張り上げながら、ゼイドは樽の陰で、側近だけに聞こえる声で毒づいた。
「……ケッ、チョロいもんだ。汚染水を『聖水』だと崇めて飲みやがる」
「し、しかしゼイド様。これを飲み続けたら、彼らは半年も持たずに……」
「馬鹿野郎、それがいいんじゃねぇか。依存症にさせて、死ぬまで労働力を絞り取る。死んだらまた新しい家畜を補充すればいい」
配られているのは、濁り、腐敗したような臭いを放つ液体だ。幼い子供や老人が、それを涙ながらに受け取り、喉を鳴らして飲み干していく。
物陰からそれを見ていたアルトの口から、ため息が漏れた。
「……ひどいな」
その言葉とは裏腹に、アルトが手をついていた石壁に、蜘蛛の巣のような細い亀裂が、音もなく一筋走った。
「アルト様」
エリーゼが静かに、アルトの背中に手を添える。
「……あ、ごめん。大丈夫、大丈夫」
アルトは小さく息を吐き、いつもの軽薄な笑みを取り戻した。だが、握りしめた拳の中で、指先だけがまだ、氷のように冷たいままだった。
「エリーゼ、あいつの顔、覚えたよね?」
「はい。闇の錬金術師ゼイド。ギルドから永久追放された罪人です」
「よし。証拠はまだ足りない。……もう少し、泳がせよう」
アルトはゼイドの背を見据えながら、静かに、けれど確かな熱を持って呟いた。
「大丈夫。急がなくても、僕にはいくらでも時間がある。……それに、こういう手合いは、追い詰め方を間違えると、証拠ごと燃やして逃げるからね」
その言葉に、ライナスとエリーゼは顔を見合わせた。いつもの気まぐれな若旦那の顔は、そこにはもうなかった。二人がよく知る、もう一つの——迷いのない、冷徹な貌だ。
「明日、もう一度、男爵に『商談』を申し込もう。今度は、下手に出てね」
「下手に、ですか?」
ライナスが意外そうに聞き返す。アルトはにやりと笑った。
「うん。舐められれば舐められるほど、後が楽しいでしょ?」
(つづく)




