第2話 夢のような日々は悪夢に代わる
「はぁ、はぁ。……本っ当に、意味わかんない!!」
こんなの全部【異常事態】だ。
クルイモノに追いかけられるまでなら、普通に起こりえることだ。
なんなら、朝、排気口から覗く何かと目が合った瞬間からおかしかった。
そうだとしても、この状況はありえない。
「レがリぁス、よこせぇ」
まさか、クルイモノが喋りながら追いかけてくるなんて、誰が思うんだ!!
「どうして、こんなことに……」
意地を張らずにお義母さんが迎えに来るのを待っていればよかった。
別の道から帰ればいいだなんて、驕らなければよかった。
――そうしていれば、今、クルイモノ達に追いかけられることなかったのに。
「レがリぁス、よこせぇ」
さっきから追いかけてくるクルイモノが言っている【レガリアス】?って一体何なの。
私、そんなの知らない。
あぁ、もう。なんで私、こんなことになっているんだっけ?
*
「徒歩で帰るのも久しぶりだなぁ。注意報が出ていても歩いて帰っている人もいるし、悪いことじゃないよね」
朝のことがあって、ちょっぴり不安だった。
でも、今のところ特にトラブルが起こるわけでもなく、クルイモノに遭遇することもない。
今帰っている道は朝とは違う道。
『急がば回れ』って、言葉が存在しているんだ。
遠回りして帰るのは何も悪いことじゃない。
ビビる必要なんかどこにもなかったかも。いやいや、油断は禁物。
まだ家についていない、この状況で大丈夫だなんて胸を張って言えないんだ。慎重に帰らないと。
「出てこないでよ~。」
さっきから、生温かい視線を感じるな……。
まるで、子供が見栄を張って無理をしているのを眺める母親のようなやつ。
「ねぇ、ママどうしてあのお姉ちゃんあんな格好で歩いてるの?」
「こら指ささないの。お姉さん恥ずかしがっちゃうでしょ。やめなさい」
「はーい」
……もしかして、部活で使うはずだったテニスラケットを両手で構えながら歩く姿は、ひょっとしてかなりの不審者では?
その視線にさらされているのって私?
どうしよう。すごく恥ずかしい。
今すぐにその場でひとしきり叫んでから走り出したい気分だ。
でも、そうしたらまるであの無邪気な言葉を意識しているみたいじゃない。
……とりあえず、ラケットは下ろすか。
『■、こっちにおいで』
え?今の声、何だろう。どこか懐かしい感じがする。
――まるで、母親が子供を呼ぶような暖かで柔らかな声が確かに耳に入った。
まぁ、きっと気のせいだ。そうに違いない。
だって、本当のお母さんの顔を覚えていないのよ。声なんか覚えているはずがない。
『■、そっ■は危■■よ。ほら、お■さんのところにおいで』
ほら、やっぱり。どこか軋んだようにノイズが所々に入っている。
少なくとも絶対に人の肉声なんかじゃない。
そう確かに認識しているはずなのに、足が声の方に向くのはなぜ?
「え、なんで。声無視しようとしているのに……」
糸で吊られた操り人形のように自分の足が勝手に動く。
私が向かおうとしている家の方向とは違う暗い路地の方へと引き込まれる。
「や、やめて。いやだ。そっち側に行きたくない」
自分の体のはずなのに、なんで思う通りに動かないの?
怖い、恐ろしい。そんな感情が心の中を巣食うせいか、背筋がぞわりと粟立って気持ち悪い。
気付いたときには、目の前には苔の生えたじめりとしたコンクリートの壁に、さびれた鉄パイプの管がある場所に出た。
薄暗いその場所から出るために足を動かすと何かが当たる。
硬くもなく柔らかくもない、どこか生温かい熱を帯びた何かが。
「う……うゎ、うぅ。あし」
「だ、誰? どこかにいるの? ……うわぁあ!?」
見なければよかった。
下から苦しそうで痛々しいうめき声が聞こえたから何事かと思ったけど、思ったけども!
まだ若いであろう女の人が、思わず目を逸らしたくなるような無惨な姿で伏せている。
「だ、大丈夫ですか?! 救急車、呼ばなきゃ。あ、でも血が……」
目が暗闇に慣れていないから、はっきりとは見えないのが幸いだった。もし、見えていたらこの場で吐いていたわ。
いや、吐いていないだけで、今でも血なまぐささでめまいがしている。
「おじょう、さん……はやく、にげ、て」
――クルイモノが近くにいるわ。
女の人はそう口にした後、力なく倒れこむ。触れた彼女の手には生きた人の温度がなかった。
その瞬間、確かに何かと目が合った。明らかに敵意を持ち、私を食らわんとする目と。
「クルイモノ、なんでこんなにたくさんいるの?」
毒々しい紫色をした獣の体に、爛々と輝く赤い瞳。極めつけに、胸部に丸い核。
間違いない、学校で習ったクルイモノの見た目そのものだ。
ただ、明らかに様子がおかしい。
「れ、れガりあス……」
もしかして、今喋った? クルイモノが? 彼らには自我なんてないはずなのに。
「ヨこセぇ、ちかラ、タまシい」
間違いない。今目の前にいるクルイモノ、自分の意思で言葉を紡いでいる。
もう何が何だか分からないわ。
現実逃避したい気分だけど、鼻を刺す悪臭とぬちゃぬちゃとした気持ち悪い音がそうはさせてくれない。
「ヒ、ヒィ。近づかないで」
今すぐ逃げないといけないのに、恐怖で足が竦んで動かない。
こうしている間にもクルイモノの腕は私を食らわんと迫っているというのに。
「くワセろぉおおお!」
「いやぁあああ!」
死にたくない。こんなところで終われるものか。
クルイモノに食べられて死ぬなんて残酷な最後、絶対に嫌だ!
*
「はぁ、はぁ。ここまで来れば、流石に追いつかれないよね」
冷静になって考えると、いくら言葉を喋れるからと言って、そう簡単に知能が発達するわけじゃないものね。
今回はそれが功を奏したみたい。地の利は私の方にある。
このまま交番にまで逃げれば、あとはどうにでもなるはず。
「ミィつケタ」
「……やっぱりそう上手くいくはずがなかったわ」
人が頑張って逃げたって言うのにすぐに追いつくなんて無慈悲すぎる。
しかも、さっきよりも数が増えているし、囲まれてしまった。
まさに四面楚歌とはこのことね。助けを呼ぼうと叫んでもきっと届かない。
それでも、逃げないと。このまま死ぬなんて絶対に嫌。
「え、今動かなくなっちゃった?」
足に力が入らない。立ち上がろうにも膝が痛くて立ち上がれない。
普通の人間の体で限界まで走ったから、こうなったのね。
だからって、本当は諦めたくない。
「やっと、クエル」
愉快そうに笑うクルイモノに乱暴に足を掴まれて、宙ぶらりん。
眼前には大きく開けられた獣の口。
あぁ、こんなにもあっさり食べられちゃうのね。
一周回って冷静になってきた。死が間近に迫っているのが分かってしまう。
出来るなら少しでも現実逃避したいけど、頭に血が上って碌に思考できない。
それでもやっぱり。
「まだ、生きていたいなぁ」
本当に小さな願い。心に秘められた純粋な渇望。
死に際にそんなこと、口にしたって無駄だろう。
そんなことは分かっている。
でも、最後まで諦めたくない。
――そう心が叫んだ時だった。
突如、眩い光が私とクルイモノ達の間を穿った。
クルイモノ達にとってその光が天敵だったのか、彼らは苦しそうに呻く。
「一体、何が? ……あ、日記帳」
光の元は案外すぐそばにあった。
中身がさらけ出された鞄の中にあったはずのそれは、今私の目の前でフヨフヨと浮いている。
「れ、れガりあス、そンなトコろに、アッた」
光に怯えながらもクルイモノ達は日記帳に腕を伸ばそうと必死に藻掻く。
しかし、その腕を拒絶するように光はさらに強まるのが目に入る。
「もしかして、私を助けてくれたの?」
頷くように上下した日記帳は私の体にグイッと近づいた。
そう思った瞬間、一枚のカードが日記帳のページから飛び出す。
真っ白で日記帳と同じ金の模様が刻まれた短冊状のカードがふわりと浮かぶ。
「これを手に取ればいいのね」
正直、迷いがないとは言い切れない。
手に取って何も変わらなかったら? ひょっとすると逆に危険かもしれない。
そんな小さな不安たちが付きまとう。
でも、今の私には迷っている余裕なんてない。震える手を何とかカードに向かって伸ばす。
「力を、ちょうだい。今を生きる力を!!」
あれ? カードが光を纏っているけど、なんか強くない?
私ごと光っているような気がするんだけど。
そして、胸に入って溶けていく。
体中に根を張られているみたいに、全身に何かが行き渡る。
「……何これ?!どうなってんの。」
目を開けると、服が茶色のブレザーから白いセーラー服に変わり、なぜか刀を手に持っていた。
まさか、これで戦えってこと?
「まぁでも、いいわよ。こんなに囲まれていたら、ただで抜け出すなんて難しいなんて分かり切っていること」
刀なんて触れたことないはずなのに、戦い方なんて知らないはずなのに。
全部、理解している。
目の前にいるクルイモノ達への恐れは、いつの間にか消えていた。
「帰らなくちゃいけない場所があるの。どいてくれるかしら?」




