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あの大広間での衝撃的なお披露目から、どれほどの時間が過ぎただろうか。
氏族の男たちの地響きのような歓声が、今も耳の奥に残っている。没落し、王都の社交界で「不浄の娘」と石を投げられた私を、彼らは「氏族の母」として、この地を統べる王妃と同等の敬意をもって受け入れたのだ。
あまりの熱狂にめまいを覚えた私を、クィンティリアヌス様はひょいと横抱きにし、周囲の視線を遮るように外套で包み込んで、そのまま奥の私室へと連れ戻してしまった。
「……少し、疲れさせてしまったな。すまない、ウェネラ」
部屋に戻るなり、彼は私を柔らかな長椅子にそっと下ろした。
自ら銀のデキャンタを手に取り、果実の香りがする冷たい水を金杯に注いで私に差し出す。その所作の一つひとつに、身分にそぐわぬほどの甲斐甲斐しさが滲んでいた。
「いえ、疲れなど……。ただ、驚いてしまっただけです。私のような、何も持たない者を、あんなにも温かく迎えてくださるなんて思ってもみなくて」
「何も持たないだと? まだそんなことを言うのか。お前は俺の心すべてを、十年前から独占しているというのに」
クィンティリアヌス様は私の隣に腰を下ろすと、長い足を投げ出し、ふっと息を吐いた。
鎧を外した彼の体からは、圧倒的な野生の香りと、それを包み込む高貴な白檀の香りが立ち上っている。
ふと視線を上げると、至近距離に彼の黄金の瞳があった。鏡のように私の姿を映し出すその瞳が、あまりに熱を帯びていることに気づき、私は思わず水を飲む手を止めた。
「……ウェネラ。お前の肌はまだ、地下牢の冷たさを覚えているな。唇が少し、青いままだ」
「……そうですか? 自分では、もうずいぶん温まったつもりなのですが」
「いいや、足りん。俺が温めてやる必要がある」
彼はそう言うと、私の手から金杯を取り上げ、テーブルに置いた。
そして、私の冷えた指先を一つひとつ、自分の大きな掌で包み込んでいく。
ゴツゴツとした、剣だこ(だこ)のある硬い指先。けれど、その感触は驚くほど優しく、まるで壊れやすい薄氷を扱うかのようだった。
「クィンティリアヌス様……。その、お仕事はよろしいのですか? 皆様、あなたのご指示を待っていらっしゃるのでは」
「今は、お前を甘やかすこと以上に優先すべき仕事などない。それに、ティベリウスに『邪魔をするな』と厳命してある。奴はクソ真面目だからな、今頃扉の外で仁王立ちになって、羽虫一匹通さずに見張っているだろうよ」
その言葉に私は顔を赤くして俯いた。
最強の豪族の長が、一介の娘を甘やかすために政務を放り出している。その事実が、申し訳なさと同時に、胸の奥をムズムズさせるような甘い痺れ(しびれ)をもたらす。
「さあ、ウェネラ。次は『浄化』だ」
「じょ、浄化……?」
「汚れを落とす。お前のその白い肌に、忌まわしい牢の記憶を一欠片も残したくないのだ。……風呂の準備をさせてある」
案内されたのは、寝室のさらに奥、床が美しい大理石で敷き詰められた広大な浴場だった。
中心には、絶え間なくお湯が溢れ出す円形の浴槽があり、そこには色とりどりの花びらが浮かべられている。湯気とともに立ち上るのは、高価な薬草と花の香り。王宮の浴場さえ凌ぐほどの贅沢な空間だった。
「……わあ……。綺麗……」
「気に入ったか。……さあ、脱げ。俺が洗ってやる」
「………………は、はいっ!?」
思わず裏返った声が出た。
私は反射的に自分の胸元を隠し、三歩ほど後ずさる。
いくらなんでも、それは――。
「あ、あの! それは、流石に、侍女の方にお願いするか、自分でできます! クィンティリアヌス様は、その、外でお待ちくださいませ!」
「なぜだ? 俺は、お前のすべてを把握しておきたいと言ったはずだ。お前の背中に残った傷も、痣も、汚れも、すべて俺の手で癒やし、消し去りたいのだ」
彼は本気だった。
邪な下心があるようには見えない――いや、むしろ純粋すぎて断りづらいほどの「奉仕の精神」が、その瞳には宿っている。けれど、私にとっては心臓が爆発しかねない事態だ。
「……だめ、です。恥ずかしくて、死んでしまいます……。お願いです、これだけは、お許しください……っ」
私が顔を真っ赤にして、消え入りそうな声で懇願すると、クィンティリアヌス様はわずかに眉を寄せ、困ったように首を傾げた。
「……恥ずかしい、か。……そうか。お前はまだ、俺を『他人』として見ているのだな」
「そういうわけでは! ただ、その、礼儀というか、淑女として……」
「俺の前で淑女である必要はない。お前は、俺の獲物で、俺の宝物で、俺の妻になる女だ。……だが、嫌がることをして、お前に嫌われるのは、もっと嫌だ」
彼は深く溜息をつくと、歩み寄って私の額にコツンと自分の額をぶつけた。
鼻先が触れ合うほどの距離。彼の吐息が、私の唇をかすめていく。
「わかった。今回は引き下がろう。だが、髪だけは洗わせてくれ。それは譲れん」
「髪……だけ、なら……」
譲歩したつもりだった。
けれど、それがどれほど「濃密」な時間になるかを、私は甘く見ていた。
湯船の縁に腰掛けた私の背後に、クィンティリアヌス様が膝をつく。
彼は上着を脱ぎ、シャツの袖を捲り上げて、逞しい腕を露わにしていた。
温かいお湯が、私の髪に注がれる。そして、昨日彼が選んだあの香油の香りが、再び鼻腔を満たした。
「……力を抜いていろ」
彼の大きな手が、私の頭を支え、指先が頭皮を優しく解していく。
硬くて荒々しい手のはずなのに、その感触は信じられないほど繊細だ。指先が動くたびに、うなじから背筋にかけて、甘い震えが走り抜ける。
「……あ……う……」
「痛いか?」
「いえ……あまりに、気持ちよくて……」
王都にいた頃、侍女に髪を洗ってもらうことは日常だった。けれど、これほどまでに「愛されている」と感じる手つきを、私は知らなかった。
彼は私の髪を一房ずつ、まるで宝石を磨くように丁寧に洗い上げていく。
時折、耳の後ろを彼の親指がかすめるたびに、私は逃げ場のない熱に浮かされたように呼吸を乱した。
「ウェネラ……。お前の髪は、本当に心地よい香りがするな。俺が買い占めた香料よりも、お前自身の熱が混じったこの香りの方が、俺を狂わせる」
彼の声がすぐ耳元で響く。
低い、熱を帯びた独占欲に満ちた調べ。
私は自分の心臓の音が彼に聞こえてしまうのではないかと怖くなる。
「……クィンティリアヌス様。どうして、私なのですか? 王家には、もっと美しく、もっと力のある令嬢がたくさんいたはずです」
「……まだわからんのか」
彼の動きが止まった。
濡れた私の髪を束ね、彼はその首筋に、唇を寄せた。
「お前がパンをくれたあの日、俺は空腹で死ぬところだったのではない。絶望で心が死んでいたのだ。世界は敵ばかりで、誰も俺を見ていなかった。……だが、お前だけが俺を見つけ、泥にまみれた俺の手を、汚いとも思わずに握ってくれた」
首筋に彼の熱い唇が触れる。
吸い付くような、けれど噛み締めるような、重い口付け。
「……あ……っ」
「その瞬間から、俺の世界にはお前しかいなくなった。お前以外の女など、ただの石ころと同じだ。……お前が没落したと聞いた時、俺は生まれて初めて、神に感謝した。これでようやく、お前をこの地に、俺だけの檻に閉じ込められると」
ゾク、とした。
それは恐怖。けれど、それ以上に強い、暴力的なまでの愛。
一歩間違えれば狂気。けれど、その狂気の矛先が、すべて私への「愛」に変換されている。
彼は洗い終えた私の髪に、最後にもう一度、熱い接吻を落とした。
「……さあ、上がれ。これ以上、この香りに当てられては、俺の理性が持たん」
彼は不意に私を抱き上げると、今度は分厚いタオルで私をくるみ、子供をあやすようにして体を拭き始めた。
お風呂から上がった後、私は再び彼の大きなシャツを借り、天蓋付きのベッドへと運ばれた。
外はすでに深い夜。けれど、この城の中は、クィンティリアヌス様が用意させた無数の蝋燭の火で、昼間のように明るい。
「今夜は……ここで眠れ。俺も、傍にいる」
「えっ……? あ、あの、クィンティリアヌス様は、どこで……?」
「お前の隣だ。……案ずるな、何もしない。ただ、お前が眠っている間に、どこかへ消えてしまわないか、見張っていたいだけだ」
最強の豪族、クィンティリアヌス。
その巨体が、私の隣に横たわる。
ベッドが大きく沈み、彼の体温が毛布越しに伝わってくる。
彼は私の腰を片手で抱き寄せ、自分の胸元に私の頭を預けさせた。
「……クィンティリアヌス様、苦しいです……」
「我慢しろ。俺はもっと苦しいのだからな」
何が、とは聞けなかった。
彼のトクトクと刻む鼓動が、私の耳に直接響いてくる。
その鼓動は、私のものと同じくらい、速く、激しかった。
没落して、すべてを失った。
けれど、この腕の中にいる限り私は何よりも尊い存在として「生存」し続けられる。
私は彼の手をそっと握りしめ、深淵のような深い眠りへと落ちていった。
夢の中で、十年前の私が少年に桃色のリボンを結んでいる。
少年の瞳が黄金色に輝いて、私を一生離さないと誓っていた。あの頃を。




