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クィンティリアヌス様に連れられて案内されたのは、寝室に隣接する広大な「衣裳部屋」だった。
扉が開いた瞬間、私はその光景に息を呑んだ。
「これは……」
そこには王都の最高級店でもお目にかかれないような、目が眩むほど鮮やかな絹やベルベットのドレスが、壁一面に並んでいた。
金糸の刺繍、零れ落ちそうなほどあしらわれた真珠、そしてこの北方地方特有の、美しくなめらかな毛皮の外套。
「すべて、お前のために用意させた。昨日今日で揃えたものではない。数年前から、いつかお前をこの腕に抱く日のために、領地で最も腕の良い職人たちに命じて作らせていたものだ」
数年前から。
その言葉の重みに、心臓がトクンと跳ねる。
私が王都で王太子との不遇な婚約生活に耐え、泥を啜るような思いで家門を守ろうとしていた間、この方はこの北の大地で、私が着るはずの服を、使うはずの装飾品を、一つひとつ積み上げて待っていたのだ。
「……信じられません。あなたは、私のことを……本当に、そんな昔から……」
「言っただろう。俺の時間は、あの路地裏でお前に救われた時から止まっている。あるいは、お前を手に入れるためにのみ動いてきたのだ」
クィンティリアヌス様は、棚の奥から一つの小さな木箱を取り出した。
古びているが、手入れが行き届いたその箱を、彼は愛おしそうに撫でてから私の前に差し出す。
「開けてみろ」
震える指先で、私はその蓋を持ち上げた。
中にあったのは、宝石でもなければ、黄金でもなかった。
それは、酷く色あせ、端がボロボロになった――一本の「桃色のリボン」だった。
「あっ……!」
私の喉から、小さな悲鳴が漏れた。
それは間違いなく、十年前、私が幼い日の慈悲で少年に与えたもの。
当時の私にとっては、ただの髪飾りだった。けれど、今の私にとっては、目の前の「最強の豪族」が抱き続けてきた、狂気にも似た情愛の証左そのものだった。
「ずっと、持っていてくださったのですか? こんな、ただの布切れを……」
「布切れではない。俺にとっては、暗闇に差した唯一の光だった。これを胸に抱いて、俺は戦場を駆け抜け、死の淵から何度も這い上がった。お前に、これ以上みすぼらしい姿を見せぬよう、奪い取れるだけの力を蓄えてな」
クィンティリアヌス様の手が、私の肩を抱き寄せる。
リボンを見つめる彼の横顔は、恐ろしいほどに純粋だった。
世間が彼を「冷酷非情な銀狼」と呼ぼうとも、この瞬間、私の前にいるのは、一途に想いを募らせ続けた一人の男に過ぎなかった。
「……ごめんなさい。私、何も知らなくて……」
「謝るな。お前が謝る必要などどこにもない。……さあ、顔を上げろ。過去の話はここまでだ。今は、今の話をしよう」
彼はリボンの箱を大切に閉じると、並んでいたドレスの中から、一着の真紅のドレスを選び取った。
情熱的で、それでいて気高いその色は、今の私の顔色の悪さを補って余りある輝きを放っている。
「これを着ろ。そして、俺の臣下たちの前へ出る。お前が、この城の新しい主であることを知らしめるのだ」
「えっ、もう……ですか!? まだ、心の準備が……」
「案ずるな。俺が隣にいる。お前に石を投げる者がいれば、その腕を斬り落とし、お前を侮辱する者がいれば、その舌を抜く。……お前はただ、俺の愛に甘んじていればいい」
過激な、けれど彼にとっては「当然の報復」であるかのような宣言。
私は、彼の圧倒的な庇護欲に呑み込まれそうになりながらも、コクンと頷いた。
────
着替えを手伝うために呼ばれたのは、グラティアナという名の、物静かながらも芯の強そうな年配の侍女長だった。
彼女は、クィンティリアヌス様が部屋を出た後、驚くほど手際よく私を「令嬢」へと戻していく。
「……ウェネラ様。あなたは、本当に幸福なお方だ」
「え……?」
「旦那様が、これほどまでにお心を砕かれるのは、後にも先にもあなた様お一人でしょう。旦那様は、この日のために、城の一部をあなた好みに改装し、あなたのお好きな花を庭に植え……まさに、この城をあなたのための『揺りかご』にされたのですから」
グラティアナの言葉に、私は鏡の中の自分を見つめた。
着せられた真紅のドレスは、驚くほど私の体に馴染んでいた。
サイズが、完璧なのだ。
直接測ったわけでもないのに、なぜ。
「……なぜ、私のサイズが分かるのかしら」
「旦那様は、あなた様の立ち姿、歩き方、すべてをその目に焼き付けておられました。仕立て屋に命じる際も、ミリ単位の誤差さえ許さなかったと聞いております」
……少し、背筋が震えた。
それは愛ゆえの執着。逃げ場のない、完璧な包囲。
けれど、鏡に映る私は、没落してボロボロだった時よりも、ずっと「生きた」瞳をしていた。
準備が整い、部屋の扉が開く。
そこには、待ちわびていたクィンティリアヌス様が立っていた。
彼は私を見た瞬間、言葉を失った。
黄金の瞳が大きく見開かれ、喉仏が小さく上下する。
「……ああ……。やはり、思った通りだ」
彼はゆっくりと歩み寄り、私の手を取った。
その指先が、わずかに震えているのに気づいて、私は胸が締め付けられる。
戦場で一騎当千の力を振るう男が、私のドレス姿にこれほどまでに動揺している。
「ウェネラ……。お前は、俺の想像を遥かに超えて美しい。……誰にも見せたくない。今すぐこの扉を閉じて、この部屋に閉じ込めてしまいたい」
「……困ります。皆様に、紹介してくださるのでしょう?」
私が少しだけ勇気を出して、彼の袖を引くと、彼は観念したように短く息を吐いた。
「わかっている。……だが、覚悟しておけ。一度お前を俺の隣に立たせれば、全土がお前の存在を知ることになる。二度と、王家には戻らせんぞ」
「はい。……最初から、戻る場所なんてありませんもの」
私は彼の手をギュッと握り返した。
それは、私なりの「覚悟」だった。
この最強の男の隣。そこが私の、新しい戦場であり、安息の地なのだ。
大広間へと続く廊下には、多くの氏族の戦士たちが並んでいた。
その最前列に、クィンティリアヌス様の側近と思われる、鋭い眼光の男が立っている。
「旦那様。……その御方が?」
男の名はティベリウス。
氏族の規律を司る、厳格な武官だ。
彼は、没落令嬢である私を、値踏みするように見つめる。
王都の人間なら、ここで鼻で笑い、私を「汚物」のように扱うだろう。
私は身構えた。
しかし。
クィンティリアヌス様が、私の腰を抱き寄せ、低く、威厳に満ちた声で告げた。
「我が氏族の同胞たちよ、聞け。ここにいるウェネラこそが、俺が長年待ち望んだ唯一の伴侶である。彼女への不敬は、俺への反逆と見なす。彼女の涙一滴に対し、俺は敵の血一升で応えるだろう。……挨拶をしろ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに。
ティベリウスをはじめとする戦士たちが、一斉に、その場に膝をついた。
板張りの床が、ドスンと鈍い音を立てる。
「「「「氏族の母、ウェネラ様に、永遠の忠誠を!」」」」
地響きのような叫び。
それは、没落した私が、生まれて初めて受けた、心からの「敬意」だった。
驚きで目を見開く私に、クィンティリアヌス様が耳元で囁く。
「見たか。ここには、お前を蔑む者など一人もいない。……ここは、お前のための王国だ。ウェネラ」
彼の熱い吐息が耳に触れ、私は顔を赤く染めながら、彼の逞しい腕に寄り添った。
甘い。けれど、あまりに強烈な始まり。私の「生存戦略」は、この日、最強の豪族による「絶対的な守護」という名の、終わりのない溺愛へと形を変えていった。




