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窓の外から聞こえてくるのは、鋭い鳥のさえずりと、遠くで響く兵士たちの訓練の掛け声だった。
私は自分がどこにいるのかを一瞬だけ忘れて、重い瞼を持ち上げる。
「……あ……」
視界に飛び込んできたのは、高く重厚な天井の梁。そして、昨日私を包み込んでくれた、柔らかな真綿のような天蓋付きのベッドだ。
地下牢の、あの刺すような冷気も、腐った藁の臭いもしない。
代わりに鼻腔をくすぐるのは、焚かれた高級な香油と、微かに混じる革と白檀の――男性的で、どこか落ち着く香りがした。
(夢じゃ……なかったのね)
そっと体を起こそうとして、私は自分の格好に気づき、頬を火照らせた。
昨晩、クィンティリアヌス様が「汚れが落ちるまでこれを使え」と手渡してくれた、彼のものと思われる絹の寝着。
大柄な彼に合わせて仕立てられたそれは、小柄な私の体にはあまりに大きすぎた。肩の部分がずり落ち、鎖骨が丸出しになっている。裾は足首まで隠して余りあるほどで、まるで彼に全身を包囲されているような、奇妙な支配感があった。
「目覚めたか、ウェネラ」
心臓が跳ねた。
声のした方、部屋の隅にある大きな書机を見ると、そこにはすでに正装を整えたクィンティリアヌス様が座っていた。
朝の光を背負った彼の姿は、まるで神話に登場する戦神のように神々しい。
「ク、クィンティリアヌス様……! あ、おはようございます。あの、起きていらしたのですか?」
「ああ。お前の寝顔があまりに無防備だったものでな。起こすのが惜しくて、ここで少し仕事をしていた」
彼はそう言って立ち上がると、迷いのない足取りでベッドへと近づいてくる。
ドクン、と心臓が鳴る。
彼は私の枕元に腰を下ろすと、自然な動作で私の頬に手を添えた。
「顔色が少し良くなった。昨夜のスープが効いたようだな」
「は、はい……。おかげさまで、よく眠れました。こんなにふかふかの場所で眠ったのは、家が没落して以来、初めてでしたから……」
ふと、悲しい記憶が脳裏をよぎる。
父の無念、王太子からの冷酷な言葉、そして民衆に投げつけられた石の痛み。
俯こうとする私の顎を、彼の温かい指先がくい、と持ち上げた。
「……その顔はよせ。お前を悲しませる過去は、俺がすべてこの手で握りつぶしてやる。お前が今考えるべきなのは、今日の朝食に何を食べるかだ」
彼の黄金の瞳が、至近距離で私を見つめる。
強引な言葉。けれど、そこには私を傷つける要素が一つも含まれていないことが、不思議と伝わってくるのだ。
王宮で「完璧な令嬢」を演じ、常に他人の顔色を伺って生きてきた私にとって、これほどまでに直球で、力強い肯定を向けられたのは初めてだった。
「……ありがとうございます。でも、クィンティリアヌス様。私、このままここに居続けていいのでしょうか。私は、罪人の娘です。王家が私を探しているかもしれませんし、もし見つかったら、あなたにまで迷惑が……」
「迷惑だと? ふん、笑わせるな」
クィンティリアヌス様は鼻で笑うと、私の髪を一房掬い上げ、愛おしそうに指に絡めた。
「この王国において、俺の意思に背ける者がどこにいる? 王太子だと? あんな腰抜け、お前を牢に入れた報いとして、いずれその首を広場に晒してやってもいいのだぞ」
「い、いえ! そこまでは結構です……!」
冗談には聞こえない。彼なら本当にやりかねない、という迫力があった。
私は慌てて彼を宥めるように、彼の服の袖を掴んだ。
その瞬間、クィンティリアヌス様の瞳が、わずかに揺れた気がした。
「……今、お前から触れたな」
「あ……っ、すみません、生意気なことを……」
「いや。悪くない。むしろ、もっとやれ」
彼は満足げに目を細めると、私の手を自らの大きな手で包み込んだ。
そして、手の甲に、羽毛が触れるような優しいキスを落とす。
「ひゃっ……!」
「朝の挨拶だ。……さて、ウェネラ。今日はまず、お前の髪を整えさせよう。昨夜は湯浴みだけで精一杯だったからな」
彼はそう言うと、私の返事も待たずに、部屋の隅にあるドレッサーへと私を抱き上げた。
昨夜に続き、またしてもお姫様抱っこだ。
足が宙に浮く浮遊感と、彼の逞しい胸板の厚みに、頭がクラクラする。
「あ、あの、クィンティリアヌス様、髪くらい自分でできます……! それに、そんな、高価そうな椅子に……」
「俺がやりたいのだ。ワガママを聞いてくれて」
鏡の前に座らされた私は、そこに映る自分の姿に絶句した。
彼の寝着を纏い、髪は乱れ、けれど頬だけが微かに上気している。
その背後に立つクィンティリアヌス様は、手慣れた様子で象牙の櫛を手に取った。
「……クィンティリアヌス様。あなたのような御方が、女の髪を梳くなんて……おかしいですよ」
「俺は、俺が愛でるべき女性の世話を焼いているだけだ。他人の目などどうでもいい」
愛でるべき、女。
その言葉が、熱を持って私の胸に突き刺さる。
櫛が、私のボサボサだった髪をゆっくりと、丁寧に解いていく。
引っかからないように、痛くないように、信じられないほど繊細な手つきだった。
最強の豪族として、幾多の敵を切り伏せてきたであろうその手が、今は私のために震えるほど慎重に動かされている。
「お前の髪は、やはり美しいな。……黄金の糸のようだ」
「そんな……汚れきっています」
「己の価値を、己自身が貶めるな。我が家の家訓の一つだ」
彼は櫛を置くと、ドレッサーの上に置かれていた小瓶を手に取った。
蓋を開けると、薔薇の芳醇な香りが部屋に広がった。
「これは……?」
「この土地の特産である香油だ。これを塗り込めば、髪に早く艶が戻る。……動くなよ」
彼の手のひらで温められた香油が、私の髪に塗り込まれていく。
彼の指先が、時折、私の首筋や耳の裏に触れる。
そのたびに、私はビクッと肩を揺らし、鏡の中の自分と目が合う。
鏡の中のクィンティリアヌス様は、ひたすらに真剣で、恍惚とした表情で私の髪を弄んでいた。
(……この方は、本当に、私を望んでくださっているの……?)
信じられなかった。
没落した私に、利用価値など何もないはずだ。
持参金もなければ、政治的な後ろ盾もない。
それなのに、彼は私を「救い」ではなく「独占」しようとしている。
「……クィンティリアヌス様、一つだけ、お聞きしてもいいですか?」
「なんだ?」
「昨夜、おっしゃっていた……『十年前』のこと。私は、あなたに何かをしたのでしょうか?」
クィンティリアヌス様の動きが、一瞬だけ止まった。
彼は鏡越しに私を見つめると、ふっと自嘲気味な笑みを浮かべた。
「覚えていなくていい。お前にとっては、些細な親切だったのだろう。だが、路地裏で飢え死にかけ、薄汚い獣のように扱われていた少年に、自分の持っていたパンの半分と、そのリボンを差し出したのは誰だったか?」
パンと、リボン……?
記憶の断片が、霧の中から浮かび上がってくる。
幼い頃、父に連れられて行った辺境の視察。
馬車の窓から見えた、今にも死にそうな瞳をした少年。
私は、父の目を盗んで、おやつに持っていたパンと、自分の髪を飾っていたリボンを、その少年に手渡した……。
「まさか……あの時の?」
「そうだ。その時、俺は誓った。いつか、この命を懸けて、このお転婆で、身の程知らずな優しさを持つ令嬢を、俺のものにすると」
彼は私の髪を最後の一撫ですると、背後から私を抱きしめるようにして、耳元で囁いた。
「十年の歳月は長かった。だが、その甲斐はあった。お前がすべてを失い、俺だけを頼るしかない状況になるのを……俺は、ずっと、ずっと待っていたのだから」
その声には、狂おしいほどの情念がこもっていた。
私は戦慄した。
彼は、私が没落するのを助けてはくれなかった。
むしろ、私がすべてを失い、独りぼっちになるその瞬間を、虎視眈々と狙っていたのだ。
恐ろしい。そう思う反面。
そんなにも長く、深く、重く、私を思い続けてくれた人がいたという事実に、私の心の奥底が、甘い悲鳴を上げていた。
「……あなたは少し、歪んでいらっしゃいます」
「知っているさ。でなければ、この地を一から統治しようなどとは考えぬ。お前が俺を拒んでも、もう遅い。お前の指先から髪の毛一本に至るまで、すべてを俺の愛で塗りつぶしてやる。……覚悟しておけ、ウェネラ」
彼は私の肩に顔を埋め、深く、深く息を吸い込んだ。
まるで、私の存在すべてを自分の体内に取り込もうとするかのように。
私は彼の広い背中に、おずおずと手を回した。
逃げる場所なんて、もうどこにもない。
でも、この「黄金の檻」の中は、外の世界よりもずっと、ずっと温かくて……。
「……お手柔らかに、お願いします。クィンティリアヌス様」
私の小さな、けれど確かな降伏の言葉に、彼は喉を鳴らして低く笑った。
その笑い声が私の背中を通じて心臓にまで響いてくる。
この最強の豪族が注ぎ込む、あまりにも重すぎる愛の海で、溺れないようにしがみつくことだったのだ。
「……さあ、朝食だ。お前を元気にさせりるためのメニューを、専属の料理人に考えさせた。一口も残すことは許さんぞ」
「ふふっ……はい。楽しみにしております」
彼に手を引かれ、私は新しい人生の第一歩を踏み出した。
それは甘くて、少しだけ不自由な、けれど何よりも輝かしい日常だった。




