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「――まだ、震えているのか?」
低く心地よい声が私の鼓膜を震わせた。
視界を埋め尽くすのは上質な漆黒の外套。それを纏うのは、大陸北方を支配する最強と謳われる豪族『灰狼の氏族』の長、クィンティリアヌス様だ。
私は彼に抱き寄せられたまま、カチカチと歯を鳴らす。
震えているのは、寒さのせいではない。ましてや恐怖のせいでもない。
……あまりの「甘やかされぶり」に、脳が情報の処理を拒否しているせいだった。
「……っ、クィンティリアヌス、様……。もう、大丈夫です。自分で、歩けますから」
「嘘をつけ。膝が笑っているではないか。さっきまで、あの薄汚い地下牢に繋がれていたのだぞ? 気丈に振る舞う必要はない。お前はただ、俺に甘えていればいいのだ。ウェネラ」
彼は私の名を呼ぶと、いっそう腕の力を強めた。
鉄のように硬く、逞しい腕。鎧越しに伝わってくるのは、彼が持つ圧倒的な生命力と、火のような熱だ。
私はかつての名門公爵家――カピトヌス家の令嬢、ウェネラ。
数日前、父が身に覚えのない反逆の罪を着せられ、家門は一夜にして取り潰された。婚約者だった王太子からは冷酷に婚約破棄を言い渡され、私は汚物でも見るかのような目で見られながら、冷たく湿った牢獄へと蹴られながら放り込まれたのだ。
明日には処刑か、あるいは辺境への無一文の追放か。
そう絶望していた私を、文字通り「強奪」していったのが、この男だった。
クィンティリアヌス様は、王国の法さえ無視して牢の扉を蹴り破り、私を救い出した。
そして今、私は彼の居城である『ルピナ城』の最上階にある、彼自身の私室へと運び込まれようとしていた。
「クィンティリアヌス様、私のような没落した身の女を、これほど丁重に扱うのは、氏族の皆様に示しがつかないのでは……?」
「気遣い無用。氏族の誰がお前に不平を漏らすというのだ。俺が、お前を望んだ。それだけで十分すぎる理由だ」
彼は部屋の扉を足で蹴るようにして開ける。しかし、さっきの勢いはどこへやら。抱っこして抱えている私が、ドアに頭や足先をぶつけないよう、慎重に通っていく。あまりの繊細なギャップに、少しときめいてしまった。
そして私を大きな天蓋付きのベッドに、壊れ物を扱うような手つきで私を下ろした。
羽毛がたっぷり詰まったマットレスは、痩せ細った私の体を優しく包み込む。
「さて。まずはその汚れた服を脱がせなければな」
「えっ……!? ひっ、ご自分でですか!?」
私が慌てて首を振ると、クィンティリアヌス様は端正な顔をわずかに歪めた。
黄金の瞳が、獲物を狙う猛禽のように鋭く光る。だが、その瞳の奥には、ドロリとした執着と情愛が渦巻いているのを、私は見逃さなかった。
「……心配するな。取って食いはしない。侍女たちが入浴の支度を済ませるまでの間、腕の傷を手当てしてやりたいだけだ。……嫌か?」
「い、嫌というわけでは、ありませんが……。ただ、その、恥ずかしいというか……私のような、みすぼらしい姿をお見せするのは申し訳なくて」
囚われの身だった私は、泥と埃に汚れ、肌は荒れ、髪もボサボサだ。
かつての麗しい令嬢の面影など、どこにもない。
それなのに彼は跪き、私の泥まみれの手を拳でそっと包み込んだ。
「みすぼらしい? ふっ、お前は鏡を見たことがないのか。泥を被ろうが、お前は俺がかつて戦場で一目見た時から、世界で一番尊い存在だ。ウェネラ、俺を拒むな。俺は、お前を慈しむために、君を手に入れたのだ」
大きな、節くれだった指が、私の手首から腕へと、ゆっくりと這い上がる。
その感触があまりに情熱的で、私は思わず「ひゃんっ」と声を漏らしてしまった。光輝魔法の治癒で擦り傷や、打撲跡が次々と治っていく。
「……っ!?」
「美しい声だ。……しかしただの応急処置だ。特別な事は何もしていないというのに」
クィンティリアヌス様は低く笑い、私の肩あたりで手を止めた。
そして、私の顔をじっと見つめ、至近距離まで顔を寄せてくる。
彼の呼吸が、私の唇にかかる。
「……ウェネラ。お前はもう、自由だ。王室も、貴族の義務も、お前を縛るものは何もない。ここが気に入らなければ、去っても構わない。望んではいないが、俺は奴らと違って、絶対に君を縛り付けはしない。もしいてくれるのなら、これからは俺が選ぶ新しい名で、俺の隣で、ただ笑っていればいい」
「新しい、名前……?」
「そうだ。今日からお前は、俺の『婚約者』として、この氏族の一員となるのだ」
あまりに唐突な宣言に、私の思考は完全に停止した。
婚約者? 私が?
一介の没落令嬢が、王国の軍事力の半分を担うと言われる『最強の豪族』の正妻に?
「あ、あの、クィンティリアヌス様……私には、そんな資格は……。それに、私たちは、今日初めてちゃんとお話ししたばかりで……」
「俺にとっては、十年前から決まっていたことだ。お前が覚えているかは知らぬが、俺は、お前に救われたその日から、お前を奪う機会だけを伺っていた」
十年前?
記憶を辿ろうとする私の唇を、彼の親指がなぞる。
彼の指の感触が、敏感になっている肌を刺激し、背筋に甘い電流が走る。
「……困惑するのは当然だ。今はただ、この温かい部屋で、美味いも食べ食い、たっぷりと眠ればいい。お前の失われた頬の肉を戻し、その白い肌に艶を取り戻させるのが、俺の最初の任務だ」
彼はそう言うと、傍らに用意されていた盆から、輝くような琥珀色のスープが入った器を手に取った。
「さあ、あーんしろ」
「えっ、ええっ!? ご自分で食べさせてくださるのですか!?」
「当たり前だ。お前は怪我が治ったばかり。指一本動かす必要はない。俺が、お前の口まで運んでやる」
スプーンですくわれたスープが、私の唇に押し当てられる。
断る間もなく、私はそれを受け入れるしかなかった。
口の中に広がるのは、滋味溢れる肉と野菜の旨味。そして、彼が込めたであろう、重すぎるほどの愛情。
「おいしい……です」
「そうか。もっと食え。お前が健康になるまで、俺は片時も離れんぞ」
クィンティリアヌス様の瞳は真剣そのものだった。
彼はまるで、手に入れたばかりの稀少な小鳥を愛でる少年のように、それでいて、深手を負った獲物を慈しむ獣のように、私を視線で絡め取っていく。
没落して全てを失った。
そう思っていたのに、私はどうやら、世界で最も恐ろしく、そして最も情熱的な男の腕の中に、閉じ込められてしまったらしい。
これから私を待ち受けているのは、過酷な「生存戦略」ではなく、逃げ場のない「溺愛の迷宮」なのだと悟った。
(……でも、この方の手のひらは、どうしてこんなにも、温かいのかしら……)
スープを飲み終える頃には、私の顔は熟した果実のように赤く染まっていた。
クィンティリアヌス様は満足げに微笑むと、私の額に、熱い、誓いのような口付けを落とした。
「ウェネラ。お前を二度と、放さない」
最強の豪族の腕の中で、私は生まれて初めて、甘やかな「降伏」を感じていた。




