第三十五話 夏休み明け
夏休みが終わった。
始業式の日。
朝の空気は、少しだけ秋の匂いを含み始めていた。
それでも蝉はまだ鳴いている。
椿は教室の扉を開けた。
「おはよう!」
「あ、椿!」
久しぶりに会うクラスメイトたちが、あちこちで夏休みの思い出を話している。
「海行った?」
「花火見た?」
「宿題終わった?」
教室はいつも以上に賑やかだった。
その中で。
「椿!」
聞き慣れた声が響く。
桜?だった。
窓際の席から大きく手を振っている。
「おはよ!」
いつもの笑顔。
いつもの声。
椿も小さく頷く。
「……おはよう。」
席へ着くと、桜?は椅子ごと近付いてきた。
「宿題、結局助かったー。」
「ちゃんと写しただけじゃないぞ。」
胸を張る。
「一応、自分でも考えた。」
「一応か。」
「一応。」
二人は小さく笑う。
その様子を見ていたクラスメイトが、呆れたように笑った。
「お前らさ。」
「夏休み中もずっと一緒にいたんじゃないの?」
桜?が笑いながら答える。
「結構遊んだよ。」
「だよな、椿。」
椿は少しだけ間を置いてから頷いた。
「ああ。」
嘘ではない。
毎日のように会っていた。
ただ、その理由だけが誰とも違う。
「いいなぁ。」
「俺なんて部活しかしてねぇ。」
教室に笑い声が広がる。
その輪の中で、椿はふと窓の外を見た。
山。
教室の窓から、小さくその稜線が見える。
あの奥に。
本物の桜はいる。
そう思うだけで、胸の奥が締め付けられた。
「椿?」
桜?が不思議そうに顔を覗き込む。
「どうした?」
「……いや。」
椿は首を振る。
「何でもない。」
その時。
始業式を知らせるチャイムが鳴った。
担任が教室へ入ってくる。
「はい、席着けー。」
クラス中が慌ただしく動き始める。
桜?も自分の席へ戻っていった。
椿はその背中を見つめる。
あの背中は。
毎日見てきた親友のものだ。
けれど、その中にいるのは親友ではない。
その事実だけは。
二学期が始まっても、何一つ変わらなかった。
窓の外では、夏の終わりを告げる風が静かに校庭を吹き抜けていた。
◇
始業式が終わり、最初のホームルーム。
担任が教卓を軽く叩いた。
「連絡事項の前に、一つ。」
教室が静かになる。
「二学期だからな。」
「席替えするぞ。」
一瞬、教室がざわめいた。
「やった!」
「窓際がいい!」
「一番後ろ来い!」
あちこちから歓声が上がる。
椿は特に反応しなかった。
席にはあまり興味がない。
だが。
教卓の横で、桜?は苦笑いを浮かべていた。
ほんの少しだけ、椿の方を見る。
その視線に気付いた椿は、何も言わず目を逸らした。
◇
「じゃあ、くじ引けー。」
一人ずつ前へ出て、番号札を引いていく。
教室中が落ち着かない空気に包まれていた。
「三番!」
「十五番かぁ。」
そんな声が飛び交う。
やがて椿の番になる。
一枚引く。
十八番。
黒板の座席表を見る。
教室の後ろ、窓際だった。
「……。」
悪くない。
そのまま席へ荷物を移し始める。
少し遅れて、桜?もくじを引いた。
「えーっと。」
札を見る。
「九番。」
黒板へ目を向ける。
「あ。」
少しだけ肩を落とした。
前から二列目。
椿とは教室の端と端だった。
「離れたな。」
椿がぽつりと言う。
桜?は一瞬だけ黙る。
それから、いつものように笑った。
「放課後あるしいっか。」
その笑顔は明るかった。
けれど。
椿にはほんの少しだけ、無理をしているように見えた。
◇
席替えが終わると、二時間目が始まる。
教師の声が教室へ響く。
椿はノートを開いた。
ふと前を見る。
桜?は新しい席で、隣になった男子と早速話していた。
笑っている。
周りも笑っている。
いつもの人気者の桜だ。
その姿を見ながら、椿は小さく目を伏せた。
桜は。
本当に誰とでも仲良くなれた。
自分だけを見ていたことなんて、一度もない。
だからこそ。
今、目の前にいる桜?が。
放課後になると自分の隣ばかり歩くことが、やはり少しだけ不自然だった。
「……。」
その違和感は。
まだ言葉にならない。
けれど、確かにそこにあった。
◇
昼休み。
弁当を持って立ち上がろうとすると、
「椿!」
桜?が教室の前から手を振った。
「いつもの場所行こ!」
教室の何人かが笑う。
「また二人かよ!」
「仲良すぎ!」
桜?は照れくさそうに笑いながら、
「昔からだから。」
とだけ答えた。
椿は弁当を持って立ち上がる。
その時。
ふと、思った。
昔からだっただろうか。
桜は。
昼休み、自分を誘うこともあった。
でも。
他の友達と食べる日も、少なくなかった。
だから自分も、一人で食べたり、他の友達と食べたりしていた。
それが普通だった。
なのに。
桜じゃないとわかってからの桜?は。
毎日、自分を誘う。
「椿?」
考え込んでいた椿へ、桜?が首を傾げる。
「どうした?」
椿は静かに首を振った。
「……何でもない。」
そう言って歩き出したが。
胸の中の違和感は、また一つだけ大きくなっていた。
教室を出ようとした椿は、ふと足を止めた。
「……そうだ。」
桜?が振り返る。
「ん?」
椿は少し言いにくそうに視線を逸らした。
「明日は。」
一度言葉を区切る。
「別の友達と食べるつもりだから。」
桜?の笑顔がわずかに止まる。
「明日は、ごめんな。」
ほんの数秒。
沈黙が流れた。
やがて桜?は、いつものように笑う。
「あ、そっか!」
明るい声だった。
「全然いいよ。」
笑顔のまま手を振る。
「たまにはそういう日もあるよね。俺も適当に誰か誘うし。」
椿は小さく頷いた。
「悪い。」
「だから謝らなくていいって。」
桜?は困ったように笑う。
「親友だからって毎日一緒にいる必要ないじゃん。」
その言葉に、椿は少しだけ安心した。
「……そうだな。」
「うん。」
桜?は変わらない笑顔で頷く。
「じゃ、今日は行こ。」
二人はそのまま屋上へ向かった。
◇
その日の帰り道。
椿と別れたあと。
桜?は一人、自転車を押しながら歩いていた。
夕日が長い影を作る。
「……毎日じゃなくても。」
小さく呟く。
「平気。」
そう言い聞かせるように笑う。
「一日くらい。」
「平気。」
けれど。
その笑顔は少しずつ消えていく。
椿が、自分ではない誰かと笑っている姿を想像した瞬間。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
「……なんで。」
思わず立ち止まる。
「嫌なんだろ。」
自分でも、その感情が理解できなかった。
椿は「明日は別の友達と食べる」と言っただけだ。
たった一日。
それだけなのに。
どうしてこんなにも落ち着かないのか。
桜?はゆっくりと目を閉じる。
「……一日だけ。」
小さく笑う。
「一日だけだから。」
そう何度も自分に言い聞かせながら、自転車を押して歩き出した。




