第9話 記録保管室
館内放送の声が、しばらく天井に残っていた。
『……おなか……すいた……』
壊れたスピーカーから落ちたその声は、もう消えている。
それでも通路の空気には、まだ子どもの声の名残がまとわりついていた。
赤い非常灯が点滅する。
床には倒れた異形。
拘束された個体が、まだ微かに痙攣している。
通常戦闘員二名は重傷。一名は行方不明。支援班が後方で負傷者を回収していた。
啓介は奥の通路を見ていた。
声は、あちらから聞こえた。
助けを求める声。
だが、その後に続いた言葉は、人間のものではなかった。
相良が冷静に言う。
「誘導音声の可能性が高い。追うべきではない」
啓介は振り向かない。
「確認する」
「罠なら、さらに損耗する」
「声があるなら確認する」
短い言葉だった。
けれど、そこには譲る気配がなかった。
鬼塚が低く笑う。
「子どもの声を無視して進めるほど、俺は器用じゃねえ」
相良は鬼塚を見る。
その目は、ただ見ているだけではない。
反応を測っている目だった。
「あなたも危険ね」
「人間らしいだけだ」
鬼塚はそれだけ返した。
その時、通信が入る。
『負傷者は後方へ下げろ。封鎖班は外周維持。DARKNESS、GRAVE、CHAINは館内放送の発信源を確認。FANGはSHADEを追え。単独行動を止めろ』
南條の声だった。
一真は奥の別通路を見た。
黒瀬が消えた方向。
記録保管室へ続く通路。
「……了解」
返事はした。
だが声は硬かった。
啓介が一真を見る。
「黒瀬を追うのか」
「ああ。あいつ、勝手に奥へ行ったからな」
「気をつけろ」
一真は一瞬だけ目を逸らした。
「そっちこそ」
それだけ言って、一真は走り出した。
啓介はその背中を見送る。
何かを隠している。
そう感じた。
だが今は追えない。
奥の通路から、また微かなノイズが聞こえた。
『……たす……』
啓介は顔を上げる。
「行くぞ」
鬼塚が頷く。
相良は何も言わず、端末を開いた。
「何をしてる」
啓介が問う。
「隔壁制御の確認。退路を確保しているだけ」
相良の声は平坦だった。
画面には、施設内の複数区画が表示されている。
館内放送の発信源。
記録保管室周辺。
外周退避路。
支援班の後送ルート。
黒瀬が向かった通路。
相良の指が、いくつかの隔壁番号の上を滑る。
鬼塚がそれを横目で見た。
「退路って言い方、嫌な響きだな」
「帰る意思がある者には、必要なものよ」
相良は端末を閉じた。
鬼塚の目が、わずかに細くなる。
◇
黒瀬は、記録保管室へ向かっていた。
SHADEの暗色装甲は、非常灯の赤の中でも輪郭を薄くしている。
歩く音はほとんどない。
壁の血痕。
床に残る小さな足跡。
破られた隔離扉。
それらを横目で確認しながら、黒瀬は迷わず進む。
奥から異形の気配がした。
黒瀬は足を止める。
天井裏を何かが走った。
小さな爪が金属を叩く音。
黒瀬は呼吸を落とし、壁際の影へ身体を寄せた。
音が頭上を通り過ぎる。
少し離れた通路で、何かが落ちる音がした。
黒瀬は動かなかった。
数秒後、気配が遠ざかる。
ようやく、黒瀬は前へ進んだ。
記録保管室。
案内板の赤い文字が、薄暗い通路の奥で点滅している。
扉の前には、職員らしき死体が倒れていた。
胸には認証カード。
黒瀬はしゃがみ、カードを抜き取る。
「……悪いな」
小さく呟いて、扉の認証端末へカードをかざした。
警告音。
ロック解除。
扉が少しだけ開く。
黒瀬は中へ入った。
◇
記録保管室は、思っていたより狭かった。
壁際にサーバーラックが並び、中央には端末卓が三つ。
紙の資料はほとんどない。
床には割れたモニターと、引きずられた血の跡。
奥の非常電源だけが生きていて、数台の端末が弱い光を放っていた。
黒瀬は端末の前に立つ。
ロックがかかっている。
だが、黒瀬は驚かなかった。
腰の収納から小型の解除キーを取り出し、端末へ接続する。
黒い画面に、白い文字列が走った。
認証。
照合。
制限解除。
黒瀬の指が端末を叩く。
検索項目。
南米第七施設。
S-07。
児童適合群。
TAIDA-V。
画面が切り替わる。
記録が並んだ。
S-07児童適合群。
TAIDA-V第六改変試験。
暴走傾向観察。
被験体年齢、五歳から十二歳。
適合率異常値。
隔離継続。
回収不能個体。
死亡扱い処理済。
黒瀬の目が、画面を追う。
怒りは顔に出ない。
だが、その指だけが一瞬止まった。
「……保護、ね」
短く吐き捨てる。
さらに深い階層を開く。
外部搬送履歴。
そこに、不自然な項目があった。
SP候補群。
適合率異常値。
国内中枢施設へ移管。
記録一部欠損。
初期保護記録、秘匿。
出生情報、未登録。
黒瀬は目を細める。
「……本部にも繋がってるのか」
さらにデータをまとめる。
児童適合群。
TAIDA-V改変試験。
被験体リスト。
死亡扱い処理。
外部搬送履歴。
thejapan系財団の支援名目データ。
資金ルートの断片。
全部ではない。
だが、外へ出すには十分な火種だった。
黒瀬は送信用の暗号化プログラムを起動する。
「……これだけは、外に出す」
◇
一真は走っていた。
赤い非常灯が通路を細切れに照らす。
床には血。
壁には爪痕。
足元に転がる子ども用の名札。
黒瀬が何をしようとしているのか。
もう分かっていた。
そして、自分が何を命じられているのかも。
南條の声が、まだ耳の奥に残っている。
監視しろ。
拘束を優先。
情報流出または部隊崩壊の危険がある場合は、排除を許可する。
啓介には知らせるな。
けれど、それだけではなかった。
出動前。
格納庫の裏。
南條は一真だけを呼び止めた。
その時の声が、記憶の底から浮かぶ。
(相良より先に押さえろ)
一真の足が一瞬だけ強く床を蹴る。
(あいつが動けば、黒瀬も鬼塚も生きては戻れない)
相良。
CHAIN。
捕獲担当。
だが本当は違う。
(いいか、一真。殺すな)
南條の声は低かった。
(可能な限り、生かして連れ戻せ)
一真は歯を食いしばる。
だったら、なぜ啓介じゃない。
そう聞いた。
南條は答えた。
(啓介は監視対象だ。)
(そして、真実を知ればあいつは壊れる……)
(お前なら、まだ任務の形で動ける。場合によっては非情にも成れる……)
「勝手なこと言いやがって……」
一真は息を吐いた。
それでも走る。
黒瀬を止めるために。
殺させないために。
◇
啓介たちは、館内放送の声がした方へ進んでいた。
通路の先には、小児隔離区画と書かれた案内板がある。
その奥から、またノイズが漏れた。
『……たすけて……』
鬼塚が低く言う。
「まただ」
相良は端末を見ている。
「熱源が安定していない。生存者と断定できない」
「断定できなくても確認する」
啓介は歩みを止めなかった。
相良は横目で啓介を見る。
「あなたは判断が遅れる」
「何だと」
「対象に過去の属性を見ている。子どもだった。人間だった。そういう情報が、今の危険性を薄めている」
啓介は相良を見た。
「だから切れと言うのか」
「必要なら」
鬼塚が前へ出た。
「てめえは何でもそうやって片づけるのか」
「片づけなければ、増える」
「人間を荷物みてえに言うな」
「あなたも危険ね」
相良の声は変わらない。
鬼塚は笑わなかった。
「さっきも聞いた」
相良は端末に視線を落とす。
鬼塚の生体反応。
識別コード。
位置情報。
彼女の指が、監視対象の項目を開く。
BR-01。
GRAVE。
状態、戦闘継続可能。
反応値、上昇。
心理負荷、推定高。
相良はその項目に、小さく印を付けた。
啓介はそれに気づかない。
鬼塚は、気づいた。
「何を登録した」
「戦術管理」
「嘘が下手だな」
相良は答えなかった。
その沈黙が、答えに近かった。
◇
記録保管室の扉は半開きだった。
一真は足を止める。
中から端末の駆動音が聞こえる。
人の気配。
黒瀬だ。
一真は短く息を吸い、扉を押し開けた。
黒瀬は端末の前に立っていた。
SHADEの装甲は暗い部屋の中で、ほとんど影そのものに見える。
「黒瀬」
黒瀬は振り返らない。
「来ると思った」
「戻れ。今ならまだ間に合う」
黒瀬は端末から目を離さずに言った。
「何に間に合う。任務か。処分か」
一真は言葉を詰まらせた。
黒瀬がようやく振り返る。
「お前も知っていたんだろ」
「全部じゃない」
「十分だ」
一真は黒瀬の背後にある画面を見た。
そこには、施設の記録が並んでいる。
被験体。
年齢。
適合率。
死亡扱い。
搬送履歴。
一真の表情が歪む。
「……これが」
「南米第七施設の本当の顔だ」
黒瀬は静かに言った。
「孤児保護。医療支援。長期滞在型保護環境。全部、看板だけだ」
一真は端末を見たまま黙る。
「これが外に出れば、少なくとも次の施設は止まる。全部は無理でも、誰かが気づく。このまま戻れば、全部なかったことになる」
「だから反乱か」
「そう呼びたいなら呼べ」
「お前、死ぬぞ」
「知ってる」
即答だった。
一真は拳を握る。
「知っててやるのかよ」
「知らないふりをして生きるよりはましだ」
黒瀬の声に熱はない。
だが、もう引かない覚悟だけがあった。
一真は前へ一歩出る。
「送信を止めろ」
「止めれば、また子どもが消える」
「黒瀬」
「一真」
黒瀬は初めて、一真の名を呼んだ。
「お前は俺を止めに来た。だが、データを壊せない」
一真の目がわずかに揺れる。
「壊せば楽だ。命令にも従える」
「黙れ」
「それでも壊さない。お前はまだ、完全には向こう側じゃない」
一真の腕部装甲が軋んだ。
黒瀬は端末を操作する。
画面に文字が浮かぶ。
外部送信準備。
暗号化中。
送信開始まで、三十秒。
一真の声が低くなる。
「やめろ」
「もう遅い」
次の瞬間、一真が動いた。
◇
一真の踏み込みは速かった。
サーバーラックの隙間を一気に詰め、黒瀬の腕を取ろうとする。
黒瀬は正面から受けない。
身体を半歩ずらし、ラックの影へ逃げ込む。
金属音。
一真の腕部装甲がラックの角を叩き、火花が散った。
「逃げんな!」
「逃げてるんじゃない。時間を稼いでる」
黒瀬の声が暗がりから返る。
一真は舌打ちし、音のした方へ踏み込む。
だがそこにはもう黒瀬はいない。
足元のケーブルが引かれ、一真の体勢がわずかに崩れる。
黒瀬はその隙に端末へ戻ろうとした。
一真が横から回り込み、退路を塞ぐ。
「行かせるかよ」
黒瀬は拳を出さない。
短い肘で一真の腕をずらし、肩をぶつけて位置を入れ替える。
殺すための動きではない。
押しのけるための動きだ。
一真も同じだった。
爪を立てない。
急所を狙わない。
拘束しようとしている。
だが、二人とも血装状態だ。
軽くぶつかっただけで、机が歪み、床のパネルが浮く。
端末の表示が進む。
送信開始まで、二十二秒。
黒瀬が照明盤へ手を伸ばす。
一真がそれを止めようとする。
黒瀬の指が先に触れた。
部屋の明かりが落ちる。
赤い非常灯だけが残る。
サーバーラックの影が伸びる。
一真は呼吸を止めた。
音。
気配。
床を踏むわずかな重さ。
右。
一真は右へ飛び込む。
黒瀬の影がそこにあった。
一真の腕が黒瀬の肩を掴む。
「捕まえた」
「まだだ」
黒瀬は身体を沈め、一真の力をラックへ逃がす。
一真の腕がラックに食い込み、金属が歪んだ。
黒瀬はその下を抜ける。
一真が追う。
送信開始まで、十五秒。
黒瀬は端末へ手を伸ばす。
一真が背後から飛び込む。
今度は逃がさない。
一真の腕が黒瀬の胸部装甲を掴み、壁へ叩きつけた。
鈍い音が保管室に響く。
黒瀬の背中が壁にめり込む。
それでも、黒瀬の目は端末を見ていた。
「お前は、まだ壊してない」
一真の視線が端末へ動く。
壊せば止まる。
だが証拠も消える。
画面には、冷たい数字が表示されていた。
送信開始まで、十秒。
一真は黒瀬を押さえつけたまま、歯を食いしばる。
命令。
組織。
子どもたち。
南條の言葉。
啓介、ユリ。
全部が胸の奥で噛み合わず、嫌な音を立てていた。
送信開始まで、残り十秒。
一真はその数字の前で、初めて命令を憎んだ。




