第10話 終末のCountdown
送信開始まで、十秒。
記録保管室の端末に表示された数字が、赤く瞬いていた。
一真は黒瀬を壁へ押さえつけたまま、その数字から目を離せなかった。
壊せば止まる。
端末を叩き壊せば、黒瀬の送信は終わる。
南米第七施設の記録も、thejapan系財団の裏も、子どもたちの実験記録も、すべてここで止まる。
命令には従える。
だが、それは同時に、ここで見たものをなかったことにするという意味でもあった。
黒瀬は壁に背を打ちつけられながらも、目だけは静かだった。
「壊せ、一真」
その声には、挑発の色がない。
「それでお前は、命令に従える」
「黙れ」
「壊せば楽だ。俺も止まる。データも消える。全部、任務の範囲で片づく」
一真の指に力が入る。
黒瀬の胸部装甲が、軋んだ。
「けどな」
黒瀬は続けた。
「壊したら、お前も知ることになる。自分が何を守ったのかを」
一真の奥歯が鳴った。
「……黙れって言ってんだろ」
端末の数字が進む。
九秒。
八秒。
一真は端末を見た。
そして、拳を振り上げた。
黒瀬の目が、ほんのわずかに揺れる。
だが、一真の拳は端末へ向かわなかった。
その拳は、端末のすぐ横の壁に叩き込まれた。
金属壁がへこみ、火花が散る。
「送信は止める」
一真は低く言った。
「でもデータは壊さねえ」
黒瀬が息を呑む。
「お前も死なせねえ」
端末の数字がさらに進む。
七秒。
六秒。
黒瀬の口元が、わずかに動いた。
「甘いな」
「うるせえ」
「だから、お前はまだ戻れる」
一真は黒瀬を掴む手に力を込めた。
「俺が戻りたいかどうかなんて、今はどうでもいい」
五秒。
四秒。
一真は黒瀬の腕をひねり、端末から引き離そうとした。
だが、その瞬間、端末の表示が変わった。
送信準備完了。
分割送信開始。
「なっ……」
一真の目が見開かれる。
黒瀬は静かに言った。
「全部は無理でもいい」
三秒。
「一部でも外に出れば、誰かが見る」
二秒。
「誰かが疑う」
一秒。
「それだけでいい」
次の瞬間、端末の画面に細い進行バーが走った。
分割送信、開始。
一真は黒瀬を壁へ押さえたまま、叫ぶように言った。
「馬鹿野郎……!」
黒瀬は答えなかった。
ただ、端末の赤い光を見ていた。
◇
小児隔離区画へ向かう通路で、相良の端末が短く震えた。
彼女は足を止める。
画面に警告が浮かんでいる。
外部送信検知。
発信元:記録保管室。
対象識別:RC-01 / SHADE。
相良の目が、わずかに細くなった。
感情ではない。
判断が切り替わった目だった。
「外部送信を確認」
啓介が振り返る。
「何だと」
「記録保管室。発信元はSHADE」
鬼塚の顔色が変わる。
だがそれは驚きではない。
むしろ、来ると分かっていたものが来た時の顔だった。
相良は続ける。
「利敵行為を確認。私は処理に向かう」
啓介の目が鋭くなる。
「処理?」
「任務上の言葉よ」
「黒瀬をどうする気だ」
相良は答えなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
鬼塚が低く言う。
「てめえ……最初から黒瀬を救う気なんざなかったな」
相良は鬼塚を見る。
「救う必要がある対象ではない」
空気が冷えた。
鬼塚の拳が、ゆっくりと握られる。
「言いやがったな」
啓介が一歩前へ出る。
「誰の命令だ」
相良は端末に視線を落とす。
「あなたに答える必要はない」
「南條さんか」
相良は少しだけ間を置いた。
「それを受けているのは、剣城の方でしょう」
短い返答だった。
啓介の中で、何かが噛み合わなくなる。
南條は黒瀬を追えと言った。
だが相良は、処理と言った。
そして今、相良は一真が別の命令を受けていることを知っているような口ぶりだった。
同じ任務の中に、別の命令が走っている。
啓介はそれを感じた。
「相良」
啓介の声が低くなる。
「勝手な行動は許さない」
「勝手ではないわ」
相良は端末を操作した。
「外部流出阻止を最優先。記録保管室周辺の隔壁を閉鎖する」
鬼塚が画面を覗き込む。
そこに表示された項目を見て、目つきが変わった。
記録保管室周辺隔壁:閉鎖準備。
通路C-4:封鎖。
退避路B:認証制限。
対象:RC-01 / SHADE。
対象:BR-01 / GRAVE。
「……俺の識別コードまで入ってるじゃねえか」
相良は平然と答えた。
「あなたも監視対象よ」
「監視だと?」
「帰還可否を判断するための」
鬼塚の目つきが変わった。
「……てめえ、俺を帰す気もねえのか」
「状況次第ね」
「違うな」
鬼塚が一歩踏み出す。
「最初から、その“状況”を作る気だったんだろ」
その手が相良の端末へ伸びる。
だが、相良の方が速かった。
CHAINの鎖状兵装が床を滑る。
鬼塚の足首へ巻きつき、動きを一瞬だけ止めた。
鬼塚の重装が軋む。
「俺を止められると思ってんのか」
「止める必要はない」
相良は距離を取る。
「三十秒あれば、隔壁は閉じる。一分あれば、異形が記録保管室に到達する」
鬼塚の顔から、怒り以外の色が消えた。
「……黒瀬を餌にする気か」
「私は処理を完了させるだけ」
「てめえ……!」
鎖がさらに伸び、鬼塚の腕へ絡む。
だが、鬼塚は力任せにそれを引いた。
金属が嫌な音を立てる。
相良の眉が少しだけ動く。
鬼塚の力は、拘束を上回っている。
「その程度で、俺を縛れると思うなよ」
鬼塚がさらに一歩踏み込もうとした。
その間に啓介が割って入る。
「やめろ」
短い一言だった。
鬼塚は啓介を見る。
「啓介、お前分かってねえ。こいつは俺たちを帰す気がねえ」
相良は冷たく言う。
「任務に不要な感情は排除されるべきよ」
啓介の目が相良へ向く。
「人間を排除対象で数えるな」
「数えなければ、部隊は壊れる」
「もう壊れかけてるだろ」
その言葉に、相良は初めて黙った。
だが、沈黙は長く続かなかった。
端末が再び警告音を鳴らす。
記録保管室周辺、隔壁閉鎖開始。
◇
記録保管室の外で、低い警告音が鳴り始めた。
赤いランプが回転する。
『隔壁閉鎖開始。外部送信遮断準備』
一真は顔を上げた。
「ちっ……動きやがった」
黒瀬が壁に背を預けたまま、息を整える。
「相良か」
「ああ」
一真は黒瀬の腕を掴んだまま、端末を見る。
送信バーは進んでいる。
だが同時に、通信遮断の警告も走っている。
分割送信中。
外部中継接続。
遮断準備進行。
黒瀬は一真を見た。
「お前の任務は、俺を止めることじゃないな」
一真は答えない。
「俺を相良から守ることか」
「黙ってろ」
「図星か」
一真は黒瀬の腕をひねり、無理やり端末から引き離した。
「行くぞ」
「どこへ」
「ここから出る」
「送信はまだ終わってない」
「死ぬよりマシだ」
黒瀬は一真を見た。
「止まれば、また誰かが死ぬ」
「ここで死んでも同じだろうが!」
一真の声が荒くなる。
「お前一人が死んで、全部変わると思ってんのか」
「少なくとも、何もしないよりはいい」
「黒瀬!」
一真は叫んだ。
記録保管室の奥で、隔壁の駆動音が重く響く。
逃げ道が閉じようとしている。
端末の表示が切り替わった。
分割送信完了:12%。
外部中継へ接続。
残データ送信失敗。
黒瀬はその数字を見た。
ほんの一瞬だけ、目を閉じる。
「十分だ」
一真の顔が歪む。
「何が十分だ。お前、これで本当に戻れねえぞ」
「最初から、そのつもりだ」
「ふざけんな!」
一真は黒瀬を引きずるようにして扉へ向かう。
その時、通路側の隔壁が半分まで降りてきていた。
「走れ!」
黒瀬は抵抗しない。
だが、足取りは重い。
一真は黒瀬を突き飛ばすように前へ出し、自分もその後を追った。
隔壁が落ちる。
ぎりぎりで二人は通路へ転がり出た。
背後で、金属の壁が完全に閉じる。
一真は床に手をつき、息を吐いた。
「間に合った……」
だが、黒瀬は通路の先を見ていた。
赤い非常灯の向こう。
複数の影が動いている。
異形だ。
しかも、さっきの第一波より多い。
黒瀬が低く言う。
「相良は、俺たちを閉じ込めるだけじゃない」
一真も立ち上がる。
「ああ」
通路の奥から、爪が床を叩く音が近づいてくる。
「死ぬ位置に追い込む気だ」
◇
小児隔離区画の前で、警報が鳴った。
啓介たちの前方、さらに奥の隔壁ランプが赤から黒へ変わる。
相良の端末に、新たな警告が浮かぶ。
深部隔離区画、開放。
ロック異常。
暴走個体反応、多数。
鬼塚が顔を上げる。
「おい……何が開いた」
相良も一瞬だけ目を細めた。
「深部隔離区画」
啓介の表情が変わる。
「何体いる」
「数値が乱れている。正確には出ない」
「概算でいい」
相良は画面を見る。
そして、初めて少しだけ沈黙した。
「……多い」
その一言で十分だった。
館内放送がまた鳴る。
『……たすけて……』
今度は一つの声ではなかった。
『たすけて』
『いたい』
『おなかすいた』
『だして』
『くらい』
『たすけて』
複数の子どもの声が、重なって流れた。
鬼塚の顔が歪む。
「やめろ……」
啓介は前を見たまま、拳を握る。
相良が端末を見ながら言った。
「深部反応、多数。外部流出の危険あり。記録保管室方面にも反応が向かっている」
啓介が通信を開く。
「南條さん」
『こちらでも確認している』
南條の声にも、わずかに緊張が混じっていた。
『DARKNESS、深部反応多数。外部流出を阻止しろ』
啓介は一瞬だけ目を伏せた。
外部流出を阻止。
その言葉の意味は分かる。
止めろということだ。
たとえ、それが子どもの声を残した異形であっても。
その横で、相良は静かに言った。
「私はSHADEを処理する」
鬼塚が一歩前へ出た。
「行かせるかよ」
相良が鬼塚を見る。
「あなたも処理対象に近い」
「なら、今ここでやってみろ」
鬼塚の声は低い。
怒りが、すでに抑えきれなくなっている。
啓介は二人の間に立った。
「今はそれどころじゃない」
その時、通路の奥で何かが落ちる音がした。
ひとつではない。
ふたつ。
みっつ。
もっと多い。
小さな足音が、濡れた床を叩く。
赤い非常灯の向こうに、影が増えていく。
子どもの背丈。
細い腕。
裂けた口。
タグの残った首。
啓介は息を止めた。
背後には負傷者がいる。
支援班がいる。
まだ戦える通常兵もいる。
そして、通路の奥には、かつて子どもだったものたちがいる。
南條の声が通信から落ちる。
『DARKNESS、止めろ』
啓介はゆっくりと顔を上げた。
記録保管室では、黒瀬が一部の真実を外へ逃がした。
その代償を取り立てるように、施設の奥で、さらに大きな地獄が目を覚ました。




