第49話 黒血と赤血
地下室の空気は、血と薬品の匂いが混じっていた。
古い蛍光灯が、弱く瞬いている。 配管の奥で水が落ちる音がした。
啓介は壁にもたれたまま、浅く息を吐いた。 撃たれた傷は、まだ熱を持っている。 包帯の下で、痛みが脈打っていた。
それでも、啓介は立とうとした。
「一真を捜す」
鬼塚がすぐに睨む。
「寝てろって言ったはずだ」
「ユリを取り戻すには、あいつが必要だ」
「お前、その身体で何ができる」
鬼塚の声は低かった。
「今のままじゃ、ユリどころか自分の足でも立てねえ」
啓介は言い返せなかった。
分かっている。 今の自分は、まともに戦える状態ではない。 黒血を使えば、傷口から身体ごと裂けるかもしれない。
それでも、止まることはできなかった。
地下室の端末が鳴った。
黒瀬の通信だった。
『AS-02の反応が動いた』
啓介が顔を上げる。
「一真か」
『場所は、第七廃棄区画南側。旧地下搬送路だ』 『ただし、赤血反応が急上昇している』
相良の声が続く。
『暴走に近い』 『このままだと、一真くんは自分の血に呑まれる』
啓介は拳を握った。
一真も、まだ戦っている。 一人で。 TAIDAに追われながら。
啓介は壁に手をつき、ゆっくり立ち上がった。
鬼塚が舌打ちする。
「言っても聞かねえ顔だな」
「止めても行く」
「ああ、分かってる」
鬼塚は立ち上がり、啓介の腕を掴んだ。
「なら、倒れる前に肩を貸してやる」
啓介は小さく頷いた。
「悪い」
「謝るな」 「そのかわり、あの牙の兄ちゃんと戻ってこい」
◇
旧地下搬送路。
そこは、かつて物資を運ぶために作られた地下の通路だった。 今は使われていない。 天井の照明は半分以上が落ち、床には古いレールと錆びた搬送台が残っている。
その暗がりの中で、一真は膝をついていた。
呼吸が荒い。 肩で息をするたび、血が床へ落ちる。
FANGの外殻は欠けていた。 腕の装甲は割れ、頬にも傷が走っている。
周囲には、TAIDAの作戦員が倒れていた。
だが、まだ終わっていない。
通路の奥から、さらに無人兵器が現れる。 捕獲用のワイヤー。 鎮静弾。 赤血反応を抑え込むための拘束具。
端末音声が響いた。
『AS-02』 『赤血反応、不安定』 『再捕獲優先』 『AS-01抑制候補として再調整』
一真は低く笑った。
「まだ俺を、あいつの首輪にする気かよ」
胸の奥が熱い。
赤い血が騒いでいる。 怒りに反応し、痛みに反応し、自分の意思より先に身体を動かそうとする。
FANGの外殻に、赤黒い線が走った。
爪が伸びる。 牙のような装甲が肩から広がる。
赤血が、身体を喰い上げていく。
「ふざけんな……」
一真は立ち上がった。
「俺は、誰かの首輪じゃねえ」
無人兵器が一斉に動いた。
一真は吠えるように前へ出た。
赤い爪が、捕獲ワイヤーを切り裂く。 足元のレールが抉れ、壁に赤い爪痕が走る。 鎮静弾が肩に刺さるが、一真は止まらない。
敵を倒している。
だが、止まれない。
赤血が次の獲物を探している。
倒れた作戦員へ、赤い爪が向きかけた。
一真の目が揺れる。
「違う……」
自分の腕なのに、止まらない。
「俺は……」
爪が振り下ろされようとした、その時。
黒い外殻が割って入った。
啓介だった。
赤い爪が、啓介の腕に食い込む。 黒い血装が軋む。
一真の目が見開かれた。
「啓介……!」
啓介は痛みに顔を歪めながらも、一真の腕を押さえた。
「止まれ、一真」
「来るな……!」
一真の声が震える。
「今の俺は、止められねえ!」
啓介の傷口から血が滲む。 黒血が反応した。
壊せ。 押さえ込め。 赤血ごと砕け。
胸の奥で、黒血が囁く。
啓介の腕に黒い線が走る。
鬼塚が背後から叫んだ。
「啓介、呑まれるな!」
通信越しに相良の声が飛ぶ。
『黒血を出しすぎないで!』 『今の傷で暴走したら戻れない!』
啓介は歯を食いしばった。
黒血を消すことはできない。 だが、呑まれはしない。
壊すためではなく、受け止めるために使う。
啓介は一真の腕を掴んだまま、低く言った。
「一真」 「お前は俺を止めるために作られたんじゃない」
一真の顔が歪む。
「じゃあ何だよ!」
赤血がさらに膨れ上がる。
「俺は何のためにここにいる!」 「お前を殺すためか!」 「お前が壊れた時に、始末するためか!」
啓介は首を振った。
「違う」
「何が違う!」
一真の声が地下搬送路に響いた。
「俺はAS-02だ」 「AS-01抑制候補」 「お前が暴走した時、殺すための牙だ」
その言葉は、一真自身を傷つけていた。
啓介は一歩近づいた。 赤い爪が、黒い外殻を削る。 撃たれた傷が開く。
それでも、啓介は退かなかった。
「お前は俺を殺すための牙じゃない」
一真が睨む。
「じゃあ、何だ」
啓介は答えた。
「俺が壊れそうな時に、引き戻す牙だ」
一真の赤血が、一瞬だけ揺らいだ。
啓介は続ける。
「お前が決めろ」 「TAIDAじゃない」 「俺でもない」
地下搬送路の奥で、無人兵器が再起動する音がした。
黒瀬の声が通信に入る。
『啓介、後方から増援だ』 『時間がない』
鬼塚が前に出る。
「話し合いはそこまでだ」 「来るぞ」
無人兵器と作戦員が、再び迫ってくる。
一真の赤血が反応する。
敵を裂け。 全部、壊せ。
その衝動が一真の中で膨れ上がる。
「くそ……また……」
啓介の黒血も反応した。
守れ。 壊せ。 奪われる前に潰せ。
黒と赤が、互いに暴れようとする。
啓介の視界が暗く染まりかけた。
その時、一真の手が啓介の腕を掴んだ。
「勘違いすんなよ」
一真は苦しげに笑った。
「お前を殺すためじゃねえ」
赤血が啓介の黒血へ触れた。
喰うのではない。 縛るのでもない。
暴れようとする黒血の流れを、横から逸らす。
一真の赤血が、黒血の暴走を受け止めた。
相良が息を飲む。
『赤血反応が変わった……』 『抑制じゃない』 『同調してる』
黒瀬の声も、驚きを隠せなかった。
『AS-02は、AS-01を殺すための抑制体じゃない』 『支える側へ、反応が変わっている』
一真は啓介の前に立った。
「お前を戻すために」 「俺はここにいる」
啓介は息を吐いた。
黒血が静まる。
完全に消えたわけではない。 だが、暴走の流れが少しだけ変わった。
啓介は一真の背を見る。
「……頼む」
「頼まれたくはねえな」
一真は赤い爪を構えた。
「でも、引き受けてやる」
◇
旧地下搬送路に、黒と赤の血装が走った。
啓介は前へ出る。 黒血は敵の攻撃を受け止め、道を開く。
だが、壊し尽くさない。
一真が横を抜ける。 赤血の爪が、拘束具と捕獲ワイヤーだけを切り裂く。
殺すためではない。 戻るために進む。
鬼塚が重い拳で無人兵器を叩き潰した。
「やっと揃いやがったか」 「遅えんだよ、ガキども」
一真が叫ぶ。
「誰がガキだ!」
「今それ言ってる時点でガキだろうが!」
啓介はわずかに笑った。
その瞬間、作戦員の一人が啓介の背後へ回る。 鎮静弾の銃口が向けられた。
一真が反応する。
赤血が走り、銃だけを弾き飛ばす。
啓介は振り返らなかった。
信じていた。
一真がそこにいると。
啓介の黒血が壁のように広がり、前方の銃撃を受け止める。 一真の赤血が、その黒血の端を走り、暴走しかける流れを切り替える。
黒と赤。
壊す闇と、噛み止める牙。
二つの血が、初めて同じ方向を向いていた。
黒瀬の通信が入る。
『今だ』 『搬送路の防衛系統を三秒だけ落とす』
照明が消える。
三秒。
啓介と一真が同時に踏み込んだ。
黒血が正面の防壁を砕く。 赤血が奥の拘束装置を切断する。 鬼塚の拳が最後の無人兵器を床へ叩き伏せた。
照明が戻った時、TAIDA部隊は沈黙していた。
一真は肩で息をしていた。
赤血の線が、ゆっくりと引いていく。
「……止まった」
一真は自分の手を見た。
「俺の意思で」
啓介は頷いた。
「それがお前の力だ」
一真は顔を逸らした。
「気持ち悪いこと言うな」
「事実だ」
「余計に気持ち悪い」
鬼塚が鼻で笑った。
「元気そうで何よりだ」
◇
黒い輸送車両の中で、ユリは座っていた。
手首には拘束具。 首元には制御具。 周囲には、TAIDAの職員が無言で立っている。
車両の窓は塞がれていた。 外の景色は見えない。
それでも、ユリには分かっていた。
戻されている。
黒層へ。 あの黒い場所へ。
モニターに文字が表示される。
SP-07。 追憶領域、異常活性継続。 罪状認識、再固定不能。 DARKNESSα護衛下で黒層移送。
ユリはぼんやりと呟いた。
「私が……残った……」
職員が反応する。
「再発語確認」 「追憶領域の異常、継続」
車両の奥で、黒い影が動いた。
DARKNESSα。
天城総司が、ユリの前に立っていた。
「SP-07」 「感情反応は任務に不要」
ユリはゆっくり顔を上げた。
その瞳は、まだ揺れている。 だが、完全に空ではなかった。
「……不要なら」
小さな声だった。
「どうして、痛いの」
天城は答えない。
ただ、無感情な瞳でユリを見下ろしていた。
◇
旧地下搬送路の奥。
啓介たちは、ようやく息を整えていた。
一真は壁に背を預け、深く息を吐く。 赤血は収まりつつあった。 だが、完全に消えたわけではない。
啓介もまた、傷口を押さえながら立っていた。
鬼塚が呆れたように言う。
「お前ら二人とも、立ってるだけで迷惑だな」
一真が顔をしかめる。
「助けられた相手に言う台詞かよ」
「助けたから言ってんだ」
通信が入る。
黒瀬の声だった。
『全員、聞こえるか』
啓介は端末を見る。
「聞こえてる」
『ユリが黒層へ戻された』 『DARKNESSαが護衛についている』
その場の空気が変わった。
相良の声が続く。
『次が最後の接続になる』 『私が、ユリに本当の声を届ける』
啓介は目を閉じた。
ユリの声が蘇る。
私が、残った。
それは、まだ完全な記憶ではない。 だが、追憶の真実は動き始めている。
今なら届くかもしれない。
いや。
届かせるしかない。
鬼塚が啓介を見る。
「まだ動く気か」
啓介はゆっくり顔を上げた。
「今度は、一人じゃない」
一真が隣に立つ。
「黒血が暴れたら、俺が噛み止める」
啓介は小さく笑った。
「頼む」
一真は顔を逸らす。
「二度も言うな」
鬼塚が肩を回した。
「なら、行くぞ」 「黒層に戻って、全部取り返す」
啓介は頷いた。
黒血は、壊すためだけの闇ではない。
赤血は、殺すためだけの牙ではない。
奪われたものを取り戻すために、 二つの血は、初めて同じ方向を向いた。
その先に待つのは、黒層。
そして、ユリの中に眠る真実だった。




