第48話 追憶の真実
雨の音が、遠くで響いていた。
啓介の意識は、闇の底に沈みかけていた。 身体が重い。 撃たれた場所が、熱を持って脈打っている。
雨に濡れたコンクリート。 街灯の白い光。 ユリの震える銃口。
そのすべてが、途切れ途切れに浮かんでは消える。
「ユリ……」
掠れた声が漏れた。
誰かが、啓介の身体を担いでいた。 重い足音。 雨水を踏む音。 荒い呼吸。
「喋るな」
鬼塚の声だった。
「お前が死んだら、あの女は本当に戻れねえ」
啓介は目を開けようとした。 だが、まぶたが重い。
背後で車両のライトが揺れている。 TAIDAの回収部隊が追ってきていた。
鬼塚は啓介を担いだまま、廃棄区画の奥へ走る。 崩れかけた倉庫の横を抜け、錆びたフェンスを蹴り倒し、雨水が流れ込む地下排水路へ飛び込んだ。
暗い地下に、水音が反響する。
鬼塚は啓介を壁際に下ろした。 啓介の胸元を乱暴に開き、銃創を確認する。
「……ちっ」
鬼塚は舌打ちした。
「急所は外れてる」 「あの女、最後に手元をずらしたな」
啓介の瞳が、わずかに動いた。
「ユリが……」
「ああ」 「殺すつもりなら、今ので終わってた」
鬼塚は布を裂き、傷口を強く押さえた。
「まだ完全には壊れてねえ」 「だから、今は死ぬな」
啓介は震える息を吐いた。
「まだ……戻れる……」
それだけ言って、意識が落ちた。
◇
ユリは、黒い車両の中に座らされていた。
雨音は、分厚い装甲越しにも聞こえてくる。 手には、まだ銃の冷たさが残っていた。
撃った。
啓介を撃った。
確かに、自分が引き金を引いた。
なのに、胸の奥が空っぽにならない。 復讐を果たしたはずなのに、痛みは消えない。
むしろ、深くなっている。
啓介の声が、何度も蘇る。
『お前の罪じゃない』 『撃たせたのは、TAIDAだ』
ユリは膝の上で手を握った。
違う。
そう思いたい。 啓介が罪人でなければ、自分が撃った意味が崩れてしまう。
でも。
撃たれた啓介は、自分を責めなかった。
置いていった人なら、なぜ。 裏切った人なら、なぜ。 壊した人なら、なぜ。
あんな目をしたのか。
車内の端末が起動する。 女性職員の声が、無機質に響いた。
「SP-07、任務ログ確認」
モニターに文字が並ぶ。
SP-07。 発砲確認。 対象AS-01、損傷。 排除未完了。
続いて、赤い警告が表示される。
発砲角度、予定値より逸脱。 急所回避。 情動反応、上昇。 罪状認識、揺らぎ検知。
女性職員の声が低くなる。
「急所を外している」 「なぜ命令通りに撃たなかったのですか」
ユリは答えない。
答えられなかった。
自分でも分からない。
撃つ瞬間、銃口がわずかにずれた。
それが自分の意思だったのか、身体に残った記憶だったのか、ユリには分からない。
別の職員が言う。
「AS-01との接触が原因と思われます」 「対象の発言が、罪状固定に干渉しています」
女性職員が短く命じた。
「再補正を行います」 「SP-07を処理室へ」
ユリの首元の制御具が赤く点滅する。
意識が重くなる。
ユリは窓の外を見た。 雨に濡れた街灯が流れていく。
その光の奥で、啓介が倒れていた。
置き去りにされた。
啓介の罪。
だから撃った。
そうでなければ、撃った自分が崩れてしまう。
けれど、彼は抗いもせず、すべてを受け止めた。
罪人なら、なぜあんな目をしたのか。
「……違う」
ユリは小さく呟いた。
何が違うのか、自分でもまだ分からなかった。
◇
啓介が目を覚ました時、そこは薄暗い地下室だった。
天井の古い蛍光灯が、弱く点滅している。 壁には配管が走り、床には応急処置用の器具が散らばっていた。
身体を起こそうとして、激痛が走る。
「ぐっ……」
「動くな」
鬼塚の声がした。
啓介が顔を向けると、鬼塚が壁際に座っていた。 肩口に包帯を巻き、片腕の血装外殻はところどころ欠けている。
それでも、目は鋭い。
「起きたか」 「死に損ない」
啓介は息を整えた。
「ユリは……」
「回収された」
鬼塚は短く答えた。
啓介の拳が震える。
「追わないと……」
「今動いたら死ぬ」
鬼塚は啓介を睨んだ。
「それに、あの女はまだ終わってねえ」
啓介の目が揺れる。
「見たのか」
「ああ」
鬼塚は頷いた。
「撃った後、二発目を撃てなかった」 「お前を見て、迷ってた」
啓介は黙った。
雨の中で、ユリの銃口が下がった瞬間を思い出す。 あの瞳。 震えた唇。 言葉にならなかった声。
ユリは、まだ自分を殺せなかった。
なら。
「まだ届く」
啓介は低く言った。
鬼塚が鼻で笑う。
「届かせるには、お前が立ってなきゃ話にならねえ」
啓介は傷口を押さえた。
痛みは深い。 だが、生きている。
ユリが急所を外したから。
その事実が、啓介の中に小さな光を残していた。
◇
ユリは処理室の椅子に固定されていた。
白い光。 冷たい拘束具。 耳元で鳴る小さな電子音。
目の前のモニターには、いつもの映像が流れている。
啓介が背を向ける。 ユリだけが残される。 加工された声が重なる。
『置いていく』 『邪魔だ』
女性職員の声が続く。
「あなたは置き去りにされました」 「AS-01は、あなたを利用しました」 「罪を確認してください」
ユリは目を閉じる。
だが、閉じた瞼の裏にも、啓介の顔が浮かぶ。
雨の中で倒れていた啓介。 撃った自分を責めなかった啓介。 血を流しながら、それでも手を伸ばした啓介。
『お前の罪じゃない』
ユリの指が震える。
「違う……」
女性職員が眉を動かす。
「SP-07、何が違うのですか」
ユリは答えられない。
モニターの映像が強制再生される。 啓介の加工音声が繰り返される。
『置いていく』 『置いていく』 『置いていく』
頭の奥が痛い。
ユリは歯を食いしばった。
違う。 その声ではない。
本当の啓介の声は、もっと苦しそうだった。 もっと必死だった。 もっと、優しかった。
雨の音が聞こえる。
いや、違う。
これは雨ではない。
記憶の奥にある音だ。
警報。 足音。 遠くで叫ぶ声。
ユリの中で、何かが軋む。
映像が揺れた。
啓介の背中。 自分の手。 震える呼吸。
そして、自分の声。
『行って』
ユリの瞳が開いた。
モニターの映像が乱れる。
『私が残る』
それは、誰かに残された記憶ではなかった。
自分で選んだ記憶だった。
「……私が」
ユリの頬を涙が伝う。
「私が……残った……?」
処理室の警告灯が赤く点滅した。
記憶固定率、低下。 追憶領域、自己再生。 AS-01関連記憶、再構築不能。
女性職員の顔色が変わる。
「再処理を強めて」 「このままではアップデートしたデータが崩れる」
装置の出力が上がる。
首元の制御具が熱を持った。 ユリの身体が小さく跳ねる。
モニターに再び偽の映像が流れる。
『置いていく』 『邪魔だ』 『彼に残された』
ユリは息を詰まらせる。
だが、その奥で、別の声が消えない。
『行って』 『私が残る』
その声は、誰かのものではない。
ユリ自身の声だった。
◇
地下室の端末が、短く鳴った。
鬼塚がすぐに銃を取る。
「誰だ」
ノイズの奥から声がした。
『鬼塚……生きてるか』
黒瀬だった。
鬼塚が端末を掴む。
「こっちの台詞だ」 「よく生きてたな」
『お互い様だ』 『啓介は』
鬼塚は啓介を見る。
「撃たれた」 「だが、まだ息はある」
『急所は?』
「外れてる」 「あの女が外した」
少しの沈黙。
次に聞こえたのは、相良の声だった。
『啓介、聞こえる?』
啓介は身体を起こそうとする。
鬼塚が止めるが、啓介は端末へ手を伸ばした。
「相良……無事か」
『ええ』 『黒瀬と一緒よ』 『一真とはまだ合流できていないけれど、生体反応は拾えている』
啓介の表情がわずかに変わる。
「一真は生きてるのか」
黒瀬が答えた。
『たぶんな』 『だが、赤血反応が不安定だ』 『TAIDAもAS-02を追っている』
啓介は息を飲んだ。
一真も追われている。 ユリだけではない。
相良が続ける。
『それと、ユリの発砲ログを拾ったわ』 『発砲角度が予定値から逸脱している』 『急所を外していた』
啓介は目を閉じた。
ユリが外した。
その事実だけで、まだ立てる気がした。
相良の声は、少し震えていた。
『ユリの心はまだ完全に壊されていない』 『でも、TAIDAは再処理を始めているはずよ』 『次に接続できれば、私が本当の記憶へ声を届ける』
啓介は静かに答えた。
「次は、届かせる」
鬼塚が低く言う。
「その前に、お前は寝ろ」
黒瀬が通信越しに短く笑った。
『鬼塚に同意だ』 『啓介、お前が倒れたままじゃ話にならない』
啓介は唇を噛んだ。
休んでいる時間などない。
だが、倒れたままでは届かない。 それも分かっている。
相良が言った。
『まず一真を拾う』 『赤血が不安定なままだと、次の戦いで危ない』 『啓介、あなたの黒血もまだ危険よ』
黒瀬が続ける。
『第七廃棄区画の南側に、古い地下搬送路がある』 『そこを経由すれば、AS-02の反応に近づける』
鬼塚が立ち上がる。
「まずは牙の兄ちゃんを拾う」 「それから、あの女を取り戻す」
啓介は小さく頷いた。
ユリ。 一真。 黒瀬。 相良。 鬼塚。
まだ、全員は終わっていない。
◇
ユリは処理室で目を閉じていた。
装置はまだ動いている。 モニターには、偽の記録が流れ続けている。
『置いていく』 『邪魔だ』 『彼に残された』
その声は、何度もユリを縛ろうとする。
だが、今はその奥に、別の記憶があった。
暗い通路。 警報の赤い光。 啓介の背中。
自分の手が、啓介を押した。
『行って』
声が震えている。
でも、確かに自分の声だ。
『私が残る』
ユリの頬に、また涙が流れた。
「私が……残った……」
それは、まだ小さな声だった。 すぐに装置の音に飲まれそうなほど弱い声だった。
それでも、消えなかった。
警告表示が次々と走る。
SP-07。 追憶領域、異常活性。 罪状認識、低下。 再固定処理、必要。
女性職員が端末を握りしめる。
「DARKNESSαを待機させて」 「SP-07を、もう一度黒層へ戻す」
ユリは目を開けた。
まだ、すべてを思い出したわけではない。 啓介を完全に信じられたわけでもない。 痛みも、怒りも、まだ胸の奥に残っている。
それでも。
置いていかれた記憶の奥で、 別の真実が目を覚まし始めていた。
撃ったはずの銃弾は、啓介だけを傷つけたわけではなかった。
それは、ユリの中に刻まれた偽りの記憶も撃ち抜いていた。
置いていかれた記憶。
その奥で、追憶の真実が息を吹き返す。
――私が、残った。




